終章:嵐を乗り越えた先に待つもの

312話:最果ての外


 波の音が聞こえる。

 嵐が引き起こすような、荒々しいものとは異なる。

 穏やかに波打っては引いていく水の声。

 聞いているだけで、そのまま眠ってしまいたくなりそうだ。

 はて、俺はどうなったのか。

 巨大な嵐の竜と戦っていた事までは覚えていた。

 戦って、勝ったが弾けて、それから。

 ……それから?

 

「……っ、げほっ」

 

 目が覚めると同時に、俺は派手に咳き込んだ。

 喉の奥に入ってしまった塩辛い水を、慌てて吐き出す。

 それを何度か繰り返してから、一息。

 いかん、危うく溺死するところだった。

 地味な死線を乗り越えた事に安堵し、視線を辺りに巡らせる。

 そこは海岸だった。

 果てしなく広がる白い砂浜に、太陽の浮かぶ青い空。

 嵐の気配はもうどこにもない。

 ヘカーティアの《竜体》が砕けた衝撃で、どこかに流されたか。

 あのまま海の底に沈まなかったのは幸運と言う他ない。

 

「さて……」

 

 どこかも不明な景色を確認したら、今度は手元に目を向けた。

 こっちもこっちで、相当に運が良かった。

 俺の腕には、気絶する前と変わらず抱えたままの三人の姿がある。

 アウローラに、テレサとイーリス。

 ただ全員、まだ気を失ったままだった。

 見たところ呼吸はしているし、命に別状はなさそうだが。

 

『……目が覚めたか、竜殺し』

「おう」

 

 もう一人、ボレアスの声が腰の剣から響いた。

 鞘に納めた状態の刃から、炎の気配が流れ出す。

 それは瞬く間に、尻尾と翼を持った全裸美女の姿へと変化した。

 

「そっちはそっちで元気そうだな」

「元気かどうかは知らんが、まぁ問題はないな。

 剣の中にいたゆえ、溺れる無様は晒さなかったが。

 力の使い過ぎで暫し眠っていた」

 

 だから目覚めたのは、お前と大して変わらんタイミングだと。

 そう言いながら、ボレアスも周囲の景色をぐるっと見渡す。

 

「……見覚えのない場所よな。何処だ、ここは」

「俺が聞きたいんだよなぁ」

 

 訝しげに首を傾げるボレアス。

 まぁ、大陸もなんだかんだで広いからな。

 海を見た経験さえ、北に行った一度きりしかない。

 ここがどこの海岸だとか、俺の方ではサッパリだった。

 ……と、腕の中で動く気配がある。

 

「んんっ……」

「アウローラ、起きたか?」

 

 三人娘の内、最初に目を覚ましたのは金色の少女だった。

 びしょびしょに濡れて張り付いた髪を、軽く指で払ってやる。

 その感触がくすぐったかったのか、アウローラは小さく唸った。

 それからゆっくりと両目が開いて。

 焦点が定まっていない瞳が、俺の顔を見上げていた。

 

「大丈夫か?」

「……レックス?」

「おう」

 

 手が伸びて来たので、軽く握って応える。

 水に濡れて冷えた指先を温めてやろう、と思ったんだが。

 

「……冷たいわ」

「そりゃ籠手の方が冷たいよな」

 

 こっちはフル装備のままだった事を忘れていた。

 冷えた金属で触っても、温かいどころか逆効果だよな。

 そんな間抜けに、アウローラは小さく喉を鳴らす。

 

「まったく、酷い目に遭ったわね……」

「おはよう、長子殿。気分はどうだ?」

「最悪とまでは言わないけど、あんまり良くはないわ」

 

 笑うボレアスに応えて、アウローラもゆっくりと身を起こした。

 改めて、びしょ濡れになっている姿を眺めてみる。

 どれほどの時間かは不明だが、随分と水に沈んで流されたようだしな。

 髪の毛まで含めて全部水に濡れて、服も体にぴったりと張り付いている。

 おかげで線の細さとか薄い胸の形状もハッキリと……。

 

「レックス?」

「はい」

「凄い見てない?」

「割と珍しい状況だったんでつい」

 

 風呂に入る時は基本脱いでるし。

 服着たまんまで全身水に濡れてるってのは、なかなかレアだなと。

 素直に言ったら、アウローラは頬を染めて笑った。

 

「まぁ、貴方だったら別に幾ら見てくれても構わないけど……」

「やったぜ」

「この状況でする話か、それは?」

 

 常に全裸を貫き通すボレアスさんにツッコまれてしまった。

 姉妹の方も大変良い眺めだが、こっちは見過ぎると色んな意味で後が怖い。

 あとまぁ、俺とかは平気でも濡れたまんまじゃ風邪を引くしな。

 まだ少し顔を赤くしたまま、アウローラはこっちに身を寄せてくる。

 

「乾かした方が良いでしょう?」

「だな。悪いが、頼めるか?」

「ええ、勿論。

 私は構わないけど、この子たちはあんまり見られても困るでしょうし」

 

 いや、大変申し訳ない。

 アウローラが軽く指を振ると、ほんのり温かな風が辺りに吹いた。

 それだけで、俺たち全員を濡らしていた水分は全て蒸発したようだった。

 こっちもこっちで鎧の下はずぶ濡れだったが。

 今は水の感触は完全に消えていた。

 

「ありがとうな、助かった」

「このぐらいは大したことないわよ」

 

 わしゃりと頭を撫でると、アウローラは嬉しそうに喉を鳴らす。

 テレサもイーリスも、後は温かくしとけば問題ないだろう。

 とりあえず、まだ気を失っている二人をしっかりと抱え直しておく。

 

「なぁ長子殿。そちらはここが何処なのか分からぬか?」

「? ここが何処かって……」

 

 ボレアスの問いに、アウローラは初めて周囲に視線を向けた。

 白い砂浜と、穏やかに波を揺らしている海。

 見える範囲には、後は晴れた空ぐらいしか目に入らない。

 かなり遠くで、砂が途切れて岩場に続いてるのがギリギリ見える程度だ。

 アウローラも一通り見た上で、緩く首を傾げる。

 

「……何処かしらね、ここ」

「なんだ、長子殿でも分からぬのか?」

「いきなり放り出された場所が何処かなんて、すぐ分かるワケないでしょ」

 

 からかうボレアスに対し、アウローラは眉根を寄せて唸る。

 まぁ、いきなり聞かれても分からんよな。

 宥めるつもりで彼女の頭を撫でてると。

 

「……ん、ぁ?」

「……ここ、は……?」

「おう、おはよう」

 

 テレサとイーリス、姉妹二人もようやく目を覚ました。

 ぼんやりしている彼女らを、とりあえずしっかりと抱えておく。

 目覚めてすぐは意識が朦朧としているようだったが。

 

「……どういう状況だよ、コレ」

「見ての通り?」

「躊躇なく開き直りやがった、このスケベ兜め……」

 

 抱えられて密着してる状況がお気に召さなかったか。

 顔を赤くしたイーリスは、そのまま控えめにジタバタと暴れ出した。

 姉のテレサの方は抱っこした猫みたいに手足を丸めて。

 

「ま、まぁまぁ、イーリスも落ち着くんだ」

「姉さんはむしろ嬉しい状況だろうけどなぁ……」

「起きたばかりで元気ね、貴女たち」

 

 さりげなく身体をくっつけながら、アウローラさんもクスクスと笑う。

 うん、少し前までの嵐が嘘みたいに平和だな。

 猫といえば……。

 

「マレウスやヴリトラは、姿が見えないな」

「……そうね。まぁ、状況が状況だったから。

 むしろ私たちもバラバラになってないだけ随分と運が良いわ」

「それは間違いなくそうだな」

 

 まぁ、あっちは古竜だ。

 仮に海に沈んでも大きな問題はないはずだ。

 生きていればまたどっかで合流できるだろう。

 

「……で、ここは一体何処だよ」

「それは私も気になっていたけど……」

「実は良く分かってないんです」

「マジかよ。大丈夫なのかそれ?」

 

 やや不安そうに言って、イーリスは顔を顰めた。

 気を失って目覚めたら現在位置不明ってのは、確かに気になるよな。

 とはいえ、大陸のどっかに流された程度ならそう心配は……。

 

「…………?」

 

 ふと、違和感を覚えた。

 最初は分からなかったが、それが何であるかはすぐに理解できた。

 地面が微かに揺れているのだ。

 小さな振動が身体に伝わり、すぐ途切れる。

 その後またすぐに地面が振動する。

 一定の繰り返しが延々と続く。

 感じ取ったのは俺だけではないらしく、その場の全員が顔を見合わせた。

 

「これは、地震……?」

「いや、地震にしちゃおかしくねぇか……?」

「……そもそも、大陸は地盤が安定してるから。

 地震なんて滅多に起こらないわよ」

「そうなのか」

 

 アウローラの言葉は初耳だった。

 しかし言われてみると、地震なんて知識では知ってても殆ど覚えがないな。

 戸惑う姉妹の頭を撫でつつ、俺は周りを見た。

 何となく、原因がどっかにあるんじゃないかという気がして。

 

「竜殺しよ。

 地震とは、大地の深くにある裂け目がズレるなどして起こる現象だ。

 その辺りを見回しても仕方がないと思うぞ」

「成る程なぁ」

 

 確かに、そういう事なら意味はない……が?

 

「んんっ?」

 

 遠く、遥か遠くに何かが見えた気がした。

 最初は山かと思ったが、違う。

 それは動いていたからだ。

 普通に考えて、山が動くなんてのはあり得ない。

 山ではない、巨大な動く「何か」。

 その何かが動く度に、地面から振動が伝わって来る事にも気付く。

 ……まさか、アレが原因か?

 

「どうしたの、レックス?」

「いや、アレ」

「アレ……?」

 

 アウローラに問われて、俺は今も見える何かを指差す。

 彼女は訝しげに目を細めて……。

 

「…………」

「……アウローラ?」

 

 黙り込んでしまった。

 その表情は完全に驚愕で凍り付いている。

 一体、彼女の眼には何が見えたのか。

 流石に素の視力じゃあ、距離が遠すぎて殆ど見えないが。

 

「《鷹の目ホークアイ》」

 

 視覚強化の魔法を発動し、より遠方を視認できるようにする。

 そうする事で、俺の目にもハッキリとその姿が捉えられた。

 見たこともない、その異形の姿を。

 

「……何だ、ありゃ?」

 

 思わずそう呟かずにはいられなかった。

 基本的には人型の「何か」。

 ただ、あくまで「胴体に手足が四本付いている」だけで形は酷く歪んでいる。

 兎に角、何とも形容しがたい姿だった。

 山より巨大な粘土を、人間の形に無理やり仕立て上げたような。

 顔らしい部分に並ぶ五つの目には、意思の光らしいものは見られない。

 まるで人形のように生気はなく、それでもその怪物は自ら足を動かしていた。

 巨大な脚部が一歩踏み出す度、大地はどうしようもなく揺さぶられる。

 

「まさか……《巨人》?」

「アウローラ?」

 

 どうやら彼女は、あの山よりデカい怪物が何かを知ってるらしい。

 いや、《巨人》って名前は何か聞き覚えがあるような……?

 アウローラは、まだ半分ぐらいは凍った表情で俺を見た。

 

「アレは、あの怪物は《巨人タイタン》よ。間違いない。

 私たちの大陸には存在しないはずの。

 だとしたら、此処は……」

「……オイ、一体どうしたんだよ。何の話してんだ?」

「主よ、《巨人》というのは一体……?」

 

 未だに状況を呑み込めない姉妹。

 ボレアスの方は無言だが、こちらは意味が理解できたらしい。

 表情には明らかに緊張感が漂っていた。

 蒼褪めたアウローラの髪を撫でながら、俺はその眼を見つめ返す。

 こっちもきちんと理解できたワケじゃない。

 ただ、此処がどういう場所なのかは何となく想像がついた。

 

「……此処は、大陸の何処かじゃない。

 《外界》――かつて、《造物主》は《断絶流域》で大陸全体を遮った。

 本来は行き来できるはずのない、大陸の「外」にある世界。

 不死の《巨人》たちが跋扈する死の大地。それが、この場所よ」


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