終章:そして、戦いの渦は激化する
376話:《人界》と《大竜盟約》
《
荒れる海を望むその場所に、ひとり佇む者がいる。
年若い女だった。
背は高く、均整の取れた肉体は一分の隙もない黄金比。
その身を純白の甲冑で慎ましやかに隠した美女。
長く伸ばした薄紅色の髪を海風に靡かせ。
甲冑とは真逆の漆黒の外套を揺らめかせながら。
女は一人、遠い海の彼方を見ていた。
「……本当に来るのかしらね」
呟く。
聞かせる者のいない独り言。
聞く者がいないからこそ、女は気にせず言葉を紡ぐ。
「シャレムは《人界》に釘付けで、アストレアは別件。
他に手の空いてる神もいないし、私にお鉢が回ってきたのは分かるけど……」
ため息。
女も――《人界》の神、その一柱である女も別に暇というワケではなかった。
ただたまたま、そのタイミングでは身軽だったというだけ。
結果として、酷く面倒な役を押し付けられてしまった。
そのこと自体、女は特に文句はない。
アストレアほど真面目ではないが、彼女もまた神としては勤勉な方だ。
三神であるシャレムからの直々の命令とあらば否はない。
問題があるとすれば。
「……本当に来るか、よね。
海の向こう、あの鎖された地から攻撃してくる奴なんて」
思い出すのは少し前にシャレムから聞かされた言葉だ。
感情を見せる事の少ない《星神》が、珍しく疲れた様子を見せていた。
形程度には気遣ったが、「平気よ」の一言で流されてしまった。
その上で。
『海の向こう、鎖された地から渡ってくる者がいる。
何者かまでは私にも何とも言えないわ。
その誰かは、攻撃の意思を持ってこの《巨人の大盤》にやって来る。
現状では、あくまで「可能性が高い」という話に過ぎないけど』
それもまた、珍しくハッキリとしない言葉だった。
可能性がある。
如何に《星神》でも、悪神により断絶された境の向こうは完全には見通せない。
ただ、気になる事が一つ。
「……《
現在、悪神が生み出した地を支配する大勢力。
その名前は女も耳にしていた。
暫く前に《人界》に出入りしていた者が、その盟約の重鎮であったはず。
王との謁見の末に、《人界》と《盟約》は不可侵という取り決めが成された事も。
海を渡って来る脅威。
それほどの力を持つ相手など、《盟約》以外にはあり得ないはずだ。
だとしたら、不可侵の取り決めはどうなったのか?
「そういえば、異邦人が流れ着いたって話もあったけど。
アレも何か関係してるのかしらね」
残念ながら、彼女はそちらの件には全く関わっていない。
故に幾ら考えを巡らせても想像の域を出ない。
果たして、断絶されているはずの二つの地に何が起こっているのか。
理解が及ばぬ現実を前に、女はまた一つため息を吐いた。
「……いけない。これは余り良くない。
私は誰? 私は《人界》を統べる十の神々が一柱。
《戦神》ミネルヴァ。
私の役目を正しく思い出せ」
長らく、《人界》に脅威を及ぼす者など現れなかった。
緩んでしまっている自分を感じ、言葉を重ねて戒めとする。
女――《戦神》ミネルヴァ。
アストレアの母である先代の《裁神》テミス。
元々はその従者であり、主人が去るのに前後して神として昇格を果たした。
戦いの神たる彼女が有する権利、それは――。
「《人界》に仇なす敵を、討ち滅ぼす」
だからこそ、《星神》シャレムは彼女に使命を託した。
その権利を執行するために用いる権能は、《人界》でも屈指の力を誇る。
己の役目、全霊を賭して成すべき事。
それを再確認し、《戦神》は遠い空を睨んだ。
海は荒れ、天は暗い雲に覆われている。
嵐でも訪れそうな空模様。
最初は何の変化もないと、そう考えていたが。
「…………来た」
《戦神》は小さく呟く。
その声に応えるかのように、雷鳴が轟いた。
空を真っ二つに引き裂くような稲妻。
ただそれだけならば何も驚くべき事はない。
しかし、《戦神》はその目で見ていた。
落ちた雷の色を。
光を呑み込む暗黒。
自然にはあり得ない黒い雷が、曇天を裂いて荒れた海を穿つ。
同時に、世界そのものを圧迫する強烈な存在感。
神であるはずのミネルヴァさえ、ほんの一瞬だが気圧されてしまう程の。
「……誰、お前?」
聞こえてくる声に宿るのは、太陽の如き力と傲慢さ。
それ自体は美しい女の声だった。
可憐と言っても良いかもしれない。
しかし言霊に宿る力が強すぎて、そんな印象は完全に消し飛んでしまう。
ごく自然と臨戦態勢に入りながら、《戦神》は相手の姿を見た。
翼もなく、空の上に佇むその女の姿を。
「名を問う前に、自分から名乗るのが礼儀じゃない?」
「……呆れた。
まさか、いきなりそんな陳腐な台詞を聞かされるなんて」
不機嫌極まりない声。
《戦神》はなんとなく友であるアストレアの事を思い出していた。
外見的にも近い印象のある女だった。
絢爛豪華な女だ。
赤い
帯びた装飾品はどれも華美だが、女の美しさには及ばない。
短く纏めた金色の髪は空で燃えたつ太陽のようで。
瞳の赤色はこの世のどんな
放つ生命力の強さは、神ですら目が眩みそうな程だ。
「……どうせお前は《人界》の神とやらでしょう?
ええ、話だけは私も聞いてるわ」
心底面倒そうに。
豪奢な女は《戦神》を見下ろす。
「こっちはお前たちに用はないの。
もしかしたら絡まれるかと思えば、まさか待ち伏せしてるなんてね」
「《人界》と《盟約》は不可侵のはず。
無断で領域に踏み込まれたら、相応しい対応はするべきでしょう?」
「お前たちに用はないと、今言ったばかりだけど。
ええ、こっちの標的は別にいるの。
さっさと消え失せてくれたら、お互い面倒もないはずよ?」
「…………」
あまりの物言いに、《戦神》は軽く言葉に詰まってしまった。
高い位置から見下ろしてくる紅い双眸。
その眼差しには侮蔑と慢心がこれ以上なく含まれていた。
それを真っ向から受け止めながら。
――まさか、神より態度の大きい相手がいるなんて。
ついそんな事を考えて、堪え切れずに小さく笑ってしまった。
ギロリと、見下す視線の力が強まる。
「何がおかしいの?」
「別に貴女がおかしくて笑ったワケじゃないわ」
「――お前、私をナメてるわね?」
空気が変わった。
一秒前までも苛立ってはいたけど、むしろ無関心に近かった。
どうでも良いから邪魔をするな。
語る言葉の通りの態度だ。
けれど今は違う。
明確な敵意を瞳に燃やしながら、女は《戦神》を強く睨みつけていた。
沸点の低さもそっくりだと。
また友人の事を思い出して笑いそうになる。
二度目は表に出さず呑み込んで、しかし口元には笑みを浮かべた。
魂を押し潰すような眼光を受けても《戦神》は揺るがない。
「止めなさいよ、お嬢さん。
不可侵の約定がある以上、私たちに戦う理由はないはず」
「戦い? 戦いと言ったの? お前と、私が?」
「そうおかしな事を言ったつもりはないけど」
「それがナメてるって言ったのよ。
《人界》の神だか知らないけど、私にとっては単に邪魔なだけの障害物。
大人しく退くのなら無視してやるつもりだったのに――」
一方的に語りながら、女は艶やかに笑う。
美しいが、同時に酷く攻撃的な微笑みだった。
それを目にした瞬間、《戦神》が動いた。
「ッ――――!!」
虚空から引き抜いた一本の槍。
それは使い手自身よりも大きいが、《戦神》は慣れた手付きで構える。
間を置かず、そこに一条の光が直撃した。
光、より正確には輝く暗黒。
真っ黒い雷の矢が、女の指先から真っ直ぐ放たれたのだ。
「警告はしたから」
殆ど不意打ちに近い一撃。
それを女は悪びれもせず、逆に憐れむように笑ってみせた。
黒い稲妻は、確かに《戦神》を捉えていたが。
「……今のは少し危なかったわね」
槍の一部を少し焦がして。
他には特に負傷した様子もなく、《戦神》は変わらず槍を構えていた。
仕留めたと、そう確信したはずの手応え。
それは勘違いだったのかと、豪奢な女は眉をしかめた。
「今ので死んでおけば良かったのに」
「お生憎様。
私は《戦神》ミネルヴァ。
そう簡単に負けたら神の名が泣くもの」
面倒だと言わんばかりの女の態度。
《戦神》はそんなものは慣れっこなのか、柳に風と受け流した。
女はそれがますます気に入らず、憤怒と敵意を際限なく増大させていく。
「……不愉快だわ。ホント、心底不愉快」
「お友達になりに来たなら、もう少し態度を考えた方が良いと思う」
「戯言なんて聞きたくないわ」
殺気、敵意、憤怒。
敵にぶつけるべきありとあらゆる黒い感情。
それは同じ色の雷となって物理的に荒れ狂い出す。
大気が焼け焦げるその熱量。
《戦神》はかつてない戦慄を覚えていた。
気性はまるで癇癪を起こした子供と変わらないが――。
「強いわね、ホントに」
「……私はイシュタル、《雷帝》イシュタル。
《大竜盟約》の礎たる大真竜、その序列四位」
名乗られた以上は名乗り返す。
必要最低限の礼儀だけを示したなら、後は容赦する理由もなし。
莫大な魔力で周囲の空間を一瞬で制圧しながら、イシュタルは笑う。
そして、これから儚く滅び去るだろう神に対して。
「別に覚えなくて良いから。
どうせすぐに何も分からなくなるもの」
一方的に別れを告げた。
瞬間、黒雷が爆ぜた。
イシュタルの行った動作は、ただ右手をかざしただけ。
たったそれだけで、恐るべき破壊が顕現する。
あらゆる物理法則を嘲笑い、縦横無尽に黒い稲妻が荒れ狂う。
《嵐の王》と称された大真竜ヘカーティア。
彼女に比べたなら、威力を及ぼす範囲は酷く狭い。
大陸全土を覆い尽くす大嵐に比べれば微々たるものだ。
しかし、その破壊力。
触れただけで万物を消し炭にする圧倒的な火力。
それに関してはイシュタルの力はヘカーティアを遥かに凌駕していた。
視界内を全て薙ぎ払い、《雷帝》たるイシュタルは笑う。
愚か者は灰すら残っていないだろうと――。
「……恐ろしいわね、まったく。
ここまで肝が冷えたのは、ここ千年は無かったわ」
戦慄を帯びた声には、しかし恐怖や畏怖は感じられない。
黒い稲妻が消えた後に、変わらぬ姿で《戦神》ミネルヴァが佇んでいた。
纏う黒の外套が、まるで生き物のように不自然に揺らめく。
傷らしい傷もなく、手にした槍を構え直す《戦神》。
それを見て、イシュタルは心底不快そうに顔をしかめた。
「今、何をしたの」
「教えて欲しい? 大人しく話をする気があるなら考えましょうか」
「……そう。まぁ、どうでも良いわ」
とは言いながらも、イシュタルは激怒していた。
《竜体》ではないとはいえ、滅ぼすつもりで放った雷。
それを無傷で凌がれた事実に、酷く
大真竜としては最も年若く、そして力と才気に溢れたイシュタル。
彼女は自らを阻む存在を決して許容しない。
「殺す」
「まったく、どんな教育したらこんなキレやすくなるのかしらね……!」
情緒不安定な友の顔を思い出しながら。
《戦神》ミネルヴァは地を蹴った。
挑むは大真竜、序列四位たる《雷帝》イシュタル。
《
本来は不可侵であるはずの両者の戦いは、止まらぬ濁流の如く始まった。
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