第四章:大真竜を討て
390話:イシュタルの《竜体》
雷と剣がせめぎ合う。
バチバチと弾ける黒い煌めきの向こう。
そこには美しい女の顔があった。
妖艶な美貌と少女の無垢。
どこか相反する二つの要素が矛盾なく同居した姿。
以前に一度目にした覚えがある。
その時は距離があって、はっきりと目にしたのは今回が初めてだが。
「久しぶり、と言うべき?
私のことは覚えてる?」
「一度お近づきになった美人の事は、そうそう忘れないな」
「あら、お上手ね」
笑う。
何も知らなければ見惚れてしまいそうな。
それぐらいには魅力的な微笑みだった。
が、そこに込められているのは刺すような敵意だ。
いっそ憎悪の類と言ってもいい。
これからお前の頭を噛み砕いてやると。
そう牙を見せて威嚇する獣の表情だった。
「名乗りは必要?」
「イシュタルだったか、《盟約》の大真竜。
こっちこそ名乗った方が良いか?」
「そう、私はイシュタル――序列四位、《雷帝》イシュタルよ。
そっちのはいらないわ。
名前は知ってるし、殊更呼ぶ気もないもの」
語る口調こそ穏やかだが、その声も激情で煮え滾っている。
さながら冷えた地面の下で脈動する溶岩のように。
女――イシュタルは、間違いなく激怒していた。
硬い金属音。
雷を纏う拳が、俺の構えた剣を押す。
力にはそこそこ自信があるつもりだったが。
あっという間に押し潰されそうな圧力が襲ってくる。
「《盟約》に仇なす愚かな男。
ここで私が粉々に砕いて上げる」
「そうかよ……!!」
イシュタルの左拳。
それをどうにか押し返そうと、こっちも全身を強張らせる。
飛び込む直前、アウローラから
《巨人》相手でも負けない馬力が体に宿っている。
それでも尚、単純な力はイシュタルの方が遥かに上だった。
「人間が、大真竜である私に力で勝てるはずがないでしょうが!!」
嘲りと共に、黒い光が踊る。
イシュタルの周囲に、無数の雷の矢が現れた。
その全てが等しく暗黒。
自然ではあり得ない光は、強烈な殺気に彩られていた。
一発でも直撃すればその時点で死ぬ。
根拠も理屈もなく、直感的にそう悟る。
「そっちから飛び込んできてくれて、探す手間が省けたわ!
さぁ、一人で事もなげに死になさい――!!」
「悪いが、此処に来たのは俺だけじゃないんでね!」
カドゥルがヤバそうだったので、俺が勝手に飛び降りただけで。
頭上を飛ぶ翼付きの船。
そちらには一緒に来た仲間がいる。
「ッ――!?」
イシュタルが黒い雷を解き放つ。
俺や、後ろにいるカドゥルも纏めて貫くはずだった稲妻の矢。
それらは上から降り注ぐ煌めきによって砕かれた。
「剣」だ――《
裁きの神が振るう権能。
輝く「剣」の雨は、イシュタルと俺に対して容赦なく降り注ぐ。
いや、覚悟はしてたけどホントにこっちごと撃ってくるとは。
「これは……!」
「――死ね、大罪人が」
多分、それは俺の事ではないはず。
何もない空の上に降り立って、《裁神》アストレアは大地を見下ろした。
振り仰ぐイシュタルへと、更に輝く「剣」を撃ち放たれる。
数十、いや百を超える数の乱れ撃ち。
ぶっちゃけ俺も結構危ないタイミングだったが。
「おう、無事か?」
「おかげさまで」
つい先ほどまで、半ば地に伏していたカドゥル。
彼女が俺を引っ掴んで引き寄せたおかげで、「剣」の範囲から逃れられた。
ううん、しかしホントにデカいな。
「まさかアストレアまで来ているとはなぁ」
「アンタのこと心配してたよ」
「ハハハハ、それは聞こえるように言ってやるなよ」
「聞こえてるぞ馬鹿が……!!」
おっと、これは失礼。
余計なことを口にした俺に対して罵声を浴びせながら。
アストレアは視線も意識も、一瞬たりとてイシュタルからは離さない。
容赦ゼロの《神罰の剣》による絨毯爆撃。
《巨人》ならば塵も残らず、俺も喰らったら生き残る自信はない。
そんな《裁神》の、切り札を除けば恐らくは最大火力。
「ふん、お前も《人界》の神とかいう奴?」
それを真正面から浴びて、イシュタルは揺るぎもしなかった。
降り注ぐ「剣」を、黒い雷を纏う形で弾き落とす。
次々と飛んでくる刃の群れ。
圧倒的であるはずの物量を、大真竜は純粋な力技で捻じ伏せていた。
……覚悟はしていたが、コイツはなかなかとんでもないな。
「お前の仲間も既に一人倒した後だし、ソイツにも同じ事を言ったけどね。
私の方はそちらに用はないの。
特に今は標的も目の前にいるし、さっさと消えてくれない?」
「貴様になくとも、私にはあるんだよ愚か者め――!!」
挑発か、それともその気も無しに煽ったのか。
正直どっちか分からない台詞をさらっと吐き出すイシュタル。
それを聞いたアストレアは当然の如くブチギレた。
圧を増す「剣」に対しても、イシュタルは変わらず力で対抗し――。
「「ガァ――――ッ!!」」
横から襲ってきた炎と光。
二つの《
「前に出くわした時から思ってたけど、脇が甘すぎるわね!」
「まぁ、慢心して然るべき程度に強大である事は認めるがな。
かつての長子殿を思い出すぞ」
明確に挑発目的で笑うアウローラと、挑発する相手が違うボレアス。
古い竜の姉妹はそれぞれ別の位置に姿を現した。
どうやら魔法で気配を消して、意識の死角からデカいのを打ち込んだようだ。
チラッと、空の上を確認する。
翼の生えた船――リングホルンが、少し高度を上げているのが見えた。
テレサとイーリスは甲板に残っているようだ。
後は《巨人殺し》もまだ動いていない。
様子を見ているのか、或いは姉妹の護りに付いているのかまでは分からない。
船の操作に関しては、確かイーリスが「できる」と口にしていた。
ならとりあえず、そっちの心配をする必要はないだろう。
……そもそも、最初からこっちにそんな余裕は無さそうだが。
「来るぞ、備えろっ!!」
警告を飛ばしたのはカドゥルだった。
《竜王の吐息》を二重に受けて吹き飛ばされたイシュタル。
熱と衝撃で発生した濃い煙が、その姿を薄く隠していた。
その煙のベールを突き破り、槍のように固めた雷が複数飛んでくる。
数は丁度、その場にいる全員分。
狙いは恐ろしく正確だ。
「ちッ……!」
迫る脅威に、ボレアスは忌々しげに舌打ち一つ。
この一撃は防げないと。
そう本能的に悟ったのだろう。
イシュタルが操る黒い雷。
感じ取れる気配は、ゲマトリアの《邪焔》に似ていた。
出力はこっちが明らかに上だが。
「生きてるか?」
『古竜である我に言う事ではなかろうよ!』
黒い槍に貫かれる直前。
ボレアスは実体を解き、炎に変わってその先端を回避していた。
そのまま炎はこちらに飛んで来て、構えた剣に絡み付く。
「まともに喰らったら、ちょっと危なかったわね」
軽い着地音。
俺の傍らにアウローラが静かに降り立つ。
こっちはこっちで、《転移》する事でギリギリ回避に成功していた。
そして、俺とアストレアは。
「――こんなもので、神である私を倒せると?」
輝く「剣」を手に、裁きの神様は声に怒りを示す。
黒い雷は、砕かれた断片だけがアストレアの周りでパチパチと音を立てる。
こっちはこっちで、振り下ろした剣の切っ先が僅かに帯電していた。
ちょっとヤバそうだったが、どうにかなったな。
「……不愉快だわ、本当に」
再び、イシュタルは俺たちの前に姿を現す。
叩き込まれた「剣」の雨。
至近距離から直撃したはずの二発の《吐息》。
どちらも致命的な威力を持っていた。
それらを受けたイシュタルは、しかし殆ど傷付いていなかった。
目立つ負傷は欠損した右腕のみ。
それも俺たちと遭遇する前に受けたダメージのようだ。
話に聞いた《戦神》が与えた傷か。
普通に考えたら重傷だが、イシュタルは強大無比な大真竜。
隻腕など関係ないとばかりに、その存在だけで大気を歪ませていた。
「誰も彼も、力の差が理解できないの?
本当、面倒で仕方ないわ」
「面倒だったら帰ってくれるとありがたいね」
軽く応えてみたら、ギロリと睨まれてしまった。
見られただけで物理的に焼かれそうな視線。
実際に、相手を焼き殺す呪いを帯びているのかもしれない。
その圧力に耐えていると、イシュタルはわざとらしく舌打ちをして。
「勿論、こんな埃っぽい場所に長居する気はないわよ。
――そこの男と、《最強最古》。
お前たちを始末したらお暇させて貰うから」
「生意気な物言いね、如何にもガキっぽくて嫌いじゃないけど」
嘲るようにアウローラは笑う。
イシュタルは応えない。
無言のまま、その身体から黒い雷が弾けた。
大気が焼き切れて、大地は焦げて煙を上げる。
強まる力の気配。
俺は一歩踏み出して、アウローラとカドゥルの前に立つ。
瞬間、空間に黒い亀裂のようなものが走った。
イシュタルの操る黒雷。
それが真っ直ぐに飛んで来たのだ。
幸い、反射的に振り下ろした剣が雷を砕いていた。
さっきの槍も合わせて、これで二度目。
目ではまったく見えないが、勘で斬る分には何とかなりそうだ。
「雷を斬るとか、ホントに人間?」
「まぁ、こんぐらいはな!」
呆れた声に言葉を返し、俺は地を蹴る。
距離を取って戦える相手じゃない。
剣の柄を握り、身体に宿った竜の炎を燃焼させた。
「レックス!」
「悪い、援護頼んだ!」
背にアウローラの声を受けながら、真っ直ぐ走る。
イシュタルは動かない。
視線は俺を捉えたままで、完全に見切られているようだ。
同時に上空のアストレアも仕掛けた。
「《
己の権能を叫び、数多の「剣」が光となってイシュタルの頭上に落ちる。
それを見ながらも、やはりイシュタルは動かない。
こっちは「剣」に頭から突っ込む形になる。
僅かに見えている光の隙間。
そこを縫う形で、俺はイシュタルを剣の間合いに捉えた。
研ぎ澄まされた五感が、刃が届く距離に立つ大真竜を認識する。
イシュタルは動かない。
動かぬまま、その身の内には凄まじい力が渦巻いていた。
感じる圧力は、以前に相対したヘカーティア。
《嵐の王》が引き起こした、大陸を呑み込む大嵐にも等しい。
全身を、巨大な死神の手に掴まれたような悪寒。
「っ、伏せて!!」
『何か来るぞ、備えろ竜殺し!!』
二つの声が響いた瞬間、俺は大地に身を投げていた。
アウローラの叫びは《力ある言葉》。
紡がれた術式は何重もの防御となって俺の周りに展開される。
ボレアスの炎は激しく燃えて、内側から肉体を強化した。
それに加えて可能な限りの全力の回避行動。
その全てを無力だと引き裂くような衝撃が、世界を揺さぶった。
「何っ……!?」
何が起こったのか。
先ず見えたのは、砕け散る光の破片。
アストレアが振り回していた《神罰の剣》。
百を超える刃の群れが、一つ残らず粉砕されていた。
権能を打ち砕かれ、驚愕に震える《裁神》。
向けられたその視線の先には――。
「……ホントは、使うつもりはなかったけど」
黒く輝く光。
光を呑み込む闇。
矛盾する二つの概念を合わせたような「何か」。
それは一対の翼だった。
砕けた「剣」の破片が降りしきる中。
変わらず佇むイシュタルの背に広がる翼。
鳥や、或いは竜の物とも趣きは異なる。
人工的な無機質さと、強靭な生命力が同居した
「認めるわ、お前たちは強いって。
慢心して痛い目を見たばかりだもの。
だから全力で戦ってあげる――この、私の《竜体》でね」
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