幕間4:人界の王


 ――それは、遥かなる虚空。

 真っ白い空白だけが永遠に広がる空間。

 何もない。

 物理的なモノは何一つ無い。

 仮にその場にまともな人間が迷い込んだのなら、程なく発狂する事だろう。

 しかし、その虚空に身を置く者は人間ではあり得ない。

 もとより、この場に足を踏み入れる資格を持つ者は限られていた。

 《人界ミッドガル》。

 古き文明は駆逐され、悍ましき《巨人》と哀れな鬼が跋扈する大地。

 その過酷過ぎる環境で生き抜くには、人間という種はあまりにも弱すぎた。

 故に嘆き祈る人々の声に応え、星の深奥より奇跡が執行された。

 最初に降臨した最も古き三柱の神。

 それらの神々と共に、無辜の民を導いた偉大なる王。

 彼らが創造せし理想郷。

 この空白の世界こそが《人界》の中心。

 ならば其処に存在する者とは――。


「……陛下、お戯れが過ぎます」


 何もないはずの世界に響く少女の声。

 星の色を映した銀の髪に、穢れ一つない白の装束。

 可憐で美しい見た目とは異なり、少女は《人界》でも最も古い神の一柱だった。

 最古たる三神、《星神》シャレム。

 《人界》でも並ぶ者なき実力者である彼女は、しかし今は恭しく頭を垂れている。

 もっとも、その態度と比べれば言葉には大分棘があったが。


「全て目になされているはずでしょう。

 あの愚かで哀れなアベルの蛮行も何もかも。

 まさか、これも『戯れだ』と見過ごされるおつもりですか?」

「――そう怒るな、シャレム。愛らしい顔が台無しだぞ?」


 応じて笑うのは、まだ年若い男の声。

 いや、年若く聞こえるのはあくまで表面的なものに過ぎない。

 その声に宿った時間の重み。

 数千年か、或いはそれより遥かに長い年月を経た重圧。

 冗談混じりに吐いた言葉の一つにさえ、強大無比な力が宿っている。

 もし、この場にいるのがシャレム以外の神ならば。

 その一声だけで物理的に平伏させられていたかもしれない。

 ……この何もない空間。

 王たる者が身を置く玉座としては、酷く殺風景だ。

 が、これは必要があってこうなっていた。

 あまりに強大過ぎる「王」という存在が、《人界》に影響を及ぼさぬための措置。

 王とはこの理想郷を支える要石。

 だが同時に、その強大さは《人界》そのものを崩してしまう危険性も秘めていた。

 故に王はこの何もない世界で、ただ一つの黄金の玉座に身を委ねる。


「陛下」

「怒るなと言っただろう?

 アストレアが絡むとお前は冷静さを欠いていかんな」

「貴方の娘でもあられるのですよ」

「無論、そんな事は言われるまでもなく分かっているとも。

 愛しく可愛らしい我が娘だ。

 しかし甘やかしてばかりでは親とは言えまい?」


 良く言う、と。

 シャレムは口に出しそうになった言葉を呑み込んだ。

 親子の情であるとか。

 そういう感情モノを王が少しも抱いていない事。

 それはシャレムも承知の事だった。

 しかし、その事について批判しても意味はない。

 王とはそういう存在である事も、シャレムは重々承知しているからだ。

 ――真正の神である私の方が、あの子に情を抱いているなんて。

 酷い皮肉だと感じながらも、それを表情に出すようなこともしなかった。


「……アストレアの件は置くとしても。

 アベルがあのまま彼女の魂を喰らえば、取り返しのつかない災厄となりかねない」

「確かにな。

 我からすれば大した脅威ではないが、他の神々や《人界》の者たちにとってはな。

 まぁ、アレに最低限の知能があれば《人界》に手を出す事はあり得まいが」

「愚か者が賢くある事を期待なさるのですか?」

「今日はいつにもまして辛辣だな。まぁ無理もない話か」


 笑う。

 玉座に着くただ一人の王。

 虚空たる謁見の間の中心にて輝く、人の形をした太陽。

 全ての神々の頂点に立つ、この《巨人の大盤ギガンテッサ》における唯一絶対の超越者。

 その力を以てすれば、《秘神》の愚行など取るに足らない。

 この虚空の玉座から、指一本動かすだけで良い。

 速やかに下される神罰は、いとも容易くアベルの思い上がりを叩き潰すだろう。

 シャレムも、そうしてくれる事を僅かながらにでも期待していたが。


「だが、放っておけ。

 アレは愚かで、その器も矮小極まる。

 今は唆されて少々気が大きくなっているようだが、どうせ大した事はできん」

「……そうですか」


 これだ。

 王の出した結論に、シャレムは隠す事なく落胆のため息をこぼした。

 一番付き合いの長い側近の露骨な態度。

 それすら愉快だと、王は声を出して笑った。


「陛下」

「怒るな怒るな。

 これまで我の言った事が、誤りであった事があるか?」

「今や《人界》に残る三神は、私のみになってしまっていますが」

「それを言ってくれるな。

 王たる我とて完璧でもなければ完全でもないのだ」

「承知なさっているなら結構です」


 ため息一つ。

 シャレムはその責務ゆえ、《人界》を離れる事など絶対にあり得ない。

 残る二神の内、一神はその情の深さ故に神である事を捨てた。

 そしてもう一神は、自分の弱さに耐え切れなくなって《人界》を去った。

 今度は意図せぬまま、シャレムは吐息をこぼす。

 もう戻ってくる事はないだろう、古き同胞たる二神。

 人としての形を得ているためか、過去を思う度に感傷的になってしまう。

 人の在り方に引っ張られすぎるのは良くないと、シャレム自身も戒めてはいるが。


「……陛下。

 こうなれば、お手を煩わせるつもりはありません。

 ならせめて私の介入をお許し願いたい」

「駄目だ。三神たるお前が動けば、如何にアベルとてひとたまりもあるまい。

 そうなってしまっては台無しではないか」

「何が台無しなのですか、陛下」

「人と神、あぁ後は竜なる生き物か?

 それらが争う様は、なかなかに楽しめる催しではないか」

「お戯れが過ぎます」


 やや強い口調で咎めるが、王に対しては柳に風だ。

 むしろ《星神》の怒りさえ愉悦だと、王は笑うばかりだった。


「陛下」

「気持ちは分からんでもないが、そろそろ落ち着くといい」


 頭を垂れる事も止めて、いっそ睨むように見てくるシャレム。

 王はそんな臣下の態度を無礼とは咎めなかった。

 今この謁見の間に存在するのは、古い馴染みの二者だけ。

 シャレムもそれを分かっているから普段以上に遠慮がなかった。

 故に王も、気安い言葉でシャレムに語る。


「我が許した途端、お前はアベルを裁くために《人界》を飛び出すつもりだろう」

「ええ、そのために許可を求めているのです」

「ならば王として、それを認めてやる事はできんな。古き友よ。

 理由は聡明なお前ならば、わざわざ口にするまでもなく理解できると思うが?」

「…………」


 戯れるような口調。

 ふざけているとしか思えない言葉だが、シャレムは口を閉ざす。

 果たして道理はどちらにあるか。

 それが王の方であると、《星神》も分かっていたからだ。

 自然と吐息がこぼれる。

 王は疑いようもなく暴君だが、決して暗君ではなかった。


「……他の二神のように、許しては下さいませんか」

「影響が大き過ぎるからな、星の女神よ。

 十の神々の多くは、請われたが故に我が力を下賜しただけの紛い物に過ぎん。

 真正の神と呼べるのは、お前を含めた三神のみだ」


 今や《人界》に留まる唯一の神性。

 星の神たるシャレムに、王はいっそ穏やかな声で諭した。

 まるで賢者の振る舞いだが、実際には少し違う。

 改めて言われずとも承知の言を繰り返す事で、シャレムの反応を見たいだけ。

 有り体に言えば嫌がらせに近い。

 そんな王の戯れに、シャレムは立場上付き合う他なかった。


「特にシャレム。

 お前は魂の運行、生と死の流転を管理する聖なる焔の代行者。

 その役目は王たる我にも務まらん。

 自らがどれほどの重責を担っているのか――」

「分かりました、分かりましたとも。

 私の浅慮が過ぎました。

 この身の役割がとれほど重いのか。

 十分以上に理解しております故、どうかお許しを」

「あぁ、分かっているならそれで良い。

 お前に万一があれば、輪廻――魂を正しき流れに還す《摂理》が乱れる。

 軽々な行動は控えるように」

「陛下の仰せのままに」


 笑う王の言葉に、シャレムは頭を垂れる。

 物言い自体は嫌がらせだが、王の言う事はまったく正しかった。

 最古の神たる《星神》シャレム。

 彼女は王が語る通り、魂が生と死の流れを正しく辿るための管理者。

 生命の輪廻を司る《摂理》の化身だ。

 《摂理》そのものではないが、その重要な部分を担っているのは間違いない。

 故にシャレムが万一滅びる事があれば。

 それは星の理に大きな欠落を抱える事になってしまう。

 そうなれば、偉大なる王でもどうしようもない。

 《人界》の要石たる王にも匹敵するほど、シャレムの存在は重要だった。

 換えが効かない、という意味でも同様に。


「……せめて、私の代理となれる巫女の資格を持つ者がいれば」

「それこそ難しかろう。

 星の神、《摂理》を正しく回すその役目を担う資格を持つ者。

 この《人界》を創造して随分経つが、そんな者は一人もいなかった」

「万一を考慮するなら、私も次代が必要とは考えていますが」

「その万一すら起こさぬ事。

 それを己の役目としている《神官長》が聞けば泣くぞ?」

「あくまで例えばの話です」


 からかうように指摘してくる王に、シャレムはまたため息を吐く。

 《裁神》を継いだアストレアのように、次代は必要だ。

 しかし現状は完全に無いものねだり。

 これについては、今考えたところでどうしようもない。

 そんな事よりも。


「陛下、話が脱線しましたが……」

「アベルについては捨て置け。

 どうせアレが望みを果たす事などありはしない」


 ハッキリと。

 シャレムの懸念を王は容易く切って捨てる。

 驚く《星神》の顔を見て、偉大なる王は浮かべた笑みを深くする。


「別に未来を視たワケではないぞ?

 ただ、アレは根っからの『負け犬』だ。

 如何に力を振りかざし、己が偉大であると吠え立てても。

 奴が本当の意味で勝利することなぞ未来永劫あり得ん。

 それが出来たなら、奴はあの怒れる《焔》に挑んでいたはずだ。

 海の彼方に去る《造物主》を、嘆きながら見送ったりはしなかったはずだ」


 挑むべき敵からは逃げ出し。

 自らを生み出した父たる悪神からは見捨てられ、己もそれに甘んじた。

 そんな無様で哀れな神の紛い物を、王は静かに嘲る。


「まぁ、それを差し引いてもアレが強大なのは事実。

 アストレア一人では荷が重いやもしれん。

 人間が勝てる程に容易い相手でもない」

「……そうと分かった上で、それでも陛下は捨て置けと?」

「これでアベルが敗北するなら、それは奇跡だ」


 奇跡。

 本来なら起こり得ない事。

 負け犬と嘲りながら、アベルが負けるのはその領域だと王は語る。

 その上で。


「もし奇跡が起こるなら、これほど愉快な事もあるまい?」

「…………」


 それは分かり切った返答だった。

 分かり切っているからこそ、シャレムは黙って眉間を揉んだ。

 その様子すら愉快だと、玉座の王は声を出して笑っている。


「陛下」

「このぐらいは許せ。

 それよりだ、シャレム。

 お前が注意すべきはアベル如きではないぞ?」

「……それはどういう意味で?」

「分からぬか。

 であれば、相手はなかなかの道化と見える」


 言葉の意味が分からず、《星神》シャレムは訝しむ。

 ただ一人、王だけは全てを見通していた。


「お前は視野こそ広いが、細かくは見落としがちなのが欠点だな。

 ――アベルなどは前座だ。

 道化は蠢き、海の彼方からは新しき雷が来る。

 備えは万全にしておけよシャレム。

 或いは《人界》を揺るがすような祭りになるかもしれんぞ?」


 頬杖を突いて呑気に笑う王。

 その姿を見ながら、シャレムは何度目かのため息を吐く。


「備えよと言うなら、もう少し詳しい事をお聞かせ願いたいのですが?」

「それでは退屈だとは思わんか?」

「…………」 


 お戯れが過ぎますと。

 繰り返そうとして、シャレムは言葉を呑み込んだ。

 言ったところで、この虚空で退屈している王は聞き入れてはくれまい。

 彼の王は間違いなく偉大であるが、同時にどうしようもなく暴君なのだ。


「……仰せの通りに、大いなる《人界》の王よ」


 形通りの返事をしながら、シャレムは二つの事を祈った。

 一つは可愛いアストレアの無事。

 そしてもう一つは、王が語る「《人界》を揺るがす」ような事態が起こらぬ事。

 前者はまだしも、後者は困難だろうと半ば悟りながら。

 動けぬシャレムは、暇を持て余す王の相手を続ける他なかった。


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