389話:《雷帝》と鬼の王


 カドゥルにとって、それは文字通り青天の霹靂だった。

 『国』に近づく不明の気配。

 隠す気など毛頭ない、強大な力の存在感。

 《巨人》ではない。

 それほどに強い《巨人》であれば、サイズもまた相応だ。

 「地砕き」のように、遥か彼方でもその姿を確認できるだろう。

 しかし、気配の大きさに反してそれらしい姿は見えない。

 ならば《人界》の神か?

 何かの気紛れで、とうとう『国』を滅ぼしに来たのか。

 ――それならそれで良し。

 最古である鬼の王、カドゥルは特に動揺したりはしなかった。

 仮にそうであったなら、『国』は確実に滅ぼされる。

 人間と鬼が共存する理想郷と、多くの者たちは口にする。

 『国』の内部で生きる民の大半も、概ね似たような事を考えていた。

 ……かつて、まだカドゥルが若かりし頃。

 彼女は先代の《裁神》、アストレアの母たるテミスと出会った。

 人と鬼、慈悲深き神は双方の現状に憂いていた。

 過酷な環境で生きるには人はあまりに弱く。

 鬼は強靭だが、種としての闘争本能が強すぎた。

 どちらもいずれ滅びの結末が見えている。

 《裁神》テミスの嘆き。

 未だ荒ぶる鬼であった頃のカドゥルには、半分ほども理解できなかった。

 理解できず、しかし自らを打ち倒しながらも手を差し伸べたテミス。

 カドゥルはその手を取った瞬間から、奇妙な感情を覚えていた。

 それが友情だとか、愛だとか。

 そんな名前をついてる事すら知らなかった、若き青春の日々。

 悪神の死を感じ取った友は、鎖された地に人々の新たな救いを求めて去った。

 残されたカドゥルは、長い年月をかけてこの『国』を築き上げた。

 だが、それを特別な事だとカドゥルは思っていない。

 たまたまだ。

 自分はテミスと出会い、彼女やそれ以外の者たちの協力があった。

 誰もがこの荒野で生き抜くことを望んでいた。

 その結果が今の『国』で、そうなったのは本当にただの偶然に過ぎないと。

 カドゥルは、自分がした事などほんの僅かだと信じていた。

 仮に己が死した後も、誰かが後を継ぐ。

 それが多くいる我が子たちか、それとも別の誰かか。

 或いは『国』は滅び、集った者たちが荒野に投げ出される可能性も十分あり得る。

 仮にそうなったとしても。

 いつか、何処かで、誰かが。

 若かりし頃の自分のように、荒れ果てた大地の先を見るだろう。

 特別な事などなにもない。

 それがこの世界に「生きる」という事だと、古き鬼の王は知っていた。

 故に、彼女に驚きも焦りもない。

 《巨人》でもなく、ましてや《人界》の神でもない。

 しかしカドゥルが過去に遭遇した中では、友である《裁神》テミスに次ぐ脅威。


「――別に、手荒な真似をしたいワケではないの」


 それは美しい女だった。

 空をまるで地面の如くに踏み締めて、上から見下ろす女。

 力の気配が『国』に入ってしまう前に、カドゥルは迎撃に出ていた。

 やってくる方向は分かっている。

 人間を含め、戦うには力不足な鬼たちは可能な限り避難させた上で。

 客分であるトウテツと、十分な実力を備えた鬼の戦士たち。

 彼らを率いて、カドゥルはやって来る脅威を待っていた。

 そうして現れた者。

 カドゥル自身、覚えのない気配――いや。

 まったく同一ではないが、ごく最近に似たモノを感じていた。

 ――確か、あの海の向こうからやって来た旅人たち。

 彼らの中に、この女に近い気配を漂わせていた者がいたはず。

 ならばこの女もまた、海の彼方の断絶を越えて現れた者か。


「少し、ほんの少し、私の質問に答えてくれるだけで良い。

 そうすれば何もしないわ。

 ええ、誓ってね」


 美しい金髪を荒野の風に靡かせながら。

 赤を纏った女は、傲慢を形にしたような声でそう告げた。

 ……一目見ただけで悟った、悟ってしまった。

 この女――カドゥルから見れば小娘だが――は、恐ろしく強い。

 《人界》の神と同等、いやそれさえも上回る。

 カドゥルの膨大な経験の中でも、これ以上は先代の《裁神》であるテミスのみ。

 真正の神を除けば、最大最強とも呼べる力。

 ガキどもを連れてくるべきじゃなかったなと、カドゥルは小さく舌打ちをした。


「来て早々、挨拶も無しにそれか。

 オレ様も長く生きてるが、そこまで無礼な客はそこそこ珍しいぞ?」

「どうでも良いわ、この土地の流儀を学ぶつもりもないの。

 私は急いでるから、用件だけさっさと済ませたいだけ」

「奇遇だな、オレ様もこう見えて忙しい身なんだ。

 子供を相手に道理だのを説いてやるのも、そこそこ手間なんだぞ?」

「…………」


 空気が変わった。

 ピシリと、大気が凍りついたような感覚。

 何やら逆鱗を踏んでしまったことを、カドゥルは理解していた。

 ちょっとした売り言葉に買い言葉だろうに。

 明らかに怒りを滲ませる女を見て苦笑いがこぼれる。

 余りにも沸点が低いその様は、よく知る誰かを思い起こさせたからだ。


「此処に、余所者が来たはずよ。

 この土地で長く生きてるのなら、それぐらい見分けられるでしょう?」

「余所者なら、今まさに目の前にいるしな。それで?」

「何処へ行ったの。もしくは今まさに、此処で匿ってるのかしら?

 もしそうなら、すぐに私の前に連れて来なさい」

「連れてきて、それでどうする?」

「殺すわ、決まっているでしょう」


 実にあっさりと、何の迷いも誤魔化しもなく。

 女はカドゥルに向けてそう言い放った。


「そいつは――そいつらは、私が殺すべき敵、滅ぼすべき悪。

 生かしておいても何の得もない、むしろ周りに害悪を撒き散らすだけの災いよ。

 私はそれを裁きに来たの。

 この辺りに、そいつの気配が濃く残ってるのは分かってる」

「なるほど、なるほど。

 それならまぁ、誤魔化す意味はないわな」

「当然知ってるわけね。だったら――」

「教えるワケなかろうよ、馬鹿を言うもんじゃない」


 カドゥルもまた、何の迷いも躊躇いもなかった。

 一言で要求を拒絶して、口を大きく三日月の形につり上げた。


「オレ様を誰だと思ってる?

 この『国』を治める鬼の王にして、先代の《裁神》たるテミスの無二の友。

 カドゥルは客人の身命を売るような恥は晒さん。

 絡む相手を間違えたな、お嬢さん?」

「…………」


 圧が強まる。

 最初から隠す気もなかっただろうが。

 あっという間に力の気配が周囲を呑み込み、尚も広がっていく。

 それは『国』の全てを覆い尽くす程の規模だった。

 桁違いのエネルギーの質量。

 見たところ、女は右腕を失っている。

 元からなのか、または既に何らかの交戦で失ったものか。

 カドゥルには知る由もない。

 しかしそれほど大きな欠損があっても、女の力は強大極まりなかった。


「……イシュタル。

 名乗られた以上は、礼儀として返しておくわ。

 私は《大竜盟約》の序列四位たる大真竜、イシュタル」

「イシュタルか。それで、穏便に話をする気があるなら茶ぐらいは出すぞ?」

「いらないし、面倒は嫌いなの。

 だからもう一度だけ同じことを聞くわ」


 答えなど分かり切っている。

 態度でそう悟りながらも、女――イシュタルは地に降り立つ。

 一歩も退かぬと仁王立つカドゥル。

 その前へと踏み込んだ。

 ざわりと、カドゥルの背後に並び立つ鬼の強者たちがざわめいた。

 百戦錬磨。

 どんな《巨人》であれ怯まず戦い抜く一騎当千の鬼の兵たち。

 彼らですらたじろぐほどの重圧。

 豪奢で可憐な美女の姿など、イシュタルの本質からは遠い。

 その華美な薄皮の下には、『国』を瞬く間に滅ぼしかねない嵐が渦巻いていた。

 正面から相対するカドゥルは涼しげな顔だ。

 それ以外にも、トウテツなどごく少数の鬼もまた同様。

 一騎当千。

 それすら超える、闘争を呼吸の如く行う修羅。

 彼らの有り様を目にして、イシュタルはほんの少しだけ眉をしかめる。

 面倒だ――本当に、心底面倒だ。

 そうと知った上で、イシュタルは止まる気はなかった。

 見上げる。

 イシュタルも決して小柄ではないが、カドゥルの背丈は桁が違う。

 体格差については、まさに両者は子供と大人だった。


「カドゥルだったわね。

 こちらが下手に出てる内に、お前の知っている事を教えなさい」

「何度言われようが客人――いやさ、友を売る事などできんとも。

 イシュタルだったか。

 それでお前はなんとする?」

「……本当に、これ以上ないぐらい面倒だけど」


 ため息。

 イシュタルの唇から悩ましげな吐息がこぼれ落ちた。

 刹那。


「っ――――!?」


 拳が叩き込まれた。

 手を出したのはイシュタルだ。

 細い指を握り込む――ただそれだけの動作で、大気が過熱する。

 黒い雷を纏った鉄拳。

 その一撃を、カドゥルは正面から受け止めていた。

 腕を十字に構えての防御。

 手応えは硬く、相手の頑強さをイシュタルは悟る。

 しかし《雷帝》の腕に帯びた黒き稲妻。

 魂を焼き切る黒雷の前に、物理的な強度は意味を為さない。

 護りごと粉砕せんと、イシュタルが更に力を込めた、その直後。


「舐めるなよ小娘!!」


 カドゥルの咆哮。

 瞬間、イシュタルの拳が押し返された。

 凄まじい膂力。

 「地砕き」を押し返したパワーは、大真竜であるイシュタルさえも凌駕した。


「どぉりゃあぁぁぁっ!!」

「ッ!!」


 吹き飛ぶ。

 イシュタルも防ごうとしたが、今の彼女は隻腕だ。

 結果として、反撃の拳はイシュタルの胴を真っ直ぐに貫いた。

 「地砕き」を殴り飛ばした時と同等、いやそれ以上の威力だった。

 打ち貫いた右腕に、黒い炎が揺れている。


「今のでビビった奴は下がれ!!

 そうでない者はオレ様に付き合えっ!!

 行くぞッ!!」

「「「おうっ!!」」」


 返事は待たずにカドゥルは地を蹴る。

 トウテツを先頭に凡そ十人前後の鬼がそれに続いた。

 イシュタルは地に伏せている。

 全力全開を叩き込んだと、カドゥルは確信していた。

 仕留めたとは思わないが――。


「……油断したつもりはないけど、少し驚いたわ」


 イシュタルの声は笑っていた。

 それは余裕の笑みだ。

 カドゥルは慌てて周りの者たちを制止しようとするが。


「無駄」


 嵐が吹き荒れた。

 身を起こしたイシュタルが、軽く左手を横に払った。

 その動作一つで、無数の黒雷が矢の如く奔る。

 回避は不能、防御に意味はない。

 辛うじて防ぐことができたのはカドゥルだけだった。

 他の鬼たちは守りごと容易く貫かれる。

 一撃。

 貫く雷はいとも簡単に、強者たる鬼を地べたに叩き落とした。

 唯一の例外は。


「おおおぉぉぉぉッ!!」


 トウテツだ。

 彼は腕や胴体を黒雷に貫かれながら、構わずイシュタルに挑む。

 振り上げた大刀の柄を軋むぐらいに握り締め。

 渾身の力を込めて、その分厚い刃を叩きつけた。

 イシュタルは動かない。

 その場に佇んだまま、左手を振るう。

 拳の裏が触れただけで、トウテツの大刀は粉々に砕けた。


「邪魔」

「ッ!?」


 たったの一言。

 それだけ言っての蹴り一発。

 トウテツの巨体が鞠のように荒野を跳ねた。

 そこを狙う形で、カドゥルもイシュタルへと肉薄する。

 しかし。


「貴女は強いから、加減はしてあげない」


 イシュタルの眼は、一瞬もカドゥルから離れてはいなかった。

 黒い炎――真竜が称するところの《邪焔》。

 カドゥルは当然、その呼び名は知らなかった。

 ただ長い年月により引き出した境地。

 魂から生じる魂を焼く炎を、鬼の王は全霊により激しく燃焼させた。

 必殺であるはずの一撃。

 しかしそれを、イシュタルは正面から受け止める。

 黒雷を宿した左拳。

 それは燃えるカドゥルの鉄拳を、真っ向から弾き落とす。

 続く上段蹴りは、鬼の脇腹に深く突き刺さった。 

 倍を超える巨体が浮き上がる。

 呻き声一つ上げる暇もなく、降り注ぐ雷がカドゥルを貫く。

 加減はしないという言葉の通り。

 最初から叩き込まれる最大火力が、カドゥルを容赦なく打ち据えた。


「ぐ、ッ……!?」

「降参するなら早くして」


 言いながら、更に一撃。

 無防備な胸元を小さな拳が打ち抜く。

 戦いと呼ぶには余りにも一方的。

 最古の鬼の王が、ただ無力に地面を転がった。


「歳は取りたくないもんだな、まったく……!」

「年寄りの負け惜しみ?

 それより良いから、私の聞きたい事を話して」

「まだまだだぞ小娘――!!」


 かつての己と比べれば、どうしようもなく衰えた。

 その現実を苦痛と共に噛み締めながらも、カドゥルは屈しない。

 が、力の格差は非情だ。

 イシュタルはより強く拳を固めた。

 ――これだけ頑丈なら、死にはしないでしょう。

 仮に手足が消し飛んでも問題はない。

 そう判断し、イシュタルは黒雷を左腕に集束する。

 回避も防御も無意味な必殺の一撃。

 それは傷付いたカドゥルの身体を貫いて――。


「――ギリギリだったな」


 貫くはずだった、その直前。

 頭上から落ちてきた銀色の煌めき。

 カドゥルに向けていた拳を、イシュタルは反射的にそちらに打ち込んだ。

 全てを焼き貫くはずの黒雷。

 銀の剣閃は、それを確かに打ち砕いた。

 一秒ほど、カドゥルは呆気に取られた顔をしてから。


「……どうやら、借りを作ってしまったようだな。旅人よ」

「世話になったからな、むしろ返した形だよ」


 竜殺しの剣を構える戦士の背中。

 それを見て、カドゥルは微かに安堵の息をこぼした。


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