396話:破滅の記憶


 ……戦いが始まった。

 レックスたちと、あの《秘神》とかいうクソ野郎との。

 船の体当たりを喰らっても、相手は平然と巨大化しやがった。

 それだけ見れば随分と絶望的な光景だった。

 だが、戦って勝つのはレックスたちだ。

 オレはごく自然と確信していた。

 多分、このままやってもあの《秘神》は普通に倒せちまうだろう。

 けどそれだけじゃダメだ。

 それだけじゃあ救われない奴がいる。

 だからそっちは、オレの方でどうにかするしかない。


「……大丈夫か、イーリス」

「あぁ、大丈夫」


 肩に触れる姉さんの手。

 平気そうに応えちゃいるが、できればその熱に縋りたい気分だ。

 胸元で揺れる星の首飾り。

 その存在をより強く意識するために、ぎゅっと握り締める。

 血が出るかどうかのギリギリぐらいに。

 加えてもう一つ。

 アウローラから受け取った荷物の中。

 そこに入っていた、古ぼけた白いウサギのぬいぐるみ。

 たった一つ、オレとアイツを結ぶ確かなえにし


「……ったく、ぶっつけ本番でやって良い話じゃねぇな」


 我ながら笑ってしまう。

 戦闘の余波だけで大地がめくれ上がっている。

 無茶苦茶な、それこそ神話伝承の光景が繰り広げられていた。

 本来なら、オレみたいなただの人間には手出しできない。

 しかしこれから行うのは、物理的な介入じゃない。


「私はどうすれば良い?」

「……このまま、傍にいてくれれば良い、と思う」


 正直、微妙に自信がない。

 なにせ初めてやる事だ。

 アイツは、シャレムは「必要だと感じたら、自然と応える」とか言ってたが。

 今になって、もっとちゃんと説明してくれよと思ってしまった。

 自分の呼吸を自分で数える。

 ……落ち着け、これまでどうにかなって来たんだ。

 だったら今度だって同じはずだ。


「……よし」


 心臓の鼓動が早まる。

 悠長にしている余裕は欠片もなかった。

 このまま戦えば、きっとレックスの奴が勝つ。

 けどその結末では、どれだけの犠牲が出るかは分からない。

 救えないはずのモノを救う。

 そのために、オレはオレのできる事をやりに行こう。

 一人じゃない。

 姉さんも付き合ってくれるんだ。

 だったら絶対、大丈夫。


「行く。オレもどうなるか分からないけど……」

「信頼してるよ、イーリス。

 お前ならきっと大丈夫だ。自信を持って」

「……ン」


 励ましながら、それ以上にオレを信じてくれている言葉だった。

 心に感じていた負担が、ほんの少し軽くなった気がする。

 だからオレは目を閉じた。

 意識を内に、握り締めた首飾りへと向ける。

 様々に色を変える小さな宝石。

 瞼を下ろした状態では、当然見えるはずもない。

 けど、今オレの意識はその輝きを確かに感じ取っていた。

 変わる、変わっていく。

 夜空に煌めく星の一粒一粒が、全く異なる光であるように。

 その瞬きを辿って、意識が深い場所へと沈んでいく。

 すぐ近くにも光があった。

 星の光――いや、違う。

 それは姉さんだ。

 暖かくて強くて、優しい魂の光。

 オレは自然とその光に、姉さんの輝きに触れていた。

 何処を掴んで良いのかとか、正直その辺は曖昧だけど。

 とりあえず光を握って、オレは更に深くを目指して落ちていく。

 落ちる、落ち続ける。

 感覚としては、《奇跡》を使って電子網ネットワークに繋げる時と近い。

 ただ今は、それよりも遥かに広大な。

 それこそ遥か海の底へ向けて落下していくような。

 現実の五感は役に立たない。

 五感とは異なる「何か」を頼りに、オレは目的のモノを探す。

 あのぬいぐるみと同じ、白いウサギをイメージする。

 何処かに隠れてしまっているモノ。

 深く暗い水底。

 泥に呑み込まれてしまった、小さな光。

 オレが良く知っているはずの輝き。


「……あった」


 思わずそう呟く。

 見つけた。

 黒いヘドロみたいなものが渦巻く中。

 弱々しいが、未だ輝きを保ち続けている光。

 イシュタル――いや、ルミエル。

 迷宮で出会い、そして別れた幼い娘。

 その光こそが、あの子の魂だと。

 そう認識した瞬間には、オレはもう手を伸ばしていた。

 渦巻く泥みたいなのが危ないだとか。

 気にしてる余裕はなかった。

 兎に角、呑まれて消えそうなあの光に触れようとして――。


「…………ッ!!」


 突然、視界が広くなった。

 これまでふわふわしていた感覚が、いきなり色を取り戻す。

 夢から覚めて飛び起きたみたいに。

 オレは勢い良く身を起こした。

 ……身体がある。

 視覚は微妙にぼやけてるが、自分の手や足が見える。

 あと、オレのすぐ近くには姉さんも倒れていた。

 こっちはまだ目を覚ました様子は無い。


「…………」


 見る。

 一瞬、失敗して現実に戻ったのかと思ったが。

 違う、まったく違った。

 オレの目に映るのは、異様に荒れ果てた大地だ。

 それ自体はさっきまでいた場所と大きく変わらない。

 けど、空はこんなにも赤くなかった。

 同じ場所であれば、戦い続けるレックスたちがいるはずなのに。

 その姿は何処にもない。

 ……多分、繋がったんだ。

 以前に経験した事――ヘカーティアの時と同じだ。

 物理ではなく魂の世界。

 ここはきっと、ルミエルの魂の内側だ。

 本当にぶっつけ本番だったが、どうにか上手く行ったらしい。

 今のところ、特にこれといった危険はなさそうだが……。


「おい、姉さん」

「……っ、んん……」


 意識を失っている姉さんを、先ずは揺り起こす。

 今のところヤバそうな気配は無いが、眠ったままじゃ危ない。

 少し続けると、閉じていた瞼がゆっくり開く。

 まだ焦点は定まってないが、目は覚めたようだった。


「……イーリス……?」

「あぁ、オレだよ。

 自分が誰かは分かるよな?」

「……ん。大丈夫、大丈夫だ」


 何度も、自分自身で確かめるみたいに頷いて。

 姉さんの方もゆっくりと身を起こす。

 ほぅ、と細い吐息を一つ。


「此処が、そうなのか……?」

「あぁ、多分……じゃなくて、間違いなく。

 イシュタル――いやルミエルの魂、その内側にある世界だ」


 曖昧に返しそうになったが、言い直す。

 この場は物理じゃなく魂の世界だ。

 あやふやなままでは良くない。

 どんな些細な言葉でも、確信を持って強く意識すべきだ。

 要は根性だとか、気合いだとか。

 そういうのが一番大事だ。

 特に今は、オレの《奇跡》で一緒に来た姉さんもいる。

 何かあった場合を考えて、こっちがしっかりしないとな。

 ――と、意気込んでいたら。


「気負い過ぎていないか?」


 その言葉に、今は感じるはずのない心臓の音が聞こえた。

 身を起こし、特に問題もなく立ち上がって。

 姉さんはオレの顔を見ながら、優しく笑っていた。

 触れる手は温かく、髪や頬を柔らかく撫ぜる。


「一人で背負い込むなよ。

 今の状況で、私が役に立てるかは分からないが。

 それでも、お前が頼ってくれたから私はこの場にいるんだ」


 ……そうだ。

 オレひとりで、何もかもできるとは思わない。

 未だに覚えている。

 似たような状況で、オレはヘカーティアを救えなかった。

 逆にこっちが守られる始末だ。

 オレひとりじゃ、何をするにも限界がある。

 だから今は、姉さんと一緒なんだ。

 危うく忘れるところだった。


「悪い、姉さん。もう大丈夫だから」

「そうみたいだな。無理をしがちなのはお互い様だが」

「レックスのことを言えねぇよなぁ」


 自分で言って笑っちまうな。

 どうにも、思っていたよりもずっと張り詰めていたらしい。

 姉さんとの会話で、少しそれが緩んだ気がした。

 気を抜くワケじゃないが、気負い過ぎたって仕方ねぇんだ。

 しくじったら死ぬだけだと、あのスケベ兜なら笑うところだろうか。


「それで、先ずはどこを目指せば良いんだ?」

「ぶっちゃけオレも何とも言えねぇ」


 いやマジで。

 魂の内側なんて場所に来るのはまだ二度目だ。

 経験者とはとても胸を張っては言えない。

 それでも、前回の事を考えるなら。


「この場所のどっかに、ルミエルがいるはずだ。

 魂の本質……って、オレも難しいことは良く分かんねぇけど」

「つまり、捕まってる子を探せば良いんだな?」

「その理解で良いと思うわ」


 多分、いやきっと。

 ヘカーティアの時もそんな感じだった。


「この辺りは、まだ『外側』だと思う。

 どっかにある中心を探して……?」

「? イーリス?」


 その時。

 オレの耳に姉さんの声は届いていなかった。

 何かがおかしい。

 そんな違和感めいたものが、急に内側から湧き出していた。

 具体的な事はまったく分からない。

 分からないままで、オレの中の不明な部分が感じ取っている。

 この場所は、何かが――。


「……ッ!!」


 瞬間、オレは姉さんの手を掴んでいた。

 その行為に意味があるのか。

 考える暇すらなく、無理やり姉さんを地面に引き倒す。

 オレもその上から覆い被さるように身を伏せた。

 いきなりの事に、姉さんは目を白黒させて。


「イーリス!? 一体何を……!」


 驚く声は、その途中で掻き消された。

 辺り一面に響き渡る、凄まじい爆音によって。

 いや、オレたちはそれを音とは認識できなかった。

 あまりにもデカ過ぎて、染み付いた肉体の感覚じゃまともに聞こえない。

 生身だったら間違いなく耳が潰れてた。

 音の次は強烈な光が来た。

 赤い空も、錆びついた荒野も。

 その両方を一瞬で覆い尽くす極光。

 大気が焼けて、大地が融けて崩れ去る。

 想像力の遥か外側を突き抜けていく天変地異。

 何が起こっているのか、オレも姉さんもまるで理解できなかった。


「っ……なんだ、アレ……?」


 そして、ソレを見た。

 光に焼き尽くされる空と大地。

 その狭間を蹂躙するような、あまりにも巨大な影。

 ――それは、「竜」だった。

 本当に竜なのかどうかは、オレには分からない。

 ただその見た目は、翼を持たない二足歩行の竜のようだった。

 全身に纏う鱗は黒銀。

 眼には激しい憤怒を燃やしながら。

 恐ろしく巨大なその「竜」は、天に向けて咆哮を轟かせる。

 オレも、姉さんも。

 何も言えず、動くこともできず。

 嵐を前にしたネズミのように、ただ震えるしかなかった。

 なんだ、アレは本当になんなんだ……!?


「イーリス……!」


 辛うじてオレの名を口にしながら。

 震える指先で、姉さんが空の一点を示した。

 今度はなんだと、そう考えた直後。

 世界が震えた。

 いや、震えているのはオレ自身だ。

 一瞬――本当に、一瞬。

 自分という存在が、バラバラに砕け散ったような。

 ソレをただ眼に写しただけ。

 たったそれだけの事で、オレの精神は死滅しかけた。

 黄金だった。

 眩い輝きを無遠慮に撒き散らす黄金。

 光の中にいるのは、一人の男のように見えた。

 思い出したのは《人界》の王様だったが、あれとは違う。

 あっちも強烈な印象だったが、コイツほど毒々しくはなかった。

 細部は眩しくて良く見えない。

 はっきり分かるのは、その表情だけ。

 ――笑っていた。

 黄金の男は全てを嘲笑っていた。

 天地を焼き焦がす黒銀の竜さえも、男は見下していた。

 この世の万物全てより、自分を上位に置く唯我独尊。

 人知では及ばない領域の傲慢さ。

 同時に、それは単なる思い上がりじゃなかった。


「くっ……!?」


 光が爆ぜる。

 黒銀の竜がその顎を大きく開き、《吐息》を放った。

 これまで見たあらゆる竜を凌駕する威力。

 天地を滅ぼす一撃を、黄金の男は正面から受け止めた。

 余波だけで周辺一帯が壊滅していく。

 世界の終焉。

 自然とそんな言葉が浮かび上がる地獄絵図。

 しかし、ここまでくればこの光景が何かは分かってきた。

 恐ろしくはあるが、熱や衝撃は感じない。

 これは幻――もっと言えば、誰かの記憶を見せられているだけ。

 問題は、その記憶の持ち主が何者かだ。

 先ほど感じた不明の違和感。

 その原因がこれだった。


「クソッタレ、ここはまだルミエルの魂の内じゃない!」

「どういう事だ……!?」

「アイツはルミエルの魂を取り込んでる!

 だから『外側』に広がってるのはアイツの世界なんだ!」


 大真竜イシュタル。

 その本質であるルミエルの魂を呑み込んだクソ野郎。

 かつてあった、世界の終わりを記憶している誰かとは――。


「《秘神》アベル!

 ここは、あの野郎の魂の世界だ……!」


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