幕間2:目覚めるモノと監視者



 ……そこは、鬼の部族が塒としていた山。

 今は誰の姿もなく、ただ神による蹂躙の痕跡だけが刻まれている。

 何もない。

 生き物の息吹はなく、神の気配も既に遠い。

 神罰とも呼ぶべき戦いの跡。

 大地の一部を大きく砕く傷痕以外にはもう何もない。


『――――』


 何もないはずのその山に、響く音があった。

 それは歌声にも似ていた。

 聞く者がいれば、或いは鳥の鳴き声と思ったかもしれない。

 実際はそのどちらでもないが。

 大地が揺れる。

 砕かれた山の傷口が一人でに裂けていく。

 まるで、地面そのものが勝手に動き出したかのように。


『―――A――Ahhh―――』


 風に乗って「声」が流れる。

 もしこの場に、傷を刻んだ神がいれば即座に事態を把握できただろう。

 しかし遠くの《庭》へと飛ばされた者たちと同様に。

 裁きの神もまた、まったく異なる場所へと追いやられていた。

 故に、今は誰一人として阻む者も無く「ソレ」は目覚める。


『Aaaa――Aahhhh――――』


 「ソレ」は《巨人》だった。

 山のように見えていたのは、長い年月でその《巨人》の上に積もった土砂だ。

 真上で暮らしていた鬼たちも存在を知らなかった。

 遠い遠い昔、未だに地表を邪悪なる偽神が蹂躙していた頃。

 《巨人》はその時代から存在し、大いなる《黒銀の王》に砕かれていた。

 肉は潰され、途方もない年月の果てに魂は揮発した。

 不滅である《巨人》の血肉だけは、その時間によって復元を果たしたけれど。

 魂の喪失により自我は無く。

 大地の神威により粉砕された肉は、長らく停止した状態だった。

 余りにも長期に渡る眠りのために、半ば大地と同化さえしていた。

 それ故に、千里を見通す《裁神》の目もその存在を見落としてしまった。

 ……何事も無ければ、本当にそのまま地の底で眠り続けていたかもしれない。

 けれど、《巨人》は目を覚ましてしまった。

 《裁神》の放った神罰。

 その一撃が眠れる《巨人》の肉を傷付け、その刺激が覚醒へと導いた。

 ただ、その《巨人》の肉体は巨大過ぎた。

 目覚めが全身に広がるまで、相応の時間が掛かる程に。

 動き出したのが戦いが終わって暫く後だったのは、極めて不幸な偶然だった。

 

『AaaaaAaahhhhh――――』


 歌声。

 数千年どころか、数万年ぶりの《巨人》の覚醒。

 けれどそこには何の感情もない。

 魂が揮発している《巨人》には、理性は疎か自我すら存在しない。

 あるのはただ、血肉の最小単位にまで染みついた呪いだけ。

 《造物主》が残した、消える事のない絶滅の祈り。

 動く。動き出す。

 その《巨人》としては、ただ身動ぎをした程度。

 その結果として起こったのは、山だった物の完全な崩壊だった。

 神の刻んだ傷は大きく裂け、荒れた大地は粉々に砕ける。

 山のあったはずの場所からとうとう「ソレ」は這い出して来た。


『AAAhhhh――――』


 周囲には人の気配も、鬼の姿もない。

 僅かな例外を除き、まだ誰もその大災厄の目覚めに気付いていなかった。

 ……一言で言えば、それの見た目は「芋虫」が一番近いだろう。

 人のような手足はなく、細長い形状の身体には這い進むための脚が並んでいる。

 顔に当たる部分には光のない眼球が不規則に並び、その全てが複眼だ。

 そして鋭い牙が並ぶ口は、長大な体躯の半分近くまで裂けていた。

 外見だけでも、見る者次第では嫌悪感を催しそうではある。

 しかしこの《巨人》の持つ本当の脅威は、その「大きさ」だった。


『AaaahhhAaa――――』


 山のように大きい《巨人》は珍しくはない。

 しかしその《巨人》は、地表に存在する多くの山よりも巨大だった。

 這いずる肉体は高さにして七千八百メートル。

 身体の長さに至っては七百キロメートルにも及ぶ。

 山脈にも匹敵するような圧倒的な巨体。

 それこそがこの《巨人》の持つ最大の脅威だ。

 

『Aaaa――』


 歌うような《巨人》の声。

 纏わりついていた「土」を払い落とすと、《巨人》は改めて動き出す。

 本人(?)としてはゆっくりと。

 実際の速度としては飛ぶ鳥にも等しい速さで。

 荒れ果て、その大半が死んでしまった大地。

 その屍を大いなる《巨人》はその巨体と牙で再び蹂躙していく。


 『AAAAaaaAaaaa――――』


 《巨人》に名は無かった。

 けれど遥かな昔、旧き人々がその威容を目にした時。

 恐怖と畏怖と共に呼んだ名だけがあった。

 即ち、『地砕き』と。

 何の捻りもありはしない、見たままの呼び名。

 《巨人》は、『地砕き』自身はそれを認識していないが。

 ただ与えられた役割を、刻み付けられた呪いのままに実行に移す。

 大地を踏み締める。砕く。

 異形の脚を動かして、地面を崩して踏み締める。

 牙を突き立て、何もかもを噛み砕く。

 その繰り返し。

 繰り返し、繰り返し、繰り返し。

 今はまだ何もない死の荒野が広がっているだけ。

 しかし《庭》など、生きる者たちが集う場所にこの怪物が到達したなら。

 その破壊を止める術など、果たしてこの世に存在するのか。

 そして『地砕き』は、ごく自然に己の進路を定めていた。


『Aaaahhhh――――』


 今はまだ、遥か彼方。

 遠い遠い場所に、『地砕き』はその気配を感じていた。

 多くの生き物が集っている。

 種族の区別などはつかないし、《巨人》にとってはどうでも良い。

 そもそも思考する理性も自我も存在しないのだから。

 ただ《造物主》の残した呪いが叫ぶ。


『不完全なる生命を、この地から一つ残らず根絶せよ』


 かつてあった文明を滅ぼし、星の環境を踏み躙った邪悪なる神。

 消える事のない怨念は、魂無き《巨人》を動かす。

 向かう先がどういう場所であるのか。

 そんなものは関係無しに、『地砕き』はその地を目指す。

 ただ多くの生命がいる。

 不完全で不出来な、愚かな生き物たちが。

 その全てを大地ごと踏み潰し、粉々に砕き、一つ残らず喰らい尽くす。

 『地砕き』の内にあるのはその衝動のみだった。


『AaahhhAAAaaa――――』


 その声だけは、歌う鳥のように美しい。

 吹く風に乗って目覚めた『地砕き』の声が荒野に響く。

 鬼であれ、他の《巨人》であれ。

 その進行は決して止めることはできない。

 遮るモノもまたこの世に存在しない。

 目指す場所へ向けて、『地砕き』は這い進んでいく。


「……素晴らしい」


 動き出した『地砕き』の周りには、誰もいない。

 だからその様子を見ていた「何者か」がいるのは彼方の空。

 白い装束と同じ色の帽子。

 外界では似つかわしくない文明的な装いを纏った黒髪の男。

 羽根も無しに雲の上に立ちながら、男は恐るべき『地砕き』を見ていた。

 その進行を阻止しようという意思はない。

 むしろ、面白がっている子供のような眼でその姿を見ていた。


「少々眺めているだけのつもりだったが、よもやこんな偶然が起ころうとは」


 男は笑う。

 彼は『地砕き』がどこを目指しているのかを理解していた。

 そこにあるのは最強の鬼が統治する、この地における最大の鬼属領。

 《鬼王》カドゥルの支配する《国》。

 更にその遥か先には、神々が住まう理想郷。

 尊き《人界ミッドガル》が存在している。

 『地砕き』は、最も多くの生命が集う場所を滅ぼすために這い進む。

 仮に《裁神》がこれを見ていたなら、即座に『地砕き』の始末に動いただろう。

 或いはそれ以外の神々でも、恐らく反応は変わらないはずだ。

 だが、この男は。

 

!」

 

 傍観者――どころか、盛り上がる観客のような有り様だ。

 本当に偶然、最高の舞台ショーを目にしてしまったと。

 そんな様子で男は愉快そうに笑っている。

 

「古く忘れられていた大いなる《巨人》。

 あの《天使》たちにも決して劣らぬ原初の災厄よ。

 その身に刻まれた役目のままに荒ぶるがいい。

 私はソレを特等席で眺めさせて貰おうじゃあないか」

 

 笑う。男は笑っている。

 未来に起こる破滅を心より楽しみにするその笑顔。

 果たしてどれほどの人間が、その男もまた「神」の一柱であると信じるだろう。

 偉大なる王の下、《人界》に君臨する十の神々。

 その一柱である男は、旧き滅びである《巨人》の姿を見送る。


「神たる我が名において、その在り方を祝福しよう。

 遠き過去に遺棄された哀れな肉塊が、この大地にどんな傷を刻むのか。

 ……さて、あの小生意気な《裁神》はどう動く?」


 そもそも、罪人探しに躍起になっている状態でいつ気が付くのか。

 《人界》の神々の中でも、まだ比較的に年若い神であるアストレア。

 その若さゆえの愚鈍さを男は嘲った。

 ――仮に『地砕き』が《人界》に到達しても、何も為さずに滅ぼされる。

 男はそれを知っていた。

 知っていたからこそ、これから起こる事が楽しみでならなかった。

 そして、遊興に耽る神の興味を引くモノが別にもある。


「鎖された地から現れた異邦人、か」


 神たる男にとっても、それは未知の存在だ。

 《裁神》が真っ先に動いたため、未だ遠方からの様子見程度。

 しかし神の裁きから逃れたその存在は、男の好奇心を強く刺激していた。


「目覚めた旧き災厄に、彼らもどう動くのか。

 何も為さずに呑み込まれ、砕ける大地と運命を共にするならそれも良し。

 大して期待はしていないが――」


 もし。

 万が一にも、『地砕き』という災いに直面し。

 これを生きて切り抜けるほどの運命を示すのであれば。

 あり得ぬはずの可能性を、あり得ないとは切り捨てずに神は哂う。


「その時は、この私自ら祝福の言葉を述べても良い。

 さぁ、この穢れた《巨人の大盤》を舞台に精々愉しく踊ってくれたまえよ」


 誰の目にも届かず、誰にも触れられない彼方の空。

 そこでたった一人の神は静かに嘲る。

 眼下の全て、地表に這いずる者は等しく愚かだと。

 孤独な神は未だ動かず、傍観者としてこれから起こる全てを俯瞰していた。


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