364話:試練の先で笑う者


 死ぬ。

 もう目の前まで蒼色の炎が迫っていた。

 恐らくは《鬼神》にとっても渾身の一撃。

 まともに喰らえば塵も残らない。

 身に帯びた甲冑の護りでは、薄紙程度の役目も果たせないだろう。

 死ぬ。

 どうしようもなく死ぬ。

 これまで何度も味わってきた死神の吐息。

 今は鼻先の距離でそれを感じながら、俺は踏み込んだ。

 後ろに退いても意味はない。

 左右へ避けようにも間に合わない。

 だったら後は、前に出る以外に道はなかった。


「レックス!!」

『おい、竜殺し……!!』


 悲鳴じみたアウローラの声。

 焦燥に駆られたボレアスの声。

 他にもテレサやイーリスの声も聞こえた気がするが、それらは酷く遠かった。

 時間の流れが遅い。

 死に直面した事で、感覚が引き伸ばされているのか。

 泥の海を泳いでいるように、全ての動きが驚くほど緩慢に見えて。

 その中で俺は剣を振り上げた。


「――――」


 死ぬ。

 一秒も掛からず、《蒼炎》はこちらを呑み込む。

 魂から生じた炎。

 《摂理》の外にある、万物を焼き尽くす力。

 それが何であるのか完全に理解したワケじゃない。

 ただ、それがなら。

 この手にあるのは、だ。

 不滅の魂を持つが故に不死である古竜。

 それを「殺す」ために鍛え上げられた唯一つの魔剣。

 ならば、出来るのではないか?

 魂を切り裂くのも、魂から生じた炎を切り裂くのも。

 どちらも本質的には同じものであるはずだ。

 ――理屈とか、難しい事は俺には分からない。

 この思いつきが、そもそも論理的に成り立っているのか。

 そんな事は当然、俺の頭じゃ分かるはずもない。

 だから。


「がんばるか……!!」


 それだけだった。

 それだけを言葉にして、迫る《蒼炎》に自ら踏み込む。

 理屈は知らない。

 理論は分からない。

 ただ、「できる」という根拠のない確信だけを刃に込める。

 しくじったら死ぬだけだ。

 俺が死ぬだけなら、まぁギリギリ許容範囲だが。

 今この瞬間に俺が死んだら、アウローラたちも死ぬ事になる。

 それはちょっと頂けない。


「おおおぉぉぉぉおッ!!」


 吼える。

 炎の余波だけでも、全身を丸焦げにされそうなぐらいに熱い。

 ――形のない炎を、剣で斬るなど不可能。

 ましてそれが理の外にある、魂さえも焼く炎ならば。

 そんな「分かりきった常識」は、今この瞬間だけは全て忘れた。

 忘れて、完全に馬鹿になった上で振り下ろす一刀。

 一瞬……いや、一瞬と呼ぶにも短すぎる刹那。

 世界が真っ暗に閉じたような、そんな錯覚を覚えた。

 《蒼炎》が直撃して即死したのかとも思ったが――違う。

 分からない。

 何も分からない事だけが分かる。

 多分、「ソレ」は理屈じゃ説明できない何かだ。

 俺が「ソレ」にほんの少しだけ掠めたから、感じ取れたに過ぎない。

 「真理」だとか何だとか、頭の良い奴は名付けたがるかもしれないが。

 きっとそれに意味はない。

 理解しようとすれば逆に遠ざかる。

 だから俺は、頭を空っぽにしてその刹那の闇を踏み越えた。

 五感が消失した中で、ただ振り下ろした刃の手応えだけはハッキリと感じ取れた。

 そして。


「ッ――――!?」


 世界が戻ってきた。

 身体中が焼けるように熱い。

 《蒼炎》を浴びた事で、甲冑はもう半分近くが焼き潰されている。

 その状態でも俺はまだ生きていた。

 そして目の前には、拳を振り抜いた姿勢で固まる《鬼神》の姿。

 黒水晶の装甲に隠れているため、表情は見えない。

 だがその見えない顔が、驚愕に染まっている事だけは分かった。


「バサラの《蒼炎》を、斬り裂いた……!?」


 アストレアの声が、成し遂げた結果を示していた。

 うん、がんばった。

 やっぱりやればできるもんだ。

 とはいえ、斬り裂いても《蒼炎》自体は結構浴びてしまっている。

 正直大分死にそうだが、もうひと踏ん張り。

 大技を放った直後で《鬼神》の動きは完全に止まっていた。

 時間としては一秒にも満たないだろう硬直。

 その僅かな隙を逃さぬよう、もう一度剣を構える。

 《鬼神》が纏う黒い水晶の如き装甲。

 竜の鱗さえ遥かに凌ぐ強度で、竜殺しの刃すら殆ど通さなかった。

 だから《鬼神》の方も、驚きこそすれ焦りはなかった。

 満身創痍の俺にできるのは、精々あと一太刀ぐらいだと。

 相手もそう見切っているはずだ。

 ――あぁ、その予想は正しい。

 あと一太刀。

 この一瞬で振るう一太刀だけで十分だ。


「オラァッ!!」


 力尽きかけた身体を、気合いで動かす。

 叫びながら振り下ろす一刀。

 描く刃の軌跡には、が混じっていた。


「ッ、まさか……!?」


 《鬼神》も気付いたようだ。

 だが少しばかり遅い。

 叩きつけた剣に感じる確かな手応え。

 黒水晶の装甲は硬く、これまで何度も弾かれた。

 だが、今この時だけは違う。

 青白い炎――ついさっき斬り裂いたばかりの《蒼炎》。

 魂を喰う刃は、その一部を刀身に焼き付けていた。

 あらゆるモノを焼くという炎の力に偽りはない。

 無敵とすら思えた《鬼神》の装甲すら、その例外ではなかった。

 切り裂く。

 炎が《鬼神》の装甲を焼き、脆くなった部分を竜殺しの剣が切断した。

 噴き出す血は、人間と同じ赤色だった。


「バサラ!?」

「ッ………!」


 アストレアが叫んだ。

 右腕を半分ほどと、右肩から胸まで。

 俺の放った一太刀は、《鬼神》の身体を深く斬り裂いた。

 普通の人間なら完全に致命傷。

 だが、そこは相手も神様だ。


「……流石って言うべきか?」

「賞賛なら、素直に受け取っておくよ」


 ギリギリ。

 本当にギリギリのところで踏ん張る。

 力の大半を出し切って、俺の方は今にも倒れそうだ。

 対する《鬼神》の方も似たようなものだった。

 右腕は千切れかけて、肩に受けた傷も心臓に達する程度には深いはず。

 血は今もドバドバと溢れ出し、乾いた荒野に赤い水溜りを作る。

 それでも《鬼神》は倒れない。

 残る左拳を構えるが、完全には腕が上がりきってない。

 まぁ俺も、構えた剣が実に中途半端な位置で震えているわけだが。


「死にそうじゃないか」

「そっちこそ」

「俺は神だから死なないよ。

 まぁ失血のし過ぎだし、この傷はすぐには塞がりそうにないけど」

「じゃあ、お互い死にかけだな」

「あぁ、そういう事になるね」


 我ながら、何の話をしてるのやら。

 俺が思わず笑ってしまうと、《鬼神》も少しだけ笑った。

 笑い合って、それから大きく息を吐く。


「で、どうする?」

「そういう君の方こそどうしたい?」

「そっちがやる気なら、こっちも付き合うだけだな」

「……俺は神だから死なない。

 肉体は致命傷を受けてるけど、後で治せば問題ない。

 けど君は、これ以上続ければ確実に死ぬと思うけどね」

「そりゃまぁ、俺一人なら死ぬだろうな」


 うん、間違いない。

 仮にこれ以上続けても、相討ちまでが精々だろう。

 《鬼神》の言うことは正しい。

 なので。


「――危なくなったら、助けに入っても良いのよね?」

「悪いなぁ」


 傍らに降り立つアウローラに、一先ず謝っておいた。

 ちょっと泣きそうな顔をされると、流石に申し訳ない気持ちになる。

 彼女の手が俺の腕に触れると、優しい熱が焼けた身体に染み通っていく。


「これで足りるか分からないから、賦活剤の方も呑んでおいてね?」

「あぁ、助かった。ありがとうな」

「貴方が無事ならそれで良いわ」


 応えながら、アウローラの眼は正面を見据える。

 傷つき、未だ倒れることのない《鬼神》。

 満身創痍な神様の様子を見ながら、アウローラは低く唸った。


「卑怯とは言わないでしょう?」

「これでも神様だからね。

 ……しかし、そうか。

 そっちは仲間がいるんだから、無理に一人で戦う必要もないか」

「さっきまでなら危なかったけどな」


 アウローラの魔法と懐から出した賦活剤。

 《蒼炎》で焼かれたせいで、傷の治りは相当に悪い。

 それでも何もないよりは大分マシになってきた。

 後ろから、《巨人殺し》も装甲を纏った状態で前に出てくる。

 テレサはイーリスの傍に付いているようだ。

 なら、そっちは特に問題はないだろう。


『……確かに、万全な《鬼神》と全員で戦ったなら犠牲が出たやもしれんな。

 だからといって一人で戦うのは狂ってるとしか言いようがないが』

「いや、そこはがんばるところだと思ったんで」

「そういうところよホントに」


 呆れる竜姉妹にはとりあえず笑って誤魔化しておく。

 全然誤魔化せてない気がするがそれはそれ。

 《鬼神》は動かない……というよりは、動けないか。

 流れる血は少なくなってきているが、傷が塞がった様子はない。


「……この状態じゃあ、流石に《蒼炎》も出せないか」


 ため息混じりの声。

 元々殺気や敵意は殆ど感じられなかった。

 そんな《鬼神》から、戦意も薄らいでいくのが見て取れた。


「バサラ……」

「見ての通りだよ、アストレア」


 怒りか、戸惑いか。

 微かに震える声で呼びかける同胞に、《鬼神》は変わらぬ調子で応じる。

 信じられないと、アストレアは奥歯を噛み締めて。


「これは流石に、俺の負けだよ。

 このまま戦っても分が悪すぎる」

「お前は、それを認めて良いのか」

「問題ないよ。

 俺は《鬼神》で、弱い人間が荒野で苦しまぬよう殺すのが役目だ」


 感情的なアストレアとは真逆に、《鬼神》はただ淡々と語る。


「彼――レックスは、神である俺にも負けない程に強かった。

 ならば《鬼神》が行うべき権利の対象じゃない。

 だから何も問題はないよ」

「勝った、とは言わないんだな」

「君とだけ続けてれば、良くても相討ちだろう?」


 それはまったくその通り。

 神様の言うことが正しいので、反論するのは止めておいた。

 半ば諭すような言葉だったが、アストレアはまだ納得していないようだ。

 神が人間に敗北する。

 その事実が単純に受け入れがたいのだろう。

 ……とはいえ、試練として戦ったのは《鬼神》だ。

 同胞が下した判断を覆す権利がない事は、彼女自身も理解していた。


「…………分かった。

 腹立たしいが、試練の役を担っているのはお前だ。

 今の私はただの案内人、その意思に異を唱える無粋はすまい」

「ありがとう、アストレア」

「……何とかなったわね。

 ホント、一時はどうなる事かと思ったけど」


 傍らに立つアウローラが、ほっと安堵の息を漏らす。

 いやまったく、《鬼神》とやりあってた時はマジで生きた心地がしなかった。

 しかしこれで《巡礼の道》の試練とやらも……。


「――神たる者が、実に嘆かわしいじゃないか。

 あぁ、アストレア! 君の嘆きに私は理解を示そう!」


 突然。

 本当に何の前触れもなく、頭上から響く声。

 見上げた先、空の上に佇む何者か。

 白い装束を身に纏った一人の男。

 尋常じゃない気配を纏ったソイツは、口元を愉快そうな笑みの形に歪めて。


「であれば、同胞の一員として手を貸そう!!

 たかが人間を相手に、神たる者が敗北を認める。

 そんな神の威信を地に貶める愚行、あってはならない事だからねぇ!」


 えらく喧しい声でそう騒ぎ立てた。

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