379話:《神官長》の導き


「……おぉ」


 扉を潜り、白い霧を抜けた先。

 そこにはが広がっていた。

 生の気配が死に絶えた荒れ野とは違う。

 踏み締めた土は柔らかく、青々とした草が辺り一面を覆っている。

 風は穏やかで暖かく、安らぎに満ちていた。

 見上げた空も澄み渡り、中天には太陽が輝いている。

 「世界」だ。

 幻だとか、作り物とは違う。

 ここは間違いなく一つの「世界」だと、根拠もなく確信させられた。

 ただの草原なのに、思わず大の字で寝転びたくなる。

 なかなか抗い難い誘惑だが、今はそれよりも……。


「……レックス?」

「ん?」


 聞き慣れた声に振り向く。

 広がる草原の中にアウローラの姿があった。

 彼女は俺を見るなり、真っ直ぐ駆け寄ってくる。

 飛びつく細い身体を正面から抱きとめた。


「良かった……!

 なかなか出てこないから、心配してたのよ?」

「悪いなぁ。どうも俺だけちょっと時間かかったみたいなんだわ」

「そうなの?」

「あぁ、時間食った以外は何もないから大丈夫だ」


 不安げなアウローラ。

 それに軽く笑ってみせて、頭をゆっくりと撫でる。


「ちなみに、他の連中は?」

「……それがちょっと良く分からないのよ」

「? どういう事だ?」

「私がここに出てきた時点で、いたのはボレアスだけなの。

 あ、アイツはそこらの地面で大の字になって寝てるから」

「俺が遠慮した事を躊躇なくやってんな」


 ちょっと羨ましく思うが、まぁそれは良い。


「……もしかして、俺より時間かかってるのか?

 いや、それは無いか。

 《律神》は俺が最後だって言ってたはずだしな」

「やっぱりそうよね……。

 私も終わってないのは貴方だけだって、そう聞いたから」

「ふーむ」


 《巨人殺し》と、その相棒の黒蛇。

 彼らは多分問題はないはずだ。

 それよりも、テレサとイーリスがいないのは気になった。


「とりあえず、探しに行くか。ボレアスは起こして」

「そうね。

 アイツが寝てるのはあの辺りよ」

「よし」


 アウローラが指差した辺りに近付いてみる。

 草の高さは膝に届くぐらいで、寝転んだら姿はすっぽり隠れてしまう。

 覗き込むと、全裸美女が草に埋もれる形で爆睡していた。

 それはもうぐっすりだった。

 この状況でいびきかいて眠れるとか、流石と言うべきだろうか。

 まぁとりあえず。


「おい、起きろよ」

「んがっ?」


 つま先でちょいちょいと蹴ってみると、すぐに反応が返ってきた。

 マジのガチで寝てたっぽいなコレ。

 草まみれな状態で、ボレアスはがばっと身を起こす。

 大きく伸びをしてから欠伸も一つ。


「……おぉ、竜殺しか。

 何だ、やっと出てきたのか?」

「待たせたのは悪かったな。

 ちなみに他の連中について何か知ってるか?」

「さて、我がここに出たのは長子殿と殆ど同時であったからな」


 つまり分からんと。

 身体を解しているボレアスを眺めながら、小さく唸る。

 二人は何処に連れて行かれたのやら。

 改めて周囲を確認するが、見渡す限り草原が続いているばかりだ。

 穏やかな世界だった。

 さっきまでいた死の荒野の方が、幻だったのかと錯覚しそうな程に。

 理想郷だと、そう誰かが口にしていた気がする。


「……此処は、本来の世界とは異なる空間ね。

 原理的には私の『隠れ家』とそう違いはないはずだけど。

 規模と完成度が桁違いだわ」

「やっぱりそんな感じか」


 戦慄と畏怖を込めてアウローラは呟く。

 本当に、どっからどう見ても普通の「世界」だものな。

 神様に導かれてやって来た楽園。

 選ばれた者だけが足を踏み入れる事を許される神聖な領域。

 《律神》が語った通り、俺たちは招かれざる客だ。


「で、そろそろ動けそうか?」

「我は別にいつ動いても問題ないぞ」

「あんな爆睡しといて良く言うわねコイツ……」


 まぁそこはボレアスだし仕方ない。

 問題なさそうであれば、二人を探しに。


「ようこそ、《人界ミッドガル》へ」


 行こうとしたところで、そんな声をかけられた。

 俺たちの正面、やや離れた場所。

 さっきまでは影も形もなかったと、そう断言できる。

 しかし現実として、そこに一人の男が立っていた。

 黒い装束に身を包んだ初老の男。

 綺麗に整えられた黒髪には白い部分が目立つ。

 歳は行ってるはずなんだが、イマイチ年齢は判じがたい。

 感情の読み取れない穏やかな表情で、男は俺たちを見ていた。

 ……こうして、声をかけられるまで。

 こっちの誰もその存在に気が付けなかった。

 加えて言うなら――。


「誰、お前は?」

「《星神》シャレム様にお仕えしております。

 皆からは《神官長》と呼ばれておりますが、まぁ単なる小間使ですな」


 ハハハ、と。

 アウローラの問いに、男は冗談めかして笑ってみせた。

 《神官長》と名乗るその人物。

 普通に笑って、そこに立っているはずなのに。

 相対している今も、感じる気配が酷く希薄だった。

 いきなり視界の外に出られたら、そのまま見失ってしまいそうな程だ。

 と、観察してたら目が合った。

 《神官長》は深い夜の瞳で俺を見る。


「どうか、そう警戒なさらずに。

 『審判』の終了時間には差が出てしまったようですので。

 先に終わった方々は、既にお迎えしております」

「そっちに案内してくれる、って事で良いのか?」

「ええ。ただ、一部の方は少々特別な対応をさせて頂いておりますが」

「? どういう事だ、それは?」

「説明致しますが、先ずはこちらに」


 首を傾げるボレアスに、《神官長》は曖昧に応じるのみ。

 それから俺たちを促す形で、広い草原の中を歩き出す。

 ついて来いって事だろうが。


「どうするの?」

「まぁ、行くしかないよな。

 とりあえず敵意とかも感じられんし」

「どの道、ここは相手の腹の中であろうしな。

 今は従う他あるまい」


 頷く。

 最悪、何かあれば暴れたら良い。

 ボレアスも多分似たような事を考えてる事だろう。

 背を向けて、ゆったりと歩く《神官長》。

 俺たちはその後をついていく。

 こっちを振り向かぬまま、初老の男は苦笑いをこぼした。


「どうか、物騒なことは考えないで下さい。

 ここは《人界》。

 永劫不朽の楽土なれば、争う意味も理由もないのですから」

「身内に何かされたらまぁそれなりにね?」

「そこは信じて貰う他ありませんなぁ」


 脅しに近い言葉に対しても、《神官長》は穏やかに笑うのみ。

 ……強そうにはまったく見えない。

 不思議と気配が希薄で、それだけなら影が薄いオジサンにも思える。

 ただ、何となく。

 何となく、この冴えない男が酷く危険な相手に思えた。

 下手な事をすれば、こっちが酷い目に遭いそうなぐらいには。

 相手も俺が察している事に気付いているのだろう。

 何気ない動作の端々から、俺に意識を向けているのが感じられた。

 心地よい風の中に、ほんの少しの緊張感が混ざる。


「……それで、今は何処に向かってるの?」

「先ずは神殿に。

 《人界》に入ったばかりの者は、先ずそこで身を清める決まりとなっています。

 特に王への拝謁を望まれるのなら、外界の穢れは落とさねばなりません」

「王様か」


 《人界》の王。

 大陸へ戻るためには、王の助けが必要だと。

 確かそういう話だったな。


「ちなみに、王様がどんな奴なのか聞いても良いのか?」

「アストレア様であれば、不敬とお怒りになられるところですな」

「そういうところだぞ竜殺し」


 いや、ちょっと気になったもんで。

 未だに「何か凄い王様」ぐらいの事しか分からんしな。

 苦笑しながら、《神官長》は少し空を見上げた。

 語る言葉を吟味した様子で。


「まぁ、飾らずに言えば偉大な暴君ですな」

「長子殿?」

「何でそこで私を呼ぶのお前は」


 ボレアスさんの言いたい事は分からんでもない。

 しかしまぁ、なかなかどストレートな表現が来たな。


「意外ですかな?」

「や、もうちょい飾ってくるかと思ってた」

「無意味な装飾など、そうする方がむしろ不敬と言うものでしょう。

 あの方は暴君ですよ。

 だが、それ以上に偉大な御方でもある」

「……この《人界》を創ったと、そう聞いたけど」

「ええ、その通りです。王はこの楽土を創造した救い手。

 この世で最も尊く、並ぶ者なき大偉業をなし遂げた王であらせられる」


 感情の見えづらい《神官長》。

 しかしその声には、ハッキリと畏敬と尊敬が込められていた。

 

「ホントに凄い王様なんだな。

 いや、この世界を創ったってだけで分かってたけど」

「ええ、偉大な御方です。

 それについては間違いありませんよ。

 個人としての好悪は、また別の話になってしまいますが」

「含みのある言い方だなぁ」


 ツッコんだら誤魔化すみたいな笑い声が響いた。

 風は変わらずに穏やかで、草原は遠くまで続いている。

 俺たちは何処に向かって歩いているのか。


「いやお恥ずかしい。

 既に申し上げた通り、陛下はなかなかの暴君であらせられるもので。

 私の主人である《星神》様などいつも振り回されっぱなしですよ」

「結構恨みがある感じか?」

「いやいや恐れ多い。

 ただもう少し自重して欲しいとは常々祈っておりますが。

 ええ、祈るだけなら咎められませんから」

「なるほどなぁ」


 理想郷や楽土と言われても、やっぱそれなりの苦労はあるわけだな。

 妙に納得して頷いてると、アウローラが小さく唸る。


「世間話も結構だけど、向かう方角あってるの?

 延々と草しか見えないのだけど」

「ご安心を。もう間もなくですよ」


 《神官長》がそう応えた直後。

 景色が唐突に切り替わった。

 草原のド真ん中から、集落らしき場所の入り口に。

 転移したとか、そんな気配はまるでなかったはずだ。

 本当に前触れもなく、世界の形そのものが自然に変化した感覚。

 アウローラすら驚いた顔でそれを見ていた。


「この先に神殿があります。

 まぁもう迷う事はないと思いますが、一応付いて来て下さい」


 穏やかに微笑むと、《神官長》はまたゆったりと歩き出す。

 小さな石の門を越えた先。

 そこはちょっと大きめな村のように見えた。

 煉瓦作りの家に、綺麗に世話のされている畑。

 後は牛や馬と、それらの面倒を見たり、農作業をしてる人々の姿もある。

 記憶も霞むような大昔なら、良く見た気がする風景。

 目覚めてからは逆に見ていない穏やかな世界がそこにはあった。


「こんにちわ、《神官長》様。

 今日も良い日ですね」

「ええ、こんにちわ。

 全ては偉大なる陛下と、十の神々のおかげです」

「こんにちわ、《神官長》様」

「こんにちわ」

「《神官長》様、こんにちわ」

「…………」


 特に変わった事は何もない。

 人々はみな優しく笑って挨拶を交わす。

 俺たちに対しても頭を下げて、軽く手を振る者もいた。

 余所者に向ける猜疑心だとか。

 そういう薄暗い感情は欠片も見られない。

 平和で平穏。

 満たされた幸福だけが全てを柔らかく包み込んでいた。


「……まるで牧場の羊ね」

「そう思われてしまうでしょうな」


 端的に人々の様子を呟くアウローラ。

 囁く程度の声だったが、《神官長》は聞き逃さなかった。

 振り向かず、村の中心にある広場を抜ける。

 正面には石造りの建物が見えてきた。


「これが《人界》なのですよ、お客人がた。

 大地は豊かで、人々は自らの手で作物を育て、家畜の世話をする。

 命の恵みに感謝し、それを糧としながら自身も生命の流転サイクルに身を委ねる。

 《人界》の外から来た者も、内で生まれ育った者も。

 例外なく、この平和な世界でそれを繰り返す」

「それが事実なら本当に理想郷ね。

 けど、人間がそんなもので満足するはずがないでしょう?」


 穏やかに語る《神官長》の言葉。

 それをアウローラは「馬鹿馬鹿しい」と嘲った。


「欲望に底なんてない。

 どれだけ平和で満ち足りていても。

 いえ不足がないからこそ、新しい何かを求める。

 欲望は生物の本能で根源的なもの。

 こんな土の匂いしかしない箱庭で、一体誰が満足すると?」

「彼らはそれだけで十分に満たされていますよ」

「それは貴方たちがそうしてるんでしょう?」

「……それはどういう意味だ? 長子殿」


 意味が分からないと。

 ボレアスは訝しげに問いかける。

 俺の方は、何となく言いたい事の想像はついていた。


「分からない?

 ここにいる人間は、十中八九精神を操作されてる。恐らくは――」

 ええ、貴女の仰る通りですよお嬢さん」


 ハッキリと。

 《神官長》は淡々と答えを口にした。

 まぁ、やっぱりそういう話になるのか。


「操られていると、貴方は嫌悪しますかな? 戦士殿」

「いや。必要だからそうしてるんだろ?」

「ええ、その通り。

 《人界》とは、滅び去るはずの人類という種を『保護』するための場所。

 この地に住む人間は、争いの要因となり得る感情を一部除去されています」


 悪びれる事も。

 そして誇るワケでもなく。

 《神官長》は単純に事実としてそれを語っていた。


「それは本当に理想郷なの?」

「理想郷ですとも。少なくとも、《人界》では種の存続は永久的に保証される。

 神が人に施せる救済としては最上級。

 そして、同時に限界でもあります」

「限界?」


 限界というのはどういう意味なのか。

 俺以外、アウローラやボレアスも分からないようだった。

 不理解に対し、《神官長》はただ曖昧に微笑んだ。


「まもなく神殿に到着します。

 このような場所ですから、大したもてなしも出来ませんが。

 今一時は歓迎致しましょう、異邦の客人がたよ」

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