第十二部:大陸の外に竜はいない

313話:星の娘


 ――そこは、余人では決して立ち入る事の許されない聖域。

 上も下もなく、満天の星々に彩られた夜空の如き空間。

 広大無辺なその場所に人の姿はない。

 仮に人間が入り込んだとしても、無限に等しい星の海に落ちて行くだけ。

 一点の汚濁もなく、雑音の一つさえ存在しない静謐なる領域。

 その中心には、一人の少女が佇んでいた。

 微かな穢れも見当たらない、真っ白い装束に身を包み。

 星々の色を映したような青みがかった銀色の髪。

 微かな憂いを帯びた美しいかんばせを伏せて、少女は無心に祈っていた。

 細い指を薄い胸の前で合わせて、ただ祈り続ける。

 何時間か、或いは何十時間、何百時間。

 もし必要であれば百年、千年。

 例えそれが、人間の尺度では測れないほどの年月であっても。

 少女は微動だにすることなく、星々に彩られたその場所で祈りを捧げていた。

 このまま何事もなければ、少女はただ無心に祈り続けた事だろう。

 それこそが少女に課された役割で、この聖域の存在する意義なのだから。

 しかし。

 

「……如何されましたか、《星神》よ」

 

 その祈りが途切れた。

 少女が瞼を開くと同時に、別の声が星空に響く。

 いつの間にそこに立っていたのか。

 祈る少女とは真逆の、黒い装束に身を包んだ初老の男。

 白髪の目立つ黒髪を綺麗に整えて、その表情は凪の海よりも穏やかだ。

 整ってはいるが特徴の少ない顔立ち。

 年齢は判じ難く、ますます見る者の印象を曖昧にさせる。

 彼は自らの主人である少女の傍らに佇んでいた。

 その姿はまるで影法師の如し。

 祈りは途切れても、祈りの姿勢は崩さないままで。

 問われた少女――《星神》は沈黙する。

 

「……何者かが、『境』を越えたわ」

 

 暫しの静寂が流れた後に、《星神》はぽつりと呟く。

 穏やかだった男の表情がぴくりと揺れた。

 

「まさか、あの『鎖された地』からやって来た者がいると?」

「そのようね。

 それほど大きな気配ではないし、私も偶々気付いた程度だけど……」

 

 鎖された地。

 遥かな過去において、邪悪なる偽神が消えた禁忌の大地。

 その大悪自らが敷いた遮断を越える者など、ここ数千年は存在しなかった。

 ――何故、それが今さらになって。

 大いなる神威、その一柱たる少女に常とは異なる憂いが過ぎる。

 主人たる少女が何を憂慮しているのか。

 それを男は理解していたため、慎重に言葉を口にする。

 

「……この事は、陛下には?」

「不要よ、《神官長》。

 この程度のこと、王にお伝えするまでもない。

 ……どの道、あの方は『捨て置け』としか言わないでしょうし」

「大いなる《星神》よ、それは流石に不敬で御座いましょう」

「この場にいるのは貴方と私だけ。気にする必要はないわ。

 天と地を見通す陛下の耳目でも、この《星の宮》の底までは届かない」

 

 諫める男――《神官長》の言葉に対して。

 《星神》と呼ばれた少女は、感情の見えない顔で淡々と応えた。

 《神官長》の方も、あくまで義務的に咎めただけで。

 自らの主人の返しには何も言わず、ただ苦笑いを浮かべるのみだった。

 王。陛下。

 彼らの間において、その呼び名が示す者はただ一人のみ。

 この地で最も偉大なる御方。

 《人界ミッドガル》の神々、その頂点に君臨する者。

 

「陛下の御心を乱して、また余計な事を思いつかれても堪らないわ。

 それで一番迷惑を被るのが私なの、良く知っているでしょう?」

「心中お察しします、我が主よ」

 

 だからこそ、一度気紛れを起こされると始末に悪い。

 偉大なる方ではあるが、その気質としては暴君のそれに近い。

 故に《星神》は、余計な面倒を起こしたくないと切に願っていた。

 ――陛下であれば、私が感じた程度の異変は既に察しているでしょうけど。

 ただそれだけならば、玉座から動く真似はしないはず。

 気紛れな暴君であるが、同時に王は不要な面倒は嫌う質だ。

 興が乗らない限りは何もしない――《星神》が知る限りでは、そのはずだ。

 それすらも希望的観測に過ぎず、いつ潮目が変わるかも分からない。

 ……人は多くの理解の及ばぬ事柄を、「神のみぞ知る」と表現するけれど。

 王の御心に関しては、「神すらも知らない」と言う他ない。

 

「まったく……」

 

 《星神》の表情に苦悩の色が滲む。

 今はまだ些細な問題で、王に伝えるまでもない。

 しかし、神たる少女には予知にも似た直感が働いていた。

 数千年ぶりの取るに足らない異変。

 これを放置すれば、場合によっては大事になりかねないと。

 

「《星神》よ、必要があれば私が――」

「貴方はダメ。《神官長》、自分の立場を分かっているでしょう」

 

 主人の憂いを払おうと。

 そう自ら進言した《神官長》だが、それはあえなく却下された。

 髪と同じ星々の銀を宿す瞳が、こうべを垂れる男に向けられる。

 

「貴方はこの《人界》の地を取り纏める神官たちの長。

 下手に動けば下の者たちが混乱するわ」

「ハッ、申し訳ございません。出過ぎた真似を」

「その忠義はありがたく思ってるわ。

 必要があれば働いて貰うけれど、今はまだ不要よ」

 

 片腕たる《神官長》の献身を労いながら、《星神》は思考を巡らせる。

 《神官長》はその立場上、下手に動かすわけにはいかない。

 それは《星神》自身もまた同様だった。

 彼女もまた極めて重要な役割があり、この《星の宮》を軽々しくは出られない。

 さりとて異変を放置したままにはしておけない。

 であれば、どうするか。

 

「……仕方ないわね」

 

 ため息を一つ。

 解決する方法は実に単純だ。

 自らで動けないなら、動ける者に動いて貰うしかない。

 気は進まないが、《星神》その決定を口にした。

 

「《神官長》、我ら《十神》が一柱――《裁神》にこの事を伝えて」

「《裁神》の御方にですか。宜しいので?」

「宜しくない理由もないでしょう」

 

 《神官長》の危惧も分かる。

 《人界》の神々としてはまだ年若い彼女は、何かと暴走しがちだ。

 精神的に未成熟な部分が多いのは否めない。

 それを差し引いても、《星神》は《裁神》に信頼を置いていた。

 ――今は亡き「友」の忘れ形見、という部分も大きいけど。

 《星神》はそれについては胸に秘めて、あくまで同じ神々としての判断を下す。

 

「忌まわしき悪神により鎖された海の彼方。

 その境を越えて、この《巨人の大盤ギガンテッサ》に流れ着いた者がいる。

 《裁神》にそう伝えなさい。

 如何なる裁きを下すかは、貴女の判断と権利に委ねるとも」

「承知いたしました、我が主。

 それでは、早速お伝えしに参りましょう」

「ええ、私はこのまま《星送りの儀》を続けるから」

 

 恭しく一礼をすると、《神官長》の姿は闇に溶けて消える。

 後に残されるのは《星神》たる少女ただ一柱。

 腹心の姿を見送った上で呟く。

 

「……あの子一人だけで片付けば良いけど」

 

 唇からこぼれ落ちるため息一つ。

 《裁神》は優秀で強力な神だ。

 不安要素を帳消しにする程度には、その能力に信頼は置いている。

 それでもやはり、《星神》は嫌な予感を拭えずにいた。

 

「他の神々が気が付いて、それでどうするかね」

 

 《人界ミッドガル》の神々。

 かつて人々を救済し、理想郷たる《人界》を創造した偉大なる王。

 彼の御方に「権利」を認められた十柱の神々。

 残念ながら、その内情は決して一枚岩などではない。

 そもそも、僅かな「最も古い神」以外は殆どが陛下が気紛れに見出した者たちだ。

 王が認めさえすれば、その器には「神たる力」が宿る。

 《星神》である彼女の眼から見ても、問題のある神は混ざっている。

 その中でも、特に――。

 

「……止めましょう。

 あまり陛下の判断に異を唱えるのもね」

 

 そう、あまり宜しくはない。

 特に《星神》たる彼女は、神々の中でも最も王に近い位置に立っている。

 それ故に語る言葉の一つにも気を配る必要があった。

 ――勿論、分かっている。

 分かってはいても、どうしてもため息ぐらいは出てしまう。

 《神官長》に必要な事を伝え、後は《裁神》に委ねた。

 どういう結果となるかは、神たる彼女にもまだ分からないが。

 

「大丈夫だと、今はそう信じましょうか」

 

 煌めく星の海で一人呟く。

 それからまた瞼を閉じて、《星神》は祈りとなった。

 限りなど無いかのように広がる星の聖域。

 《星神》である彼女と、彼女が認める者以外は立ち入れない《星の宮》。

 神々の王でさえも容易くは干渉できないその場所で。

 最も古き神である少女は、ただ祈り続ける。

 

「(――――杞憂ならば良いけど)」

 

 本来であれば、祈りの最中では如何なる思考も雑音になる。

 無心となろうとしたが、《星神》はどうしてもその事について考えてしまう。

 彼方の海を、今も隔てている絶悪なる邪神の境界。

 これを越えた者は、この数千年は誰一人としていない。

 ――ただし、現れた者はいたが。

 許しなくば立ち入れない《人界》へと、直接乗り込んで来た初めての例。

 杞憂ならば良いと、《星神》は繰り返し考えずにはいられなかった。

 

「(《人界》の門は、神々以外は私か《律神》の許可なくば越えられない。

  あの白骨の老賢人は《摂理》の一部を曲げる程の力を有していた。

  ……その上、陛下との拝謁まで行って……)」

 

 彼の老賢者が何を求め、何を望んだのか。

 王との拝謁の場に、古き神たる《星神》も同席していた。

 ……本音を言えば彼女は反対したが、王が面白がってはどうしようもない。

 どうあれ、拝謁で交わされた言葉の全てを《星神》は知っていた。

 あの禁じられた地で何が起こり、今は何者が支配しているのか。

 内容は大まかにではあるが、白骨の語った話は真実であるようだった。

 ……そう、間違いなく虚偽はなかった。

 であれば一体、あの境の向こう側で何が起こっているのか?

 盟約を名乗る、悪神の眷属たる竜を屠った者たち。

 彼らの支配が盤石であるならば、今さら「境」を越える者など現れないはず。

 

「(本当に、杞憂ならば良いのだけど)」

 

 単なる偶然の結果で、思い煩うことなど一つもなかったと。

 そのような結果で終わる事を、《星神》は心の底から願った。

 願いながら、深まる祈りの底へと自らを鎮めて行く。

 後には汚濁も、雑音の一つさえ存在しない静謐なる《星の宮》だけが広がる。

 ――暗い闇の中を星々が流れる。

 儚く消える淡い光。

 その一つ一つに向けて、《星神》は祈りをささげ続けた。

 《星送りの儀》は、その日も滞りなく。

 神たる少女の憂いとは裏腹に、時はただ穏やかに過ぎていく。

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