幕間3:王の預言


「接触したか」


 《人界》――虚空の玉座にて。

 原初の王は全ての状況を俯瞰していた。

 楽しんでいるのか、憂いているのか。

 その表情は複雑で一言で表すことはできない。

 もっとも、王が座するは《人界》の中枢。

 同じ地平に身を置き、尊顔を拝する資格を持つ者は限られていた。


「陛下」

「なんだ、堅物の娘がようやっと他者との関わりを覚えたのだ。

 親として喜ばしく思うのは自然であろう?」

「本気で仰ってるなら流石に怒りますよ?」

「お前は過保護過ぎると言ってるだろうが、シャレム」


 苦笑い。

 王の傍らに立つのは星の神。

 最古である三神の一柱、シャレムだ。

 彼女は少し棘のある視線を仕える主人へと向けていた。

 それは何とも人間らしい感情の発露だった。

 生死を司る神として、シャレムは人一番情が深い。

 無二の友の娘であるアストレア相手だと、その傾向は特に顕著だ。

 良し悪しだな、と《人界》の王は笑う。

 全能ではないが、それに近しい力を持ちながら人の視点を有する。

 それはとてつもなく危険な事でもある。

 故に王は自らを《人界》の維持という役目で縛った。

 この虚空の玉座から動かぬ事を楔として。

 逆にシャレムを含め、最も古い三柱の神にそういった制約は存在しない。

 そのため、今の《人界》にはシャレム以外の二柱の姿はないのだ。

 一柱は己の役目以上の事を望み、一柱は

 二柱の神が去り、シャレムだけが今も此処にある。

 そのシャレムも、神としての理性と使命感が強靭でなければ危うかったろう。


「そもそも陛下は放任が過ぎるのです。

 アストレアは繊細で、一人では思い詰めやすいのですから。

 もう少しお言葉をかけてやるべきではありませんか?」

「そうしては、アレは我が言うままにするだけだ。

 それでは面白くないし、何よりアストレア自身にとって害でしかない」

「……仰っしゃりたい事は分かりますが」

「お前には感謝しているのだぞ、シャレム。

 我も、母であったテミスもまともな親とは言い難いからな」

「……自覚があるなら、もう少し何とかして欲しいですが」


 ため息を吐くシャレムに、王は愉快そうに喉を鳴らした。

 どちらの目も千里眼。

 王と《星神》は、眼前の虚空ではなく遥か彼方を見ている。

 その先にいるのは王の娘であるアストレア。

 そして彼女と共に《人界》を旅立った異邦の者たちと、《巨人》を殺す少女。

 彼らが挑むのは、断絶の境を越えて現れた強大無比なる大真竜。

 《戦神》すら撃破したその力は、王の目から見ても稀有なものだった。


『…………なぁオイ、俺はいつまでこうしてりゃ良いんだ?』


 余人は存在すら許されぬ神々の虚空。

 玉座に在る王と、その側近である《星神》シャレム以外に。

 この場にはもう一つの声があった。

 聞こえたのは、シャレムが立つのとは逆側。

 同じく玉座の傍らに置かれているものがあった。

 それは鳥籠だった。

 やや大きめな銀の格子の中で蠢くモノが見える。

 蛇だ。

 真っ黒い、夜を形にしたような蛇。

 うねうねと身をくねらせて、抗議の声を上げていた。


「ん? あぁ、すまんすまん。

 うっかり存在を忘却していたわ」

『久しぶりに会ってそれとか、扱いがぞんざい過ぎやしませんかね?』

「何を贅沢を言っているの、お前は」


 カラカラと笑う王に、黒い蛇は大きく息を吐き出す。

 それに対し、シャレムの声には明らかに怒りが滲んでいた。

 王に苦言を呈する時とはまた違う。

 有り体に言って、《星神》シャレムは激怒していた。


「むしろこの程度の扱いで済んでいるのは陛下の温情よ?

 それを正しく理解しているのかしら」

『オイオイ、そんなにブチギレるなよ。

 俺だって別に戻りたくて戻ってきたワケじゃないんだ。

 邪魔だっつーなら直ぐに立ち去らせて貰うし。

 てかそのつもりだったのが、何故かとっ捕まえてるのはそっちだろ?』

「家出した馬鹿がノコノコ戻ってきたのだから。

 そんなもの捕らえるに決まってるでしょう?」


 バチバチと火花が散る。

 うんざりした様子の蛇に、シャレムはますます怒り顔だ。

 そんな両者に挟まれる形の王様は。


「双方落ち着け。

 断っておくが、別に罰を与えるために捕らえたワケではない。

 シャレムもそこは誤解してくれるなよ」

「陛下……」

『罰が目的じゃないってなら、ますます理由が気になるね。

 ブラザーと引き離されたと思ったら、いきなり籠の中だぜ?

 いい加減に文句ぐらい言って良いだろ』

「理由を問われれば、まぁ半分に満たぬ程度は嫌がらせ目的だが」

『おいちょっと??』


 冗談のように聞こえるが、多分冗談ではない。

 黒い蛇は、この《人界》の王がどういう人物かを良く知っていた。

 文字通りに古い付き合いだ。


『ブラザーは何か、面倒事を片付けに行ったんだろう?

 マジでいい加減に出してくれよ』

「まだだ。

 あの名も無き娘が心配なのは分かるがな。

 今暫くはその籠の内にいろ」

『そりゃ嫌がらせが理由か? 王様』

「嫌がらせだけが理由ではないな、古き友よ」


 古き友と。

 そう呼ばれて、黒い蛇は沈黙する。

 シャレムは何も言わない。

 何も言わぬまま、籠の中の蛇を見ていた。


『…………アンタは怒ってないのか、陛下』

「怒る理由がない。

 古き三神の内、お前の役割は『武力』だ。

 あの恐るべき悪神のように、《人界》を侵す程の脅威が現れたなら。

 これを撃滅する事が《光神》たるお前の役目だった」


 《光神》。

 それは失われたに等しい神の名だった。

 そう呼ばれた蛇は口を閉ざす。

 構わず、王は言葉を続ける。


「が、一番の脅威である《造物主》は海の彼方に消え去った。

 《人界》も安定し、これを脅かす程の危機もまた存在しない。

 であれば、多少の自由を許すぐらい何の問題がある?」

「陛下、私を見て下さい」

「シャレムは良く働いているな、王として常から感謝しているとも」

「できればもう少し誠意を持ってお願いします」


 ハハハハと、王は笑って誤魔化すことにした。

 シャレムも本気で言ってるワケではないので気にはしない。

 籠の中の蛇は、まだ沈黙したままだ。


「テミスと共に行かなかった事、そこまで悔やんでいるのか」

『言いにくい事をズバっと言ってくれるよな』

「王だからな」


 良く分からない理屈を、王は力強く断言した。

 それを聞いて、蛇はほんの少し苦笑いをこぼした。

 また一つ、大きなため息。

 

『……正直に言えば、理解できなかったよ。

 神の立場と力を捨ててまで人間を救おうとするテミスがな。

 俺は陛下のやり方で十分だと、そう思ってたからな』

「で、あろうな」

『テミスが去る時、俺は何もしなかった。

 意味がないと思っていたからだ。

 悪神が消えた後の大地になるべく人を運び、新天地とする。

 確かに、《巨人》に踏み荒らされたこっちよりはマシかもしれない。

 だがあの《造物主》の影響は確実に残ってる。

 《人界》の外で生きる事なんて苦痛でしかない。

 ……俺には、テミスの理想は苦しみの再生産でしかないように思えた』

「…………」


 その独白を、シャレムは黙って聞いていた。

 彼女は去ろうとするテミスを、一度は止めようとした立場だ。

 蛇の語る言葉は、彼女の胸にも重く響く。


「それをテミスには言ったのか」

『言ったさ、彼女が《人界》を去るよりずっと前だけどな』

「奴はなんと?」

『…………“それでも”』


 躊躇う……というよりは、慎重に。

 大事なモノをしまっていた宝箱から取り出すように。

 黒い蛇は、遠い日の言葉を口にする。


『“それでも、彼らは生きたいと願っている”』

「…………」

『……俺は、何も言えなかったよ。何が真正の神だ。

 何の言葉も返せずに、アイツとはそれっきりだ。

 それで俺は……耐え切れなくなった。

 俺にできるのは敵を滅ぼす事だけ。

 それ以外の事を知らず、テミスのように力を捨てて果たしたい望みもない。

 俺は――酷く、自分が恥ずかしくなった』

「……だから、《人界》を離れたの?」

『あぁ、そうだ。

 単なる世界を回す機構システムの一部なら、それで良かった。

 だが俺には、どうも心があったらしい。

 シャレム、俺はお前ほど上手く折り合いはつけられなかった。

 ……俺は最強の神かもしれないが。

 自分の心一つままならない、弱い生き物だったみたいだ』


 それは懺悔に近かった。

 身勝手に役割を捨て、何も残さず去ってしまった事。

 それを今更、同胞に向けて懺悔する。

 一通りを聞き終えて、シャレムは。



 それを一言で切って捨てた。

 見事なまでにバッサリだった。

 黒い蛇は「ぐっ」と唸ってうずくまる。

 大体の事を余興と楽しむ王すらも、笑い声が喉に引っ込んでしまった。

 しかしシャレムは容赦しない。

 少なくとも、数千年以上は降り積もったものがあるのだ。


「そんな理由でお前は《人界》を出ていったの?

 馬鹿馬鹿しい。

 アストレアがどれだけ歯を食いしばって来たと思ってるの? 

 友であるミネルヴァ含めて、彼女を気遣う者もいるけど。

 それでもあの娘が、何を背負ってここまでやって来たか分かる?」

『…………悪かった』

「謝る相手が違うわ。

 お前だって、まだ幼かったあの子を知ってるはずなのに」

「シャレムよ、少しは手心をだな」

「陛下は黙っていて下さい」

「うむ」


 《人界》の王は傲慢な暴君だが、道理というものは弁えていた。

 怒れるシャレムに迂闊に触れてはいけない。

 蛇に身をやつした旧友の無事を、王は言葉にせず祈った。


「……正直、言いたい事はまだまだあるけどね」


 更に言い募るかと思ったが。

 代わりにシャレムは小さくため息をこぼす。

 ただ、籠で丸まった蛇を見る目は変わらず氷点下だ。


「今更戻って来た理由は?」

『ブラザーがあの旅人たちに付いてくって聞かなかったんだよ。

 だからたまたまだ、戻ってくる気はなかった』

「……あの《天使》の血肉を持つ娘ね。

 彼女は、お前にとっての何?」

『ブラザーさ。

 何もかも理不尽に奪われた地獄で、アイツは転がってた。

 ばら撒かれた《天使》の羽根に蝕まれて。

 このままじゃ死ぬより悲惨な事になる直前で、たまたま俺がいた。

 ……最初は、全部消し飛ばすつもりだったんだぜ?

 それが神として俺がやるべき事だった』


 《天使》。

 それは《造物主》が創り出した厄災。

 かつてアベルがとある《庭》で行った凶行。

 撒かれた羽根に侵食され、生き物は醜悪な《巨人》に変貌した。

 放浪していた神が、その場に居合わせたのは偶然で。

 ただ一人、少女がまだ人間でいたのも偶然だ。

 汚濁を光で消し去るのが《光神》の権能。

 行う直前に、神は少女と目が合った。

 何もかも奪われて、何もかもなくして。

 何処へも行けなくなった瞳。

 自分と同じだと、神はそう思った。

 同じで、けど。

 それでも――それでも。

 何もかもを諦めきれない、そんな光を宿した瞳だった。


『……気付いたら助けてた。

 そんで、《天使》の血肉は俺が権能を使って不死身程度に抑え込んだんだ。

 まぁおかげで力の大半をそっちに割く羽目になったんだけどな』


 この姿は省エネのためだと、蛇の身をくねらせる。


「……何故、そんな真似をしたのか。

 理由は自覚してる?」

『ハッキリとは言えないね。

 ……強いて言うなら、真似事かな』

「真似事?」

『俺はテミスのようにも、お前シャレムのようにもできない。

 ……それでも、ブラザーひとりぐらい救えたなら。

 少しは、自分をマシに思えるんじゃないかなと、そう思ったんだよ』

「…………」


 沈黙し、瞼を閉じる。

 シャレムは祈るように指を組んだ。

 それから。


「……本当に、情けない男」

『ごふっ』

「シャレムよ、もう少し手心をな」

「その辺りの本音、一度でも本人に言ったの?

 言ってないんでしょうね。

 恥ずかしいだのと適当に理由をつけて。

 言わないと分からない事があるなんて、幼児でも理解してるわよ。

 現身を持ってから何年生きてるのお前は」


 容赦は一切なかった。

 籠で萎れる蛇を見下ろして、シャレムはまたため息一つ。


「……次に会ったら、ちゃんと話してやりなさい。

 あの娘も、いい加減に怒ってるわよ」

『……そうだな』


 厳しい声だが、優しさも含まれていた。

 蛇は素直に頷くと、改めて玉座の王を見た。


『そういうワケだ、俺はすぐにブラザーのところに……』

「もう暫し待て」

『なんでだよ、今そういう流れだったろ』


 それだけ聞けば意味の分からない言葉だった。

 しかし、シャレムも黒い蛇もその一言に含まれる重みを理解していた。


「何が見えたのですか?」

「残念だが霧が掛かった程度のものだ。

 星の存亡に関わる事のみ、我が目は未来の一端を捉える。

 詳細は分からん。

 しかし、お前が最初から関わると致命的な事になる」

『…………』


 王の預言。

 自身が語る通り、星の未来の中でも滅びの可能性のみを観測できる。

 ただし輪郭は曖昧で、ハッキリ分かる部分とそうでないモノが混在する。

 今回は蛇が最初から関わるのが危険である事は分かったようだが……。


「曖昧過ぎるが故、あの来訪者たちにも伝えなかった。

 言ったところで混乱させるだけだからな。

 ……ただ一つだけ、確かに感じ取れたイメージは……」

『イメージは、何だよ』


 蛇の問いに、王はほんの少しだけ沈黙を返した。

 そして。


「――


 曖昧で、それだけではハッキリしない。

 シャレムも黒い蛇も、ましてや王自身にすら詳細は分からない。

 しかし王が口にした預言は、酷く不吉な気配を孕んでいた。


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