幕間1:王の勅命


 岩の城、その奥の奥。

 カドゥルは未だ暴れ続けるアストレアと共にいた。

 普段は子供たちも立ち入らせない彼女の私室。

 今はもう遠い昔。

 それこそ、海の彼方の大陸に根付いた人類史よりも古い過去。

 友と過ごし、語らった始まりの部屋。

 岩を雑に削った中に、カドゥルの体格に合わせた家具が並んだその空間。

 そこに辿り着くと、部屋の主である女は小さく息を吐いた。


「そら、お前もここは懐かしかろう?

 随分昔に何度か来た事があったはずだが、覚えているか?」

「いいから離せ……!」

「うん、分かった分かった」


 笑いながら頷くが、すぐには離さない。

 広い……というよりも、「巨大」と表現すべき寝台ベッド

 海のように敷かれたシーツの上で、アストレアはようやく解放された。


「……こんな場所に連れ込んで、どうする気だ?」

「ん? なんだ、喰われるとでも思ったか?

 ハハハ! 流石にオレ様も友の娘にそんな真似はせんぞ!」

「死ね」


 視線と声にこれ以上ない殺意を込めて。

 真っ向から睨みつけながら、アストレアは低く唸った。

 常人――どころか、そこらの鬼でも畏怖と恐怖でひれ伏すほどの圧。

 それをぶつけられながら、カドゥルは笑うのみだ。

 素直でない猫の態度。

 鬼の女王にとって、アストレアはそんな愛らしい娘でしかない。

 アストレア自身にもそれが伝わっているため、苛立ちは強まるばかりだ。


「で、さっきの話は考えてくれたか?」

「…………」


 睨みつける眼は、燃え盛る炎の如く。

 それをカドゥルは落ち着いた瞳で見つめ返す。

 炎と水。

 本来なら相反するはずの二つ。

 事実、それは暫く正面からぶつかり続けたが……。

 

「……たどり着けるワケがない」


 先ず、炎の方が一歩引いた。

 激情の全てが静まったワケではない。

 それでも多少は冷静になったのか、アストレアは僅かに肩の力を抜いた。


「《巡礼の道》が廃れた理由。

 それを貴様が知らぬはずはないと思うが」

「単純に過酷過ぎるからな。

 今の正規ルートは《律神》による試練だったか?」

「……何故、鬼であるお前がそんなことまで知っている?」

「伊達に長生きはしとらんというだけの話だぞ、小娘が」


 侮るでないわ、と。

 鋭い牙を見せるようにして、カドゥルはニヤリと笑った。

 ……この《巨人の大盤》に生きる鬼の中では、恐らく最古。

 本人が口にしている通り、やはり侮れる相手ではない。

 例え神の権能である《光輪》があったとしても。

 アストレアは改めてその認識を強める。


「この《国》があるのは《巡礼の道》の丁度入り口辺り。

 昔――本当に大昔は、ここを通って《人界》を目指す旅人がいたもんだ」

「……その多くは志半ばで荒野に命を散らせる。

 だが、それも当然の理だ。

 《人界》は神々に守られた、この地上で唯一の理想郷。

 理想に至るためには、相応の資格が求められる」

「逆に言えば、《巡礼の道》を使って辿り着けば《人界》の門は開かれる。

 例えそれがどんな人間であってもな」

「……確かに、お前の言う通りだ。

 《巡礼の道》は過酷だからこそ、それを越えた者は資格有りとみなされる」


 誰でも良い。

 生きて辿り着く事ができれば、誰でも《人界》に入る事ができる。

 例えそれが、どれほどの穢れを抱えた罪人だとしても。

 アストレアは不快そうに眉根を寄せた。


「故に《巡礼の道》は廃れた。

 そもそも《人界》に辿り着ける者自体が滅多にいなかったのもある。

 だがそれ以上に――」

「相応しくない者が《人界》に入る可能性が危険視された、か?」

「……その通りだ。だから十の神々の一柱、《律神》が新たな試練を定めた。

 定期的に《庭》から資格者を募り、その中から《人界》に入れる者を選び出す。

 これも狭き道なのは間違いない。

 だが《巡礼の道》とは異なり、少数でも相応しい者が確実に選ばれる。

 私は穢れを裁く神として、《律神》の権利を尊重しよう」

「別に、そのやり方自体をオレ様はどうこう言うつもりはないぞ」


 肩を竦めて、カドゥルは軽く首を横に振る。

 そう、それに関してカドゥルは特に文句はない。

 古き《巡礼の道》と、現在の《律神》の試練は大きく異なる。

 挑んだ者がほぼ確実に死ぬ前者とは異なり、後者は少数は確実に選ばれる。

 そうして選ばれ、《律神》に認められた人間は《人界》の住人となる。

 過酷な荒野とは違う、永遠が約束された楽園の住人に。


「が、それだとあのレックスたちは無理だからな。

 先ず《庭》に住んでいる人間でなければ《律神》の試練を受けられない。

 そんで仮に受けたとしても、《律神》はアイツらを認めんだろう」

「相応しくない者を《人界》に入れない。

 元より、《律神》の試練はそのために生まれたものだからな」


 当然だ、とアストレアは肯定する。

 あの「竜」を称する悪神の眷属どもは言うまでもない。

 悍ましい剣を手に、存在そのものが摂理に反逆している甲冑の男。

 レックスと名乗ったあの男も、《律神》は許すまい。

 そのような穢れが、清らかなる楽園に入り込む事を未然に防ぐ番人。

 それこそが《律神》が持つ神としての権利だ。


「うむ、やっぱり《巡礼の道》を進む以外にはないな。

 ……案内人の件、引き受けちゃ貰えないか?

 どの道、お前もいい加減に《人界》に戻らにゃならんのだろう?」

「すぐにでも戻りたいところを、邪魔してるのはどこのどいつだ」

「全部無視して逃げ出すことは別に難しくないと思うぞ?」

「……神たる私が、鬼から逃げるなど。

 そんな恥は晒せない――それだけ、それだけだ」

「フフフ、可愛い奴め」


 頭を撫でようと、カドゥルは手を伸ばす。

 しかしそれは思いっきり払われてしまった。

 手の甲に刻まれた小さな爪痕。

 それを長い舌でベロリと舐めて、カドゥルはカラカラと笑う。


「ハハハ、素直でないなぁまったく!」

「うるさい。黙れ。

 ……話とやらは、これでもう終わりか」

「案内人、どうしても嫌か?」

「奴らは罪人で、私はそれを裁く権利を持つ神。

 なのに何故、連中の助けになってやらねばならない」

「彼らはお前の母――先代の《裁神》テミスの意思が繋いだ命だ。

 オレ様はそれをお前に認めて……」

「母の名を口にするなッ!!」


 激昂。

 或いは、それはアストレアが発した中で一番の怒りかもしれない。

 カドゥルも思わず言葉を呑んでしまう程の激しい感情。

 俯き、拳を血が出るほど強く握りしめて。

 アストレアは奥歯を軋ませる。


「私が――私が、どんな気持ちであの人を見送ったか、知りもしないで……ッ!」

「……あぁ、そうだ。可愛いアストレア。

 親に置いて行かれた子の気持ちは、オレ様には分からん」

「偉大な神だった、立派な神だった――母を知る者は、皆口々にそう言う」

「そうだな。鬼が相手であっても慈悲を示す、心優しい女神だった」

「だがあの人は、己の役目も地位も全て投げ出した!!」

「……あぁ。それも、間違ってはいない」


 血を吐くようなアストレアの言葉。

 否定することなく、カドゥルは穏やかに頷く。

 アストレアの声は、彼女の心から流れ出す鮮血にも等しかった。

 母と別れてからこの時まで。

 塞がることなく残り続けてきた生々しい傷。

 《彼方の海》から渡ってきた異邦人に、母の旧友たるカドゥル。

 様々な要因が重なった事で、心の傷から真っ赤な血が吹き出していた。


「救われない、多くの人間を救いたい……!?

 あぁ、私もその願いが、その祈りが間違ってるなどとは言わない……!

 けど、そうしたいのならば他にやり方があったはずだっ!!」

「お前の母は裁きの神。

 特に《人界》の王と共に現れた、最も古き三神の一柱。

 彼女が神として出来る事の多くは、罪を裁いて穢れを消し去る事だけだった。

 数多を救って癒やすには、《人界》の神という立場がどうしても邪魔だったんだ」

「だから、祈りのために邪魔になるものは捨てたと?」

「違う、アストレア。それは違う」

「何が違う!?」


 叫ぶ。

 悲鳴にも等しい、アストレアの叫び。

 これまで笑みを浮かべていたカドゥルも、流石に表情に苦味が混じる。

 当時の《国》はまだ小さく、救える者の数は限られていた。

 荒野で野垂れ死ぬしかない多くの人間たちを救うため。

 《彼方の海》の向こうにある新天地。

 裁きの神は《人界》での地位を捨てて、人々を導く救いの女神として旅立った。

 今生の別れと知って、カドゥルはそれを祝福と共に見送った。

 ……けど。けれど。

 残された娘は、果たしてどんな気持ちだったか。

 幼い子供というわけではなかった。

 だがそんな事は、残された者からすれば関係ない。


「母は……私が邪魔だから、置いていったのだろう?」

「違う」

「違うものか! 違うのなら、何故――何故……!!」


 何故、自分は置いて行かれたのか。

 あの冷たく孤独な《人界》に。

 何故、何故、何故?

 答えの見えない問いは、涙となって頬を濡らす。

 半端に立ち上がったアストレアの肩に、カドゥルの手が触れた。

 害する意図を持たない指先。

 《光輪》はそれを遮る事はしなかった。


「……《裁神》としての地位と権利。

 旅立つ以前に、テミスはそれをお前に譲っていた。

 如何にテミスが古き神であっても、その旅の成功は命と引換えになる。

 分かっていたから、お前を連れては行かなかったんだ」

「っ……そんな話が、何の慰めに……」

「聞いてくれ。

 テミスはより多くを救う事を望んだが、王はそれを『不要』と判断した。

 まぁそれは良い、それについてはオレ様も文句を言う気はない。

 王が認めぬ以上、神としての権利に縛られたテミスに出来る事は多くなかった。

 だから権利と地位を手放し、残された力で望む事を行った。

 ……本心では、娘であるお前を連れて行きたかったと。

 テミスは旅立つ前に、オレ様にそう語った。

 何故そうしなかったのかと、当然聞きもした」

「…………私しか、いなかったからか」

「あぁ、そうだ」

 

 俯いたまま、アストレアのこぼした呟き。

 その言葉に込められた意味を、カドゥルは肯定した。


「テミスが持っていた《裁神》としての力と権利。

 それを継承できるのは、娘であるお前だけしかいなかった。

 《人界》の王は、多くを捨てる事でテミスの自由を許したそうだ。

 だが《裁神》が神々の列から失われる事は認めなかった。

 ……故にお前を残した、残すしかなかった。

 神としての多くを手放さねば、《人界》の外の人間たちを救えない。

 手放したなら、航海の成功は自らの命が代償となる。

 まだか弱い娘でしかなかったお前を。

 ただ一人の愛娘を、死出の旅に無理やり連れて行く事はできなかった。

 だからお前に《裁神》の力と権利を譲り、《人界》に留まらせた。

 それがテミスの――お前の母の苦悩だ、アストレア」

「…………」


 沈黙。

 話を聞きながら、アストレアは口を閉ざした。


「……アストレア。オレ様も少々無神経過ぎた。

 お前がそこまで痛みに思っていると、想像が足りてなかったのは認める。

 だが、あの者たちと関わる事は決してマイナスではない。

 そう思って、《人界》への案内はお前に頼むべきだと――」

『…………そろそろ良いかしら?』

「ッ……!」


 声。それはアストレアでも、カドゥルのモノでもない。

 冷えた、不快感を隠そうともしない少女の声。

 反射的に身構えるカドゥルと、驚きながらも顔を上げるアストレア。

 二人の視線の先――部屋の片隅に、青白い光がゆっくりと形を成していく。

 半ば透き通った幻のような姿で現れたのは――。


「シャレム……!?」

『帰りが遅いから心配したわよ、アストレア』


 《星神》シャレム。

 最も古き三神の一柱にして、《人界》の王の側近。

 今の顕現が分体に過ぎない事を、カドゥルは一目で看破していた。

 シャレムは軽々しく《人界》からは離れられない。

 それもまた、友であるテミスから得ていた知識の一つ。


「お前が《星神》か。

 テミスから聞いていた通り、見た目は可憐な少女だな」

『ご機嫌よう、はじめまして。テミスを誑したウシ女め。

 ……本当なら、その汚い手でアストレアに触れた事。

 文字通り、死ぬほど後悔させてやりたいところだけど』


 刺々しい敵意を隠しもせず、幻のシャレムはカドゥルをひと睨みする。

 が、それはすぐに力を失った。

 《星神》の視線は憎い相手の傍らにいる、愛しい娘の方を向いた。


「シャレム……?」

『……すぐに帰って来てくれれば、こんな面倒な事にはならなかったのに』

「待て、それはどういう意味だ?」

『……王が、陛下が私にみことのりを賜わしたわ』

「ッ……陛下が……?」


 《人界》の王。

 十の神々の頂点に君臨する、《巨人の大盤》の絶対者。

 常は全てに無関心で、姿を見せる事さえ稀だ。

 そんな王が一体何を――。


『……陛下は、あの異邦人たちに僅かに興味を持たれたわ。

 アストレア。貴女は案内役として、彼らを《巡礼の道》へと導きなさい。

 異邦人たちが《巡礼の道》で朽ち果てるならばそれで良し。

 もし万が一、これを乗り越えた暁には――』

「まさか、拝謁を許されると……?」

『ええ、そう言ってたわ』

「……まさかとは思うが、オレ様たちの話を盗み見ていたのか?」

『不敬よ。それ以上は許さないから、口を閉ざしていなさい』


 唸るカドゥルに対し、シャレムは即座に釘を刺す。

 一方、アストレアは表情に困惑を滲ませて。


「シャレム……王が、陛下が本当にそう言ったのだな?」

『残念ながらね。一応諌めはしたけど、聞く耳を持ってはくれなかったわ。

 ……アストレア。

 この王命を果たすまで、《裁神》としての権利を行使する必要はないと。

 陛下はそうも仰られていたわ』

「…………」


 もう、何を言葉にすれば良いかも分からない。

 そんなアストレアの姿を見て、シャレムは小さく唇を噛んだ。

 ――何も出来ない。

 王がそう命じた以上は、シャレムに出来る事は殆ど無い。

 叶うとすれば、一つだけ。


『……どうか、気を付けて。アストレア。

 貴女が無事に《人界》に戻れるよう、祈っているから』

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