391話:闇の翼


 私の《竜体》。

 イシュタルは確かにそう言った。

 しかし今目に映ってる物は、俺の知る《竜体》とは大きく異なる。

 黒い鋼鉄に似た大翼。

 それはイシュタル自身の身体とは繋がっていない。

 印象としては「武装」に近かった。


「……そんなものが、《竜体》?」


 半ば独り言のようにアウローラが言った。

 訝しみ、それ以上に困惑した様子で。

 彼女としても、見ているモノが言葉通りに受け取れないのだろう。


「あり得ないわ、そんなもの。

 単なる翼じゃない。

 そんなものが《竜体》だなんて――」

「どうしようもなく価値観の古い、時代遅れの遺物にはそう見えるでしょうね。

 私からすれば、お前たちが言う《竜体》こそナンセンスだわ」


 嘲るでもなく。

 道理を解さない愚か者を諭すように。

 むしろ淡々とした言葉でイシュタルは語る。

 微かな憐憫さえ含んだ声で。


「そもそも《竜体》とは何?

 強大無比な力を有する竜の魂。

 その本質が宿す性能を十全に発揮するために。

 肉体という器を、魂に合わせて最適化した形こそが《竜体》。

 お前たちが取る人の姿など所詮は仮初。

 竜が竜として最大の能力を行使するには《竜体》は不可欠」


 難しい言い回しだが、それに関しては俺でも分かる。

 《竜体》とはそういうものだ。

 それが古竜であれ、真竜であれ。

 竜が本気を出す時は、必ず竜本来の姿となる。

 アウローラやボレアス、後はマレウス。

 猫――ヴリトラは例外として。

 知っている《古き王オールドキング》は、基本的に人間の形を持っていた。

 その状態と竜の姿である《竜体》では、扱える力は文字通り雲泥の差がある。

 ただ、俺の知る《竜体》はどれもデカかった。

 程度の違いはあれど、それに関しては例外はない。

 単に翼を背負っただけの《竜体》は、これまでの経験でも初めての事だった。


「そう――力をより効率良く、より強く。

 そのために『最適化』したものこそが《竜体》であるはずなのに。

 お前たち古竜は、単純に魂の本質に器の形状を合わせるだけ。

 無駄が多いのよ。

 そもそも、竜が持つ力を考えれば見上げるような巨体なんて不要」


 微かに響く金属音。

 見れば、イシュタルの翼が動いていた。

 今までは半ば閉じた形だったが、それがゆっくりと広がっていく。

 ……《竜体》の常識で考えれば驚くほどに小さい。

 それでも翼のサイズ自体は、イシュタルの身体を覆って余りある。

 翼が開き、刃に似た羽根がふわりと揺れた。

 風に揺られた木々の枝から、木の葉が舞い散るように。

 黒い羽根が数枚ほど、翼を離れる。

 俺たちはそれを見ていた。

 何が起こるのか、起こっているのか。

 アウローラもボレアスも、アストレアも分からず見ている。

 理解不能な未知を前に、意識が縫い留められていた。

 ただ、俺だけは。

 総身を死神に撫で回される感触に、無心で地を蹴っていた。

 狙うのは宙を舞うイシュタルの羽根だ。


「――必要なのは。

 最適化した力を、最大効率で操る事。

 《竜体》とは魂の本質で、それ故に不変であると。

 思考を止めてしまった事の愚かさ、存分に味わいなさい」


 語る声を聞きながら、剣を振り下ろす。

 羽根の一枚。

 アウローラに向かおうとしていたそれに、刃の先端が触れた。

 瞬間。


「ッ――――!!」

『竜殺し!?』


 黒い光が爆ぜた。

 爆発だが、無駄に衝撃や余波は撒き散らさない。

 ごく限られた範囲。

 影響を及ぼすのは恐らく両手を広げた程度の距離。

 人一人をには十分な広さを、帯電した闇が呑み込んだのだ。

 竜を殺すための刃。

 この世に一振りのみの不壊の剣。

 得物がこの魔剣でなかったなら、今ので俺は死んでいただろう。

 身に纏った鎧じゃ殆ど意味がない。

 塵の欠片さえ残さず、黒く塗り潰されて消えていたはずだ。

 歯を食い縛り、内に宿るボレアスの炎を激しく燃やす。

 どうにか気合いで闇を斬り裂けば、その向こうでイシュタルが笑っていた。


「お見事。――じゃあ、これは防げる?」


 羽根が舞い散る。

 背負った翼から、文字通り無数の羽根が。

 アレの正体は今ので分かった。

 《竜体》になっても、扱う力の本質は変わらない。

 ゲマトリアが操る《邪焔》、それと似た性質を持っている黒い稲妻。

 その雷を凝縮し、羽根のような形に結晶化させたもの。

 つい先ほど、イシュタルの《神罰の剣》を纏めて砕いたのもコレだ。

 降り注ぐ数百の刃。

 それらをこの羽根を散らす事で纏めて粉砕したんだ。


「避けろっ!!」


 叫ぶ声はカドゥルのものだった。

 同時に風が渦巻く。

 距離を置いた場所で、鬼の王が拳を大きく構えていた。

 黒い炎を纏う腕。

 それが虚空を打ち、衝撃と共に火線が迸る。

 まるで竜の放つ《吐息ブレス》のようだ。

 色や気配からして、これも《邪焔》と同じもののはず。

 単純な威力も《竜王の吐息》に匹敵するだろう。

 俺は全力で走り、アウローラの身体を抱える。

 追う動きを見せた羽根に、カドゥルの放った火線が突き刺さった。

 黒い光が連続で爆ぜる。

 並の攻撃なら、逆に羽根に喰われていたはずだ。

 しかしカドゥルが叩き込んだ一撃は、複数の羽根を纏めて誘爆させていた。

 その光景を見て、イシュタルは舌打ち一つ。


「やっぱり、最初から出し惜しみなんてするべきじゃなかったわね」

「こちらを見ろ、大罪人がっ!!」


 アストレアもただ呆けているワケじゃない。

 怒りを吼え、右腕を振るえば《神罰の剣》が宙を舞う。

 輝きを宿す剣もまた、砕けながらも羽根の幾つかを弾けさせた。

 当たれば死ぬ――どころか、塵すら残さず消し飛ばす威力。

 破壊力を集約させているだけ、一つ一つの範囲が狭いのだけが救いか。

 ただそれも、数に物を言わせれば無関係だ。

 イシュタルの背が羽撃はばたく度に、闇の欠片が溢れ出す。


『無茶苦茶だな……!

 間違いなくこれまでで一番の火力だぞ!』

「息切れすんの期待してるけど、アレじゃ無理そうだな……!」

「っ……無尽蔵、とは考えたくないけど……」


 焦燥に駆られて、内側からボレアスが叫ぶ。

 アウローラもまた、声が動揺に震えているのが伝わってくる。

 あり得ない。

 そう言いたい気持ちは良く分かる。

 単純な力の規模だけなら、少し前に戦ったヘカーティアと大きな差はないはず。

 ただ、あっちが大陸そのものを呑み込む大嵐を広げたのに対して。

 イシュタルは、自らの力を限りなく一点に凝縮している。

 無駄な破壊は撒き散らさず。

 触れたらその時点で終わりの即死攻撃。

 相手はただ一箇所に留まって、翼を羽撃かせているだけ。

 それだけで抗い難い破滅が押し寄せてきた。


「アストレア! 危なくなったら逃げて構わんぞ!!」

「口は良いから手を動かせ……!!」


 最古の鬼王カドゥルと、《裁神》アストレア。

 二人が放つ攻撃で、ギリギリ闇の翼は相殺されていた。

 いや、それすら完全じゃない。

 八割がたの羽根は爆ぜているが、漏れた一部は疾風の如く宙を駆ける。

 そっちの方は。


「オラァ!!」

「ガァ――――ッ!!」


 俺とアウローラでどうにか叩き落とす。

 生半可な魔法では意味がないと、腕の中から撃ち込まれる極光の《吐息》。

 それでも砕けぬ分は、俺が剣を振るってどうにか弾けさせる。

 さて、コイツはマジで厳しいな……!

 一先ず、現状はギリギリのところで凌げて――。


「ッ!?」


 緩めたつもりはなかった。

 だが、俺はまだ「油断」していたらしい。

 何かを感じ取った、という実感も無く。

 純粋に身体だけが動いていた。

 見えない。

 視覚には何も映らず、他の五感でも捉えられない。

 ただ自然と動かしていた剣に、「何か」がぶち当たった。

 構えてすらいない状態だ。

 耐え切れず、俺はアウローラを抱えたまま派手に転がる。


「レックス……!?」

『何だ、今のは!!』

「分からん……!」


 分からない。

 分からないが、止まったら死ぬ。

 地面を這い、剣とアウローラだけは離さず転げ回る。

 今の攻撃は羽根じゃない。

 羽根を貫くように、「何か」が超高速で飛んできたのだ。

 無様に地面を舐める俺をイシュタルは見ていた。


「……仕留めたと思ったのに。

 私以下とはいえ、大真竜相手に勝ってきたのは伊達じゃないわね」


 賞賛を口にしながらも、攻撃には一切容赦がない。

 そして、見えずとも何度も撃ち込まれてる内に分かってきた。


つぶてか……!」


 物としては、空間を制圧しつつある羽根と同じだ。

 ただそれよりも小さな力を、より細かい形に凝縮したもの。

 多分、サイズとしては指先程度もないだろう。

 それを翼の動きに合わせ、超高速で飛ばして来ている。

 理解すれば単純な、いっそ原始的な攻撃だった。

 そして原始的であるからこそ、対処するのが難しい。


「この……!!」

「無駄よ」


 短い声を《力ある言葉》として、アウローラが防御の魔法を展開する。

 が、それは即座に薄紙の如く破られた。

 魔法ではとても防ぎ切れない。

 羽根ほどの威力はないが、礫の方は貫通力が半端じゃなかった。

 ぶっちゃけ羽根より脅威だが、一応欠点もあるようだ。

 先ず、一度に撃ち込まれる数は多くても数発。

 その上で無作為に乱射できるワケでもないらしい。

 礫で狙われているのは、現状では俺たちの方だけだった。

 カドゥルとアストレアには、手を塞ぐためか羽根の密度が濃くなっている。

 あっちはあっちで封じられてる形だな。


『どうする気だ、竜殺し』

「どうするかねぇ……!」


 がんばる、としか言いようがないワケだが。

 がんばるにしても、これまでの経験でも一等辛い状況だ。

 古竜が使う《竜体》とは違う、とイシュタルは語った。

 その意味が今なら何となく分かる。

 アウローラやボレアスにとって、《竜体》は竜としての本来の姿だ。

 だがイシュタルにとって、《竜体》とは武具なのだろう。

 肉体という器を大きく作り変えるのではなく。

 一部を変化させるに留め、力の操作の強化や向上に特化している。

 攻撃器官、とでも言えばいいか。

 背に広げた大翼は、イシュタルの武器であり鎧でもあった。


「……ホント、しぶとすぎてこっちがうんざりしてくるわね」


 苛立ちよりも呆れが強い声で、イシュタルは呟く。

 多少でも油断してくれたら良いんだが、そういう気配もない。

 向こうは手さえ緩めなければ、後は待ってるだけでこっちを圧し潰せる。

 どうにかしなきゃ死ぬだけなんだが……!


「っと……!」


 見えない礫が甲冑を掠める。

 真っ直ぐに、線を引いたみたいな傷が装甲の表面を抉った。

 胴体に当たればそれだけで即死しかねんな、コレ。


「……レックス。最悪、私の力を……」

「それはできれば最終手段にしたい」


 逆も然りだ。

 剣にアウローラの魂を喰わせるのも。

 それとは反対に、剣の力をアウローラに渡すのも。

 状況を打破できる可能性は確かにあるが、それ以上のリスクもある。

 他に完全に打つ手がない場合の、本当の意味での最後の手段。

 が、正直なところ、手段を選んでられる状況でも……。


「……?」


 ふと、イシュタルの意識が僅かにこちらを逸れた。

 俺は回避に専念していて、そっちまでは見ている余裕がなかった。

 イシュタルの視線は、俺たちから外れて上を見ている。

 今、空の上にあるものなんて一つしかない。


「――


 地獄の窯の底。

 触れたモノを消し飛ばす闇の翼が支配する空間。

 その中心に向けて、遥か上空の船から少女は躊躇いなく落ちてきた。


「な……っ!?」


 まさか、生身でそんな無謀を仕掛けてくる奴がいるとは。

 流石にイシュタルも想像していなかったらしい。

 自由落下で襲ってきた《巨人殺し》の刃が、黒鋼の翼と激突した。


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