幕間2:慈悲深き神
果てしなく、どこまでも広がる死の荒野。
遥か遠い過去、《造物主》を自称する悪神によって蹂躙され尽くした大地。
全てが死に絶えているが故に、真っ当な生物は長くは生きられない。
死を忘れてしまった《巨人》。
或いは、生物として極めて強靭な鬼。
《
まともに生存できるのはこの二つの種のみ。
人間はか弱く、この荒野で生き残るのは不可能に近い。
故に。
「ッ……も、もう無理だ……!」
「糞、チクショウ……っ!」
血反吐のように泣き言を吐きながら。
荒野を走る二人の男。
彼らの命もまた風前の灯火だった。
身に付けた衣服もボロボロで、身体にも大小無数の傷跡がある。
今は生命としての底力で駆けているが、限界が訪れるのはそう遠くはない。
間もなく全てを使い果たして一歩も動けなくなる。
そうと分かっていても、彼らにはどうしようもない。
止まった瞬間に自分たちが死ぬ事だけは、嫌という程理解してるからだ。
「ヒャッハァー!!」
二人の男を追い立てるふざけた声。
振り向く余裕なんてないのに、男の片方は肩越しに後ろを見てしまった。
追っ手の数は五人ほど。
彼らは皆、屈強な体躯と頭に数本の角を生やした鬼だ。
鬼の階級で言えば《修羅》――最も数が多い戦士階級に過ぎない。
《鬼王》と比較したら、文字通り木っ端のように蹴散らされる連中だ。
が、戦う力を持たない男たちにとっては死の恐怖そのものだった。
「ハハハハ! 逃げろ逃げろ!
逃げないと捕まえて食っちまうぞ!」
「まぁ逃げても最後は捕まえて食っちまうんだけどな!」
「ハッハッハッハ! 違ェねぇや!」
「《庭》の追放者なんてのは珍しいもんなぁ!
逃がすワケねェから覚悟しろよ?」
「ッ……糞……!」
ゲラゲラと笑い、加減した追跡を続ける鬼ども。
その言葉に、男の一人は呪うような気持ちで吐き捨てる。
《庭》、神々の理想郷である《人界》とは異なる人類の生存圏。
鬼が語る通り、二人の男は《庭》を追放された身だった。
別に珍しい事ではない。
《人界》とは異なり、《庭》は内に保有する
出産などの理由で人が増えすぎた場合、何らかの理由を付けて「余分」を減らす。
そうしなければ狭い共同体を維持し続けられない。
……二人の男は、最初は五人ほどだった。
彼らは割り当てられた食料が少ないと不満に思い、他人の食料に手を付けた。
それがバレて、「丁度良い」と人口過多気味だった《庭》から追放された。
本当に、それは僅かな不満だった。
生きる分には問題ない程度の、今となっては酷くつまらない悪事だ。
そのせいで、五人の内の三人は既に別の鬼に喰われて死んだ。
残る二人もまた。
「嫌だ、嫌だ嫌だ……! 鬼に殺されるなんて……!」
「いいから走れよっ! まだ、もしかしたら、まだ……!」
顔をクシャクシャにして泣く男。
もう一人の男は、うわ言のように「もしかしたら」を呟き続ける。
もしかしたら。
もしかしたらまだ、奇跡が起こるかもしれない。
確かに自分たちは悪い事をした。
今はもう、文字通り死ぬほど反省している。
だったら――こんなところで鬼に喰われて死ぬなんて、あんまりだ。
力尽きそうな身体を必死に動かしながら、男は祈る。
《人界》に住まう大いなる神々。
どうか、どうか哀れな弱者にお慈悲を――。
「捕まえた」
必死の祈りにも、神が応える事はなく。
代わりとでも言うように、嘲る鬼の声が間近で響いた。
「ぐぇっ!?」
抵抗など出来るはずもない。
腕や肩を分厚い手で掴まれて、男たちはあっという間に地面に引き倒された。
どうしようもない。
自分たちはこのまま、鬼に喰われて死ぬ。
覆しようもない未来予想図が、二人の視界を埋め尽くしていた。
恐怖に歪んだ人間の表情を眺めながら、鬼どもはゲラゲラと笑い声を上げる。
「ハハハ、まったく俺たちは運が良いな!」
「おいおい、見つけたのは俺なんだから感謝しろよ?」
「そういうのは後にしろよ。《巨人》が寄って来たら面倒だ。
とりあえず、手足を折って運ぶか?」
「いや、この場で俺らで喰っちまわねぇか?
俺はもう腹が減ってたまらねェよ」
「…………」
いつ喰うか、どこで喰うか、誰がどれだけ喰うか。
鬼たちの話はそれだけだった。
捕まえて、逃げ場のない男たちはもう眼中にない。
それに対して、二人が出来る事は何もなかった。
抵抗しようものなら、あっという間に縊り殺されるだけ。
故に何も出来ず、ただ恐怖に震えながら祈る。
届かない、届くワケがない。
頭ではそう理解していても、二人の男は祈り続けた。
もう、奇跡が起こる以外に自分たちが助かる未来はないと。
「……よし、とりあえず片方をこの場で喰っちまうか」
「分配は平等に、だ。この前はそれで揉めて一匹逃しちまったんだ」
「分かってる、分かってる。
じゃ、先ずはどっちから殺す?」
「そうだなぁ」
いよいよ死が具体的になった。
先にどちらを殺して喰おうかと、鬼どもの視線が突き刺さる。
死ぬ。どうしようもなく死ぬ。
生きたまま五体を裂かれ、肉と腸を貪られて死ぬ。
それはどうしようもなく、この《巨人の大盤》ではありふれた人間の死だった。
『――GAAAAッ!!』
その死を先延ばしにしたのは、男たちが望む奇跡ではなかった。
耳をつんざく金切り声。
鬼という死の恐怖を上書きする、さらなる死の脅威。
「クソッタレ、『貪る者』だ!!」
鬼の一匹がそう叫んだ。
地面をめくり上げて姿を見せたのは、一匹の巨大なミミズ。
この場にいる者たちは知る由もないが。
まだ遠く離れた場所で、大きな『腕』の一本を丸ごと損失した『貪る者』。
そのダメージは容易くは埋め難く、端的に《巨人》は酷く飢えていた。
普段は分身を地表にばら撒き、それに餌を集めさせるところを。
別の『腕』を動かして直接「狩り」を行おうとする程に。
突然現れた災厄に、今度は鬼たちも死を覚悟せねばならなくなった。
「どうする!?」
「どうするもねェよ! 死にたくなきゃ――」
『GAAAAAッ!!』
鬼の一匹が何かを言い終えるより早く。
そいつはのたうつ巨体に腰から上をあっさりと齧り取られた。
如何に鬼が強靭だろうとひとたまりもない。
強大な《巨人》からすれば、鬼も人と変わらず餌に過ぎなかった。
「う、わぁ……」
「オイ、呆けてないで早く逃げるぞ……!」
いきなり目の前に現れた《巨人》。
その恐怖に竦み上がる仲間に、男は呼びかける。
これは好機だ。
神様が応えたワケじゃないだろうが、奇跡が起きたと。
幸い、《巨人》は近い位置にいた鬼を狙っている。
だったらこの隙に逃げ出すことも――。
「おっと、逃がすワケねェだろ!?」
しかし、そんな淡い希望は容易く砕かれた。
暴れる《巨人》と、それから何とか逃げ回る鬼たち。
その内の一匹が、逃げ出そうとした男二人をあっさりと捕まえた。
本当にすぐそこに《巨人》がいるという状況。
数秒後には死ぬかもしれない中で、鬼の眼は欲望でギラついていた。
「は、離せよ! 早く逃げないと、お前だって……!」
「死ぬか? いいぜ別に。この荒野じゃ誰でもいつかは死ぬんだ。
どうせ死ぬなら、人間の肉ぐらい喰っておかねェと」
鬼の言葉に、男は絶句するしかない。
死ぬ。どうしようもなく死ぬのだと、そう理解しながら。
その前にお前たちを喰ってやると鬼は笑っていた。
「ギャアアァッ!?」
命乞いなどする暇もない。
捕まった片割れは、あっさりと腕の一本を引き千切られた。
吹き出した血を顔面に浴びて、男は呆然としてしまう。
腕を千切られてのたうちまわる仲間も。
それを必死で貪り喰う鬼も。
その背後で荒れ狂う《巨人》と、打ちのめされるばかりの鬼たちも。
全ての現実が、あまりにも遠かった。
死だ。これが死だ。
《巨人の大盤》には嫌というほど溢れている、どうしようもない死の形。
――あぁ、神様。
祈る。届かないと知りながら、男は祈るしかない。
――次に生まれ変わった時は、必ず善い者になります。
だから、だからどうか。
どうか、この悍ましい死から、救いを。
『GAAAAAAAッ!!?』
現実から逃げ出していた男の意識。
それを引き戻したのは、《巨人》の上げた断末魔だった。
一体、何が起こったというのか。
男の頭は、目の前の光景をすぐには理解できなかった。
「な、なんだテメェ……!?」
「…………」
《巨人》――『貪る者』は、既に死んでいた。
《核》ごと打ち砕かれた巨体は、無力な肉片となって荒野にばら撒かれる。
その血肉を踏み潰し、「ソレ」は姿を現した。
鬼たちの眼から見れば、それは黒い甲冑を帯びた人間のようだった。
甲冑……いや、それは本当に甲冑なのか?
金属ではなく、黒い水晶のようなモノで形作られた装甲。
鎧ならばあるべき関節などの繋ぎ目はなく、表面は非常に滑らかだ。
少なくとも、人間の手で造られた代物とは思えない。
体格は決して大柄ではなく、恐らく平均的な人間の成人男性と大差はない。
ただ、その身に纏う威圧感。
放つ気配の大きさは、《巨人》など比較にもならない。
鬼たちも気圧され、思わずその場で立ちすくんでしまった。
それが彼らの「死因」となる。
「ギャッ……!?」
「…………」
潰れたような悲鳴と、重く湿った音。
それが複数同時に荒野に響けば、その時点で全てが終わっていた。
《巨人》と争ってまだ生きていた鬼たち。
千切った腕を貪っていた者も含めて、全員が首から上を砕かれて死んだ。
呆然と見ていた男に、何が起こったか理解できない。
現れた黒水晶の人物が、一瞬で鬼の首を拳で粉砕したなど。
男は欠片も認識できなかったからだ。
確かな事と言えば、一つだけ。
「助、かった……?」
「…………」
自分の口から出た言葉なのに。
まるで寝言のようだと、男は思わずにはいられなかった。
そうしている間に、黒水晶の人物は生き残った二人の傍へと歩み寄る。
正確には、無事な男と死にかけた男の傍に。
「っ……あ、アンタ、どこの誰かは知らないけど、お願いだ!
コイツを、コイツをどうにか助けてやっちゃくれないか!?」
「…………」
黒水晶の人物は無言。
しかし男の懇願を受けて、その視線を地に向ける。
未だに血は止まらず、最早虫の息となってしまっている男。
奇跡的な生還と仲間の死。
冷静さも何も失った状態で、男はひたすら頭を下げる。
「頼む、このまま鬼に喰われて死ぬなんてあんまりだ……!」
「…………」
男は、黒水晶の人物が微かに頷いたのを見た。
そして躊躇うことなく血溜まりの中で膝を付き、その手を仲間の方へと伸ばす。
それを見ながら、男はもう一度安堵した。
やった、助かる。見た目は恐ろしくも思えるが、この方は善い御仁だ。
けど――男はここに来て、何か引っかかるモノを感じた。
《巨人》や鬼を一瞬で蹴散らすような方だ、まともな人間であるはずがない。
ならば鬼かというと、少なくとも角らしきモノは見当たらない。
――ならば、この方は誰だ?
鬼でも人でもないとなれば、選択肢は酷く限られる。
男は《庭》で聞いた「何か」の話を、ようやく思い出しつつあった。
それは荒野を彷徨い、鬼や《巨人》を討ち滅ぼす。
そして出会ったのが人間ならば、その慈悲によって「安息」を与える者。
その、偉大なる「神」の名は。
「――《鬼神》、様」
それが、男の最後の言葉となった。
死んだ事にすら気付かない。
痛みを与えることのない最速で、男は首を断たれて死んだ。
地に伏した男も、既に頭を潰されて絶命している。
後には屍と、一柱の神だけが残された。
「…………」
黒水晶の人物――《鬼神》は無言。
何も言わず、ただ祈るような仕草だけを見せた。
そうしてから、視線はどこか遠くへと向けられる。
彼方。今はまだ遠い何処かから感じる「引力」めいたモノ。
「……これは、《巡礼の道》か?」
随分と久々だな――と。
一切の熱を伴わない声で《鬼神》は呟く。
廃れて久しいはずの楽園に続く道。
そこに挑む誰かが現れた事実に対し、《鬼神》は何も思わなかった。
ただ、自らの権利と義務を全うする。
苦しみ喘ぐ全ての弱き者に、速やかに「死」という安息を与える。
故に久しい試練の招きも、《鬼神》にとっては普段と変わることはない。
「行こうか」
ひとり呟き、《鬼神》の身体が僅かに沈む。
一瞬後に起こるのは大気の炸裂。
それは空間を渡るという超常の力でなく、ただただ純粋な物理的な力の発露。
地面を抉る足跡――跳躍の痕跡だけを残して。
彼方の空へと、《鬼神》の姿はあっという間に消えていた。
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