第五章:深まる混迷

394話:悪神再起


 異変は何の前触れもなく起こった。

 大真竜イシュタル。

 《竜体》である両翼を殆ど破壊された状態の彼女。

 胴体にも魔剣の一太刀を浴び、赤い血が大地を濡らしている。

 真っ当な生き物なら十分過ぎるぐらいの致命傷。

 だが、竜である彼女は尋常な生物じゃない。


「まだ……っ!」


 歯を食い縛り、イシュタルは掠れた声で吼える。

 眼には怒りを燃やし、正面に立つ俺を強く睨みつけた。

 間違いなく弱っている。

 背中に広がっていた闇の翼は、どちらも半ば砕けた状態だ。

 それでも尚、鎧越しに吹き付けてくる圧力は凄まじい。

 いやホント、ぼちぼち降参して欲しいもんだ。


『やれるか、竜殺しよ』

「そりゃあがんばるさ」


 こっちも大概ボロボロだが、相手が折れない以上は仕方ない。

 内なるボレアスに応えながら剣の柄を握り直す。

 俺だけでなく、他の面子も消耗し切っている。

 長引けばこっちが不利に――。


「……っ、何……?」

「ん?」


 不意に。

 本当に何の前触れもなく、イシュタルが呻き声を漏らした。

 必死に堪えていた足が萎え、乾いた地面に膝を付く。

 その表情は、何かに怯えているように凍りついていた。


「これは……誰? 何?

 私は――何故、どうして、そんな……!」

「おい?」

『何だ、何事だ?』


 分からない。

 明らかに混乱した様子で、イシュタルは支離滅裂な言葉を呟く。

 起こっている事が理解できず、こっちも困惑するしかない。

 完全に隙だらけだが、斬り掛かるかどうか。

 どうするべきか、ほんの少し迷ってしまった。

 それが拙かった。


『――哀れな小娘。

 お前はそのまま眠っているが良い』


 声。

 キィキィと、錆びた金属が擦れ合うように不愉快な雑音ノイズ

 そんなものに塗れた、耳障りな男の声。

 俺はそれに聞き覚えがあった。

 聞こえた瞬間、俺は地を蹴っていた。

 いつから、何処に潜んでいたのか。

 声が聞こえてきたのはイシュタルの方から。

 膝を付き、半ばうずくまる形で身体を丸めている彼女。

 その背中に、何かが張り付いていた。

 それは――。


「アベル……!!」

『ハハハハハハハハハっ!!

 久しいなぁ不遜なる人間め!!』


 《秘神》アベル。

 その生首だけが、イシュタルの背にくっついてやがった。

 見るだけで吐き気を催すような光景だ。

 首から生えた蜘蛛に似た足が、イシュタルの肌に食い込んでいる。

 いや、融合しているのか?

 よく分からんが、どう見てもヤバい事だけは間違いない。


『一手遅かったなァ! もう手遅れだ!

 この小娘の魂は、もうあの道化が掌握している!

 後は私が――』

「オラァ!!」


 うるせぇよ。

 聞く必要を感じず、俺は躊躇なく剣を振り下ろす。

 狙うのは戯言を垂れ流す《秘神》の生首。

 そのまま真っ二つにしてやるつもりだったが。


「ッ……!!」

『――この私が、この娘の肉を新たな《神体》として支配する。

 人の話を……いや、神の話は最後まで聞くべきだぞ』


 今出せる全力を込めた一刀。

 しかしそれは《秘神》には届かなかった。

 竜殺しの刃を、イシュタルの腕が受け止めていた。

 表情は苦痛に満ちている。

 抗おうとしてはいるが、どうしようもない。

 混乱と悲嘆に塗れた少女の顔で、大真竜は悲鳴をこぼす。


「イ……ヤ……っ、こんな、の……。

 わた、し……わたし、は……」

『チッ、存外しぶといな。

 さぁ大人しく私に支配されたまえよ。

 この神の新たな器になれる事、無上の喜びと知るがいい!』


 勝手なことをほざきながら。

 《秘神》の首は、あっという間にイシュタルの身体の中に潜り込んでいく。

 止める暇もない。

 二の太刀を放ったが、それも操られた腕に防がれてしまう。

 刃は外皮を切り裂きはしても、一発で切断するまでには至らない。

 《竜体》を砕いた直後で、思ったより力が出せない。


「あ――あ、ァアアアぁあァアああああァ……!!」


 それは歌うような悲鳴だった。

 イシュタルの唇から、溢れ出す水の如く。

 声は大気を震わせながら、辺り一面へと広がる。

 コイツはまたヤバそうだ。


「アベル、だと? 貴様、まだ性懲りもなく……!!」

『アハハハハハハハ!!

 残念だったなぁアストレア!!

 裁きを下したつもりだろうが、私の方が上手だったというワケだ!!』


 笑う声。

 《秘神》のそれは、イシュタルの口から吐き出された。

 新たな《神体》として支配する、とか言ってたな。

 つまり、あのクソ野郎はイシュタルの身体を乗っ取る気か。


「なんだ、俺たちに身体を木っ端微塵にされたせいか?

 それで手負いの女相手に悪さするとか、神様が聞いて呆れるなオイ!」

『っ、貴様ァ……!!』


 何やら勝ち誇っていたので突っ込んでみる。

 イーリスさんならもっとキレキレな事を言ってくれたかもしれん。

 図星を突かれたか、勝ち誇っていた《秘神》は一瞬で沸騰したようだ。

 そうしてる間も、イシュタルに向けて剣を打ち込む。

 アストレアの方もまた、何本もの《神罰の剣》を射出する。

 だが、その全てが。


『無駄だ――!!』


 イシュタルの手で弾かれてしまう。

 手――それは「右手」だった。

 俺たちと戦う前から失っていたはずの右腕。

 それが今は再生している。

 あっという間過ぎて、生えてくる瞬間を見逃したぐらいだ。

 右腕を再生させたイシュタル……いや。

 その身体を支配した《秘神》は、悠然とその場から立ち上がる。

 剣の一撃や飛来する刃の群れ。

 それらの攻撃を、わざと大げさに弾きながら。


「ハハハハハハ!

 素晴らしい、本当に素晴らしいなっ!

 まさに神たる私のために用意された器じゃあないか!!

 これがあれば、最早この世で私が恐れるものなどありはしない!!」


 姿形はイシュタルのまま。

 《秘神》は酷く顔を歪めて高笑いを響かせる。

 ……こうして見ると、やっぱり内面ってのは大事だな。

 どれだけ見た目が整っていても。

 腹の底が醜く捻れていれば、自然と外側に滲んでくる。

 そう考えれば、昔はどうあれ今のアウローラは可愛らしいもんだ。


「で、いい加減に鬱陶しいぞ」

「っと……!?」


 飛び回る虫を手のひらではたき落とす。

 そのままの仕草で、《秘神》は無造作に右手を払う。

 刀身を叩かれた衝撃に身体が後方に流れた。

 逆らわず、俺は一度距離を取る。

 下がった先には、カドゥルとアウローラの姿があった。


「無事か?」

「あぁ、そっちこそ大丈夫か?」

「まぁ見ての通りだ」


 笑うカドゥルは、さっきの攻防で右腕が黒く焼け焦げていた。

 アウローラの方も、見た目の傷は殆ど繕ってはいるようだった。

 しかし受けたダメージが重いのは一目瞭然だ。

 ほぼ真っ二つになりかけてたんだ、無理もない。


「私は、大丈夫だから。心配はしないで」

「心配はするさ」


 虚勢を張る彼女の頭を、片手で軽く撫でる。

 微かに伝わる震え。

 無理してるのを見透かされ、気恥ずかしさで赤くなっているのかもしれない。

 が、そんな可愛らしい様子を眺めている余裕はなかった。


「無駄だよ、無駄無駄っ!!

 そんなザマで何ができると言うんだ、アストレア!」

「ッ……この下衆が……!」


 浮かれた馬鹿笑いを撒き散らす《秘神》。

 それに対し、アストレアは《神罰の剣》で挑みかかっていた。

 操作する「剣」の数は、少し前と比べれば大分少ない。

 神である彼女も疲弊しているのだ。

 逆に《秘神》は完全に調子に乗っているようだ。

 生やしたばかりの右腕で、飛んで来る「剣」を雑に砕いている。

 反撃なんて幾らでもできるだろうに。

 舐め腐った態度でアストレアの足掻きを嘲笑う。


「諦めろ!

 至高の器を手にした私は最早無敵だ!

 そんな疲れ切った状態で届くワケが――」

「お前も大概しつこい奴ね」


 戯言を断ち切る形で。

 《秘神》の背後から《巨人殺し》が殴りかかった。

 流石の不死身っぷりだ。

 武器もなんにもないため、攻撃はやはり素手の一発。

 腕を吹き飛ばす勢いで炎が爆ぜた。

 まぁ実際に、肘から先が綺麗にぶっ壊れてるワケだが。

 意識外からの一撃に、《秘神》は軽く揺らぐ。


「っ、この失敗作が!

 また私の邪魔をする気かっ!!」

「うるさい」

「喧しいわカスが!」


 《巨人殺し》とアストレア。

 二人の声が重なり、同時に二つの攻撃も重なる。

 全身を振り回すような回し蹴り。

 手に構えた剣の一閃。

 どちらも《秘神》が乗っ取ったイシュタルの身体に直撃する。

 一瞬、その足が押される形で下がるが。


「雑魚が!!」


 通じない。

 叫ぶ声が衝撃波となり、二人を逆に吹き飛ばす。

 どっちも両足で着地した上で、《秘神》の方を睨んだ。

 折れぬ戦意と屈さぬ意思。

 向けられた視線にそれを感じたか、不快げに《秘神》は舌打ちする。


「勝てると本気で思っているのかね!?

 諦めて地に這い蹲る方がまだ潔いだろうに!

 戦っても酷い死に方をするだけだぞ!!」

「臭い口を閉じろ、穢らわしい!」


 うーん、言動が前と変わらんなコイツ。

 罵り返すアストレアに並ぶ形で、俺も改めて前線に出る。

 剣を構え直すと、《秘神》は俺の方を見た。


「なんだ、そっちもやる気か?

 まぁどうせ逃がす気はないし、それはそれで構わんが」

「そうかよ」

「あぁ、だが本当に理解できんよ。

 命乞い……いや、どうせ私は殺すからな。

 だったら自殺だな、ウン。

 苦しまずに死ねて、私も無駄な労力を使う必要がない。

 間違いなくこの場で一番効率の良い選択肢だ、自明ではないか?」

「人生楽しそうだなぁお前」


 喋ってる内にあっという間に自分の世界かよ。

 見た目だけイシュタルのままなのが、まぁ本気で不快だな。

 罵倒のつもりだったが、今のはそういう形では響かなかったらしい。

 むしろ口元の笑みを深め、無駄に両手を広げてみせる。


「あぁ、今こそまさに絶頂だとも!

 不運にもお前たちに敗れはしたが、最初からこうなる運命だった!

 そうだ、やはり私こそが――!」

「いや、敵を前にして喋り過ぎだろうがよ!!」


 至極真っ当なツッコミ。

 同時に、衝撃波と共に黒い火線が宙を奔る。

 カドゥルの遠当てだ。

 竜王の《吐息》に等しい威力が《秘神》の顔面に直撃した。

 怯み、大きく後ろに押し込まれはしたが。


「アハハハハハハハッ!

 そんなモノかよ最古の鬼王!

 渾身の一撃だったようだが、焦げ目も付いていないぞ!」


 イシュタルの顔を醜く歪めて《秘神》は笑う。

 いや、そんな事よりだ。


「……今、カドゥルの攻撃が普通に通ったな」

「うん? 何の話だ?」

「あんなので信じ難いけど、アイツは《人界》の神。

 だから鬼であるカドゥルの攻撃は、本来なら《光輪》で弾かれるはず」


 首を傾げるカドゥルに、《巨人殺し》が淡々と説明する。

 そう、何故か今の《秘神》には《光輪》が機能していないようだ。

 こっちもどういう理由かは分からないが。


「恐らくだが、以前の戦いでの消耗を引きずってるのだろう。

 一部の権能を維持できない程にな」


 《秘神》を睨んだまま、アストレアは吐き捨てるように言った。

 同じ神である彼女の眼には、こちらより多くの事が見えてるようだ。


「つまり、今のアレは単なる寄生虫だ。

 自慢げに振り回してる力も、所詮は借り物。

 最早神と名乗ることもおこがましい、低俗な存在に成り果てたな」

「ハッ! 好きにほざけよ小娘が!」


 嫌悪を露わにするアストレアを、《秘神》は鼻で笑い飛ばす。


「何をどう喚こうが、この力は私のモノ!

 疲弊し切ったカスが五匹程度!

 どうしようもない事ぐらい理解できるだろう!?」

「……五匹?」


 くすりと。

 心底おかしくて仕方ないと。

 可愛らしく笑みをこぼすアウローラ。

 彼女は憐れみの眼を《秘神》に向け、囁く声で続ける。


「どうやらロクに物も数えられないみたいね。

 そんなので良くそんな大口を、恥ずかしげもなく開けるわね」

「……そこの人間の内にいる者を言ってるのか?

 だが、そんな下らん揚げ足を」

「違うわよ」


 微笑む。

 憐憫と侮蔑を込めて、アウローラは笑っていた。

 そして、視線をわざとらしく上に向ける。

 この時点で、気付いていないのは《秘神》だけだった。

 空から真っ直ぐ墜ちてくる、巨大な質量の存在に。


 ホント、どうしようもない愚か者め」

「くたばれクソ野郎が――――!!」


 静かなアウローラの罵倒に、イーリスの叫びが重なった。

 俺たちはギリギリのところで飛び退いた。

 が、反応の遅れた《秘神》は間に合わない。

 一切の迷いも躊躇いもなく。

 落下した船は、轟音を響かせて大地に激突した。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る