幕間5:穢れなき愛を捧げる


 最初にあったのは、純粋な善意だった。

 それは遠い過去。

 もう時の彼方に過ぎ去ってしまった日々を、その悪魔は追想する。

 ――『彼』は、かつて外界から海を渡った者の一人だった。

 《巨人》に踏み荒らされ、恐ろしい鬼どもの戦乱が終わらぬ地獄。

 多くの者が、明日をも知れぬ我が身に絶望するだけの日々。

 そこから離れ、新天地を目指して旅立つ。

 先は見えずとも、それは紛れもなく希望を探す旅だった。

 偉大なる神の下に集った人々。

 彼らが築き上げた移民船は、嵐の壁へと挑んだ。

 誰もが心折れかけた。

 恐ろしい暴風と逆巻く海。

 神の力で守られながらも、とてもそれを越えられるとは思えなかった。

 当時は無力だった『彼』は、ただ無心に祈る他なく。

 故にこそ、断絶の境を突破した時には滂沱の涙を流した。

 ――これで、これでやっと救われる。

 きっと、船に乗った皆が同じことを考えたはずだ。

 《巨人》も鬼もいない新たな大地。

 《人界》に縋らずとも、《庭》に頼らずとも。

 その地であれば、弱い自分たちもきっと生きられる。

 そう誰もが信じていた。

 けれど、その土地には既に「支配者」がいた。

 先ず最初に接触したのは、《巨人》とは異なる恐ろしい生き物。

 竜と呼ばれる種族だった。


『――よもや、あの《断絶流域》を越える者が現れるとはな』


 移民船の者たちを見下ろして笑うのは、一頭の竜。

 傲慢なまでに眩い黄金を纏った、《巨人》よりも遥かに恐ろしい存在。

 人々は恐怖した。

 こんな怪物がいるとは聞いていない。

 彼らを導いた神も、海を越えた事で力の大半を失ってしまっていた。

 移民船の者たちには、竜に対抗する術はない。

 重い絶望が伸し掛かってくる事に、目の前が暗くなり――。


「……待てよ、《最強最古》。

 弱いものイジメは格を貶めるぞ」


 そんな人々を守ったのは、一人の男だった。

 黒を纏った男だ。

 若々しく、けれど深い年月を過ごした厚みも同時に兼ね備えた奇妙な印象。

 興味半分で移民らを弄ぼうとした、恐るべき竜ども。

 そんな暴君らの前に、物怖じする事なく立ちはだかったその背中。

 ――救世主メシアだ。

 ごく自然に、その単語を思い浮かべた。

 黄金の竜と黒衣の男。

 彼らは暫し睨み合い、言葉を何度か交わしたようだ。

 極限状況の中、その細かい内容までは『彼』も記憶はしていなかった。

 間違いないのは、男が竜に対し交渉を持ちかけている事だけ。


「一先ず、この者たちは《始祖》の庇護下に置く。

 必要ならば改めて話し合いの場を設けるが、何か異論はあるか?」

『無いな。もとより、私がこの者たちに抱くのは「興味」以上のものはない。

 その程度のは呑み込もう。

 ……だが、私以外の者たちがどうするのか。

 そこまでは預かり知らぬことだが、それでも構わんな?』

「……下の兄弟たちの監督ぐらいはして欲しいものだがね、長子殿?」

『竜の長子などと言っても、そこまでの権威はないものでな』


 唸る男に対し、竜は白々しく笑っていた。

 一先ず、その場はそれで収まった。

 竜は去り、後は移民船の代表――元は神だった女と、黒い男が言葉を交わした。

 その時点では、『彼』は大勢の移民の一人に過ぎない。

 故にただ、その姿を遠巻きに見ているだけだった。

 ――救世主。

 恐るべき死の運命から、多くの者を救い出した。

 何らかの思惑はあったのだろう。

 しかし、あの黄金の竜がどれほどの存在なのかを知れば。

 打算でその前に立つなど、どれだけ無謀な事だったのか自然と理解できる。

 善意がなければ不可能だ。

 黒衣の男はただ、黙って見ている事ができなかった。

 損得の計算など言い訳に過ぎず、その行為にあったのは純粋な善意だった。

 『彼』もそれを分かっていた。

 だからこそ、叶うなら自分の人生をこの男のために捧げようと誓っていた。

 ……とはいえ、『彼』は無力な人間の一人。

 それは見果てぬ夢で、叶わぬ望みに過ぎない。

 最初は間違いなく、そう思っていたのだ。


「弟子を募ろうと思う。

 俺たちは不老不死だが、この地に古竜どもがいる以上は万一があり得る。

 だから知識や技術の伝承は必要だと考えてる」


 それもまた、純粋な善意の発露だった。

 少なくともその時点では、《始祖》たちの得た不死は揺るぎなかった。

 彼らは《人界》の神々と同様に永遠を生きられる。

 それでも、万が一を考えるなら知識と技術を保存する行いは必要だろう。

 ただそれ以上に、無力な民に魔法の業を授ける事。

 《始祖》の庇護無しでもこの地で生きられるように、必要なものを施す。

 それこそが黒衣の男の考えだった。

 基本的には志願制だが、才能ある者には男の方から声をかけた。

 その中に、『彼』も含まれていた。


「良いな、お前。かなり強い魔力を持ってる。

 後は物覚え次第だが、これだったら俺の一番弟子ぐらいにはなれるぞ。

 どうだ? 人間なら長くても百年ぐらいだ。

 少しぐらい、俺に付き合わないか?」


 救い手にそう誘われて、断れる道理などなかった。

 『彼』は巡り合わせと男――自らの師に、これ以上ない感謝を捧げた。

 いつか訪れる死の運命に怯えるだけの日々。

 何の意味もなく、価値もない。

 《巨人》に踏み潰されて死ぬか、鬼に食い殺されて死ぬか。

 その二つのどちらかが訪れるだけの生涯――だったはずなのに。

 気が付けば、『彼』は自らの人生を素晴らしいモノだと感じるようになっていた。

 『彼』は兎に角全力を尽くした。

 魔導の御技に触れるのは初めてで、だからこそ一つ一つに熱意を燃やした。

 楽しい。嬉しい。喜ばしい。

 今まで知らなかったモノが、自らの血肉となっていく。

 以前はできなかった多くの困難を、自分の知恵と力で克服できる。

 最初は戯れに近かった師も、『彼』の熱に当てられるように真剣味を増していく。

 『彼』にとって、最後が一番の喜びだったかもしれない。

 ……そこにあったのもまた、純粋な善意だ。

 幸福な日々が永遠に続く。

 無邪気に信じていた『彼』は、程なく絶望を味わう事になる。


「――俺たちは、偉大な個人じゃなかった」


 『彼』に希望を与えた救世主。

 その口から吐き出された、初めての絶望だった。

 かつて、《始祖》の王が竜の王と取引して手に入れた「不死の秘密」。

 それを基にして構築された「不死の法」。

 施した者の魂は永遠となり、完全な不老不死が実現できる。

 術式に一切瑕疵はなかった。

 「不死の法」の構築を主導した師にも、落ち度は一つもない。

 ただ、誰も気付かなかった落とし穴。

 どれだけ長くても、良くて百年ほどしか生きられない人間。

 生物として、そもそも永遠に「耐えられる」構造をしていなかったのだ。

 この時点で、《始祖》の多くは千年近くを生きていた。

 彼らの中で、長すぎる生に自我を崩壊させる者が現れ出した。

 師の苦悩は、『彼』では想像するに余りある。

 ようやく辿り着いたはずの理想。

 《始祖》たちにとっては悲願であった完全な不老不死。

 しかしそれに、他ならぬ自分たちが耐えられるようできていなかった。

 なんて愚かな茶番劇なのか。


「…………いや、まだ。まだだ。

 諦めるには、何もかも早すぎる」


 絶望の淵。

 既に狂った《始祖》を、その王たる偉大な魔法使いが介錯して回っている。

 辛うじて正気を保った《始祖》は、事態の解決に動いていた。

 だがその成果は芳しくない。

 永遠の狂気から逃れる術は見つからず、日に日に人間性を削られ続ける。

 想像を絶する地獄に沈みかけながら。

 『彼』の救世主は、それでも足掻く事を選んだ。

 ――できる事ならば何でもする。

 ――自分は、あの日の貴方に魂を救われた。

 ――今更、死ぬ事を恐れたりはしない。

 ――だからこの身ならば、幾らでも好きに使って欲しい。

 どの言葉が、『彼』の口から出たものだったか。

 或いは『彼』だけは何も言わず、ただその場にいただけかもしれない。

 『彼』以外の魔法使いの弟子たち。

 その全員が、まったくの善意で《始祖》の救済に我が身を差し出した。

 永遠を手にしながら、狂った果ての人間性の死を恐れる者たちを。

 永遠ならざる定命の者たちが、死を賭して救いたいと願う。

 これほど皮肉な構図が他にあろうか。

 言葉にしたかは兎も角、『彼』も気持ちは同じだった。

 ――そして、その「実験」が行われた。


「不死化のサンプルが、俺たち十二人だけでは少な過ぎる」


 ある時、師がそんなことを言い出した。

 魂が不滅化し、不死となった人間。

 それが年月の経過に対して、どんな変化や反応を起こすのか。

 より多くのサンプルを検証できれば、問題解決の糸口が見えるかもしれない。

 その「思い付き」を検証するために、多くの弟子が志願した。

 実験の内容は極めて単純シンプル

 不死化した被験者たちを、時間流を大幅に加速させた結界に閉じ込める。

 内部時間が千年を経過した時点で結界は開放される。

 恐らく、被験者は誰も助からない。

 それは師も弟子も、双方ともに分かっていた。

 分かった上で志願者を募り、多くの者が名乗りを上げた。

 そこには『彼』も含まれていた。

 今更命は惜しくない。

 救世主の助けになれるなら、魂まで塵になっても構わない。

 真実そう考えていたし、自分の命運もここまでと覚悟していた。

 そして、実験は滞りなく行われ――。


「…………結局、意味はなかったがね」


 呟く。

 『彼』――今は仮にカーライルと名乗る伊達男。

 追憶の水底から、現実に意識を引き戻す。

 男がいるのは荒野の真ん中。

 やや離れた場所は戦場となっている。

 荒れ狂う悪神と、それを抑えるために戦う者たち。

 それを眺めながら、自らは知覚の外側に立つ。

 言語の王、《古き王》の一柱たるバベルの権能だった。

 意思の伝達を司るその力。

 逆用する事で「誰にも如何なる意思も伝わらない」状態にできる。

 あらゆる感知から外れた場所で、伊達男は事態を俯瞰する。

 恐らく、状況は間もなく終わるはずだ。


「もう少し頑張れるかと思ったが。

 意外と大した事はなかったな、《秘神》様は」


 笑う。

 伊達男は口角を上げて、鮫のように笑った。

 嘲りはない。

 そもそも感情の温度がかなり低い。

 期待もしていないから、別段失望もしていないと。

 燃え尽きた灰の表情でカーライルは見ていた。

 ……まぁ、これも長く生き過ぎた弊害って奴だな。

 状況を眺めながら、意識がまた少し追憶へと傾いた。

 無意味で愚かな実験の結果。

 大方の予想通り、志願した弟子は生命として完全にを起こしていた。

 狂気によって魂の整合性を保てなくなったのだろう。

 死なず、けれど生きてもいられなくなった。

 解けた結界の内側は、煮崩れた血と肉の海と化していた。

 単純に「気が狂った」程度で済んでいる《始祖》は、まだ耐性があったのだ。

 そして人間は、最初から永遠に生きられるよう設計デザインされていない。

 結局、それが結論の九割だった。

 ……そう、これだけで済んでいたら。

 無意味な再確認のために、多くの犠牲を出しただけで済んだ。


「だが――

 私だけは、千年の時間に耐えられた。

 耐えてしまった」


 呟いて、カーライルは笑う。

 空虚な自嘲は、果たして誰に向けたものか。

 たった一人だけは、千年を一切の悪影響なく過ごす事ができた。

 それで分かったのは、例外的に永遠に耐えられる個体も存在する事だけ。

 例外はあくまで例外に過ぎず、再現性はなかった。

 《始祖》を救う手立てにはならず、数多の犠牲は無価値になった。

 それでも、《黒》と呼ばれた救世主は止まらない。

 救世主を絶望させてしまった悪魔は、何も言わずにその傍らにいた。

 そうして、更に数千年の月日が流れる事になる。


「私は私のまま、変わらず此処にいる。

 貴方がどれだけ変わり果てても、私の魂はあの日の事を覚えている」


 あの日、救われた祈りは色褪せず。

 けれど恩人であり、師であり、友人でもある男は変貌してしまった。

 狂って、壊れて。

 もうかつて抱いた理想も志も失って。

 それでも尚、諦める事だけは拒絶し続ける灰色の残骸。

 どうしようもない。

 悪魔が囁かずとも、救世主の魂は奈落の底に落ちている。

 嗚呼、なんと救い難い話だろうか。


「……私は今日、死ぬだろうな」


 予感があった。

 灰の魔法使いから託された命令は、破滅の引き金そのもの。

 成否に関わらず自分は死ぬ。

 別に、生死それ自体は何とも思わなかった。

 むしろここまで、生き恥を晒し過ぎたぐらいだ。

 ただ、壊れた彼を一人残す事。

 それだけが気掛かりだった。


「ま、それも運命か」


 笑う。

 悪魔は己の終焉を前に、どこか晴れやかに笑っていた。

 救われたあの日から、数千年。

 傍らにあり続けられた幸運だけを悪魔は思う。

 そして、誰にも伝わる事のない言葉を口にした。


「お別れだ、ウィル。

 私は私なりに、貴方の事を愛していたよ」


 数千年、誰にも語らずにおいた想い。

 もう当の本人さえ忘れてしまった、魔法使いの名を唱えながら。

 呪いに等しい愛を歌って、悪魔は笑った。

 破滅が訪れる時まで、あと僅か。


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