第十三部:神々の楽園を目指して
351話:怒れるイシュタル
「――何故ですかっ!!」
其処は、古くは《
かつて大いなる争いの結果として大地に刻まれた、始まりの傷痕。
余人は踏み込む事は愚か、近寄る事すらままならない深淵。
その奥底の、さらに最も深い場所。
築かれた巨大な神殿は、さながら地獄が溢れ出す事を塞き止めるが如く。
何処か歪で冒涜的なその内に、一人の女の叫びが響き渡った。
「落ち着け。ゲマトリアが怯えてしまっているだろう」
「いやいや何を言ってるんですかウラノスさん!
ボクは別に怯えてなんか――」
「そんな事はどうだって良いっ!!」
「ひえっ」
大気が爆ぜたかと錯覚するほどの大音声。
相対する甲冑姿の男――ウラノスは、それを正面から平然と受け止めた。
しかし傍らにいた少女、力を失ったゲマトリアは小さく悲鳴を漏らしてしまう。
視線だけで岩盤を穿ちそうな。
そんな剣呑極まりない形相で睨むのは、一人の豪奢な女だった。
上質だが、決して華美過ぎない赤い装束。
短く纏めた金色の髪は空で燃えたつ太陽のよう。
瞳の赤色はこの世のどんな
身体の均整は完璧な黄金比。
彼女こそ《大竜盟約》が誇る序列四位の大真竜。
イシュタルは、その激情を一切の躊躇いなく同胞たちへとぶつけていた。
「いやホント、いい加減落ち着いて下さいって!
そんな駄々捏ねても仕方ないじゃないですか!」
「駄々? 駄々って言ったの?
ゲマトリア、生き恥晒してるに等しいお前が私を子供扱いする気?」
「いやいや、流石にそこまでは言ってないんで勘弁してくれません!?」
「……いいえ、ゲマトリアの言う通りよ」
僅かに疲弊した女の声。
盟約の礎が集う神殿の円卓、その片隅。
これまで黙っていた白い鍛冶師の娘――ブリーデが静かに口を開いた。
イシュタルは反射的にそちらを睨みつける。
常人なら視線に帯びた魔力だけで心臓が止まりかねない。
最弱である白子の娘は、しかし一切揺るがなかった。
揺るがず、逆にイシュタルの眼を真っ向から見返してみせる。
「どういう意味よ、ブリーデ」
「そのままよ、イシュタル。
私はウラノスとオーティヌスの決定に従う。ゲマトリアもそう。
この場でワガママを言ってるのは貴女だけ」
「コッペリアは滅ぼされたのよっ!?」
ビリビリと。
神殿の構造そのものを揺さぶるほどの声。
あまりの圧力に、ブリーデも流石に顔をしかめた。
如何に序列六位といえど、ブリーデ自身は竜と呼ぶのも恥ずかしい弱さだ。
彼女自身の本音としては、生身ではイシュタルと向き合うだけでも大分しんどい。
普段のイシュタルなら、それを理解して最低限の配慮はするのだが。
「ゲマトリアは負けこそすれ、力を失うだけで済んだ!
貴女も同じだけど、コッペリアは違ったっ!
いえそれ以前に、これで大真竜の内三柱が敗北してるのよ!?」
『…………』
序列二位、この場を取り仕切るべき老賢人。
オーティヌスは未だ沈黙したまま。
三位であるウラノスも諌めてはいるが、彼は目下にあまり強く出られない。
故にイシュタルの激情も簡単には止まらなかった。
「コッペリア自身が暴走していた時とは状況が違う!
現在の大陸秩序を担う盟約の礎、その大真竜が三柱も敗北した!
しかもその内の一柱は完全に滅びたのか、存在を確認すらできない!」
「……そうね。コッペリア――ヘカーティアは、眠りについたんでしょうね」
ようやく。
本当にようやく。
失った愛を求めて狂い続けた彼女は、眠りについた。
あの嵐の渦中であった詳しい経緯は、ブリーデも把握していない。
ただ、「伝聞」で大まかに何が起こったのかは理解していた。
それについてブリーデは盟約の同胞らにも報告済みだ。
コッペリアが完全に消えた事実は、《大竜盟約》として考えれば痛恨だ。
しかし千年を共にした同胞として、彼女の眠りが安らかである事を祈っていた。
ただ一柱、怒れるイシュタル以外は。
「今すぐ、あの敵対者連中を!
《最強最古》とその一味を探し出して、然るべき裁きを下すべきよ!
これ以上、盟約の意義が揺らいでしまう前にっ!」
彼女が主張しているのは、ただその一点のみだった。
――《断絶流域》で起こった《嵐の王》の戦い。
ヘカーティアは消えて、合わせて彼女と戦っていた者たちも消息を断った。
暴走し、大陸を砕く程の力を振り回した《嵐の王》。
そして戦場は帰還を許さぬ《断絶流域》。
普通に考えるなら、何もかもが嵐に消えたと判断するところだが……。
『……あの《最強最古》が、そう容易く滅びるはずがない。
消えたと思っていたはずの者が、隠れて息を潜めていただけだった。
我々は既にそれを経験している。
イシュタル、お前の主張に理がある事も認めよう』
淡々と。
沈黙していたオーティヌスもようやく口を開いた。
「でしたら……!」
『だが前後の状況を鑑みれば、《最強最古》はこの大陸にはおるまい。
私の眼をどれだけ巡らせても影すら捉えられぬ』
「翁、それはやはり……」
『愚かなる《造物主》が、この大陸の内と外を断ち切った境。
恐らく彼奴らは《断絶流域》を越え、外界に流れたものと推測する』
外界。
長らく行き来のなかった、文字通り大陸の外側に広がる世界。
今や大陸の支配者である大真竜たち。
彼らの中でも外界に出た経験があるのはオーティヌスのみ。
討つべき仇敵が、自分も知らない未知の領域に出てしまった可能性がある。
その事実に、初めてイシュタルは言葉に詰まった。
「……お爺さま」
『確かに、あの《最強最古》は捨ておけぬ。
だがこの地の外は神々の支配する大盤。
我ら《
私が神々の王との謁見を果たした末に結んだ、それが約定だ』
故に大陸の外に出た《最強最古》は、一旦捨て置くと。
それがオーティヌスの決定であり、盟約全体の総意だった。
ただ一柱だけ異を唱え続けていたイシュタル。
彼女も、改めて理を説かれては黙り込む他なかった。
『イシュタル、お前の言いたい事は分かる。
千年の同胞を失った痛みも、大悪を誅さねばならぬという義心も。
どちらも我が身の痛みの如く理解できる』
「…………」
『だが神々との約定は守らねばならぬ。
加えて、コッペリアの嵐によって引き起こされた被害。
それもまた放置はできん』
「あっちこっちボロボロですからね。機能不全に陥った都市が幾らあるか」
都市の運営に関しては、その多くにゲマトリアは関わっている。
今回の件で発生した諸々の被害。
それらを立て直すために、一体どれほどのコストを支払う必要があるか。
考えただけで一本しかない首が酷く痛んだ。
「足元を固めるのも重要ね。
それに関しては私も同意見よ」
「必要があれば私も人員を貸そう」
「ボクが主導してやるのは最初から決まってる感じですねコレ!
まぁやりますよ、やりますけどね!!」
半ば自棄になった様子で叫ぶゲマトリア。
ブリーデもウラノスも、とりあえず協力する気はあるだけマシだろう。
しかし、イシュタルは沈黙したまま。
『イシュタルよ』
「……はい、お爺さま」
『どうか今は堪らえてくれまいか。
我ら盟約は、暫しこの地の安定に力を注がねばならない。
そのためにもお前の力が必要なのだ』
「…………」
偽りのない親愛と信頼。
オーティヌスが本心からそう言っている事は、イシュタルも分かっていた。
理解はしていても、譲れない一線があった。
「……お爺さまの言う事は分かりました」
『イシュタル』
「ですが、私はあの《最強最古》を許せない。
何も知らず、理解せず、ただ己の欲望のままに振る舞うあの竜が……!」
一度は収まりかけていた激情の炎。
それを再度燃え上がらせてイシュタルは叫んだ。
「いやホントに、イシュタルさんの言いたい事はボクも分かりますよ!
分かりますけど、今はちょっと落ち着いて!」
「黙りなさい、ゲマトリア。
……私は別に、コッペリアの事を特別には思っていません。
自らの愚かさで狂ってしまった哀れな女。
ええ、同情程度はしていましたが」
ゆっくりと、一歩ずつ。
盟約の円卓からイシュタルは距離を取る。
その意思が何処に向き、何を考えているのか。
あまりに明白で、オーティヌスとウラノスは僅かに焦りを滲ませた。
『落ち着け、イシュタル。馬鹿な真似は止せ』
「馬鹿な真似だと、私は思いません。
不都合であるのなら、私の名を盟約から消して貰っても構いません。
……仮にこの身を犠牲にしようとも。
私は奴を、あの《最強最古》を必ず討ち取ります」
最早その意思は揺るがない。
それを悟ったならば、今度はオーティヌスが沈黙するしかなかった。
無理やり――それこそ、力で訴えて阻む事はできる。
困難ではあろうが、実力による序列差はどんな言葉よりも雄弁だ。
しかしオーティヌスはそれを選べない。
老賢人にとって、旧い友の娘である彼女は自身の娘も同然だ。
故に彼は迷ってしまった。
「――必ず。必ず成すべき事を成して戻ります」
「イシュタル!!」
止めるためにウラノスが動くが、一歩遅かった。
イシュタルの姿は幻のように消える。
超々長距離を跨ぐ空間転移。
「世界を自在に操る」その魔力と御業。
それを目にして、ゲマトリアは思わず頭を抱えた。
「ほんっと聞かん坊ですよねイシュタルってば!!
どうすんですか、アレもアレで暴走してるようなもんじゃないですかっ?」
「……あの様子じゃ、言っても聞く耳持たないでしょ」
半ば諦め気味にブリーデはため息を吐く。
すると。
「……放っておきなさい」
深淵の玉座。
大陸の中心に座する黒き王。
《黒銀の王》――今は人の名を捨てた少女は、凍てついた言葉を口にする。
『王よ、彼女はまだ若く幼い。
あの邪悪を敵として相対するには余りにも……』
「そうやって、貴方やウラノスが過保護に過ぎるから良くないのですよ」
「それは……」
声こそ冷たいが、語る言葉には微かな人間性も混じっていた。
かつては勇敢で心優しかった無謬の英雄。
そんな少女の面影を見た気がして、ゲマトリアは息を呑んだ。
《黒銀の王》は気にも留めずに言葉を続ける。
「イシュタルは――いいえ、ルミエルは生まれ持った力が大き過ぎる。
敗北の苦みを知らず、挫折の痛みも解さない。
その苦痛は、父母の悲劇と共に蓋をしてしまった。
……であればコレは、良い機会でしょう」
本来の名を口にして、《黒銀の王》はゆっくりと瞼を閉じた。
ブリーデはそちらを見て。
「それで、取り返しのつかない事態になったら?
言ってる事は分かるけど、オーティヌスの言い分にも理はあるでしょう」
「…………」
その言葉に、《黒銀の王》はすぐには応えない。
暫しの沈黙を挟んだ後。
「……そうなったのなら。
問われるべきは、彼女が持つ運命の強さでしょうね」
「…………」
それは冷徹に突き放しているようでも。
或いは、その「強さ」を信じているようでもあった。
ブリーデは何も言わない。
《黒銀の王》もまたそれ以上は語らなかった。
老賢人は髑髏の表情に苦悩を滲ませて。
『……王の決定に従おう。
また、盟約全体の方針としては既に定めた通りだ。
この大陸に秩序と安定を。
我らは過ちを呑む大竜なれば、ただ礎たる役目を果たすのみ』
オーティヌスは淡々と、感情を排した声で告げる。
異論を挟む者は、誰一人としていなかった。
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