幕間5:暁と共に去りぬ


 灰色の男にとって、起こる全ての事が予定になかった。

 今回の事態に介入すること自体、最初から予定にない事だった。

 結果として大真竜の一柱、その《竜体》を得るという最高の結果を手にした。

 大いなるバビロンを失った魔法使いにとって、それはまさに望外な成果だ。

 そうして狂える“嵐の王”を操り、大陸の支配者たる盟約に挑む。

 勝利はできずとも、最低でもダメージさえ与えられれば良い。

 運が良ければ、現在の大陸秩序を破壊する事さえ可能だろうと。

 魔法使いは其処まで考えていた。

 それもまた、予定した筋書きではない事だが。

 大真竜をほぼ完全な状態で支配下に置いた時点で、彼は勝利を確信さえしていた。

 ――けれど。

 

『……なんて面倒な連中だ』

 

 何もかもが黒く染まった世界。

 星の輝きなど一つとして存在しない、闇夜に塗り潰された空間。

 その中心に男は立っていた。

 黒き魔法使いにして灰色の亡霊。

 最早名乗るべき名すら忘れ去ってしまった古き始祖。

 かつては《黒》を名乗った男は、予定外の事態に歯噛みしていた。

 彼がいる場所は、ヘカーティアと呼ばれた大真竜の魂。

 その内的世界であり、彼女の魂の本質が存在していたはずの空間。

 今はもう、そこにあるのは闇ばかりだ。

 灰色の男の手で、何もかもが狂気という呪いに塗り潰された。

 少し前までそこにいたはずの女の意思と、死した男の残骸。

 それらも含めて、残さず黒に染まっている。

 その場で立っているのは、亡霊じみた姿の魔法使いだけだった。

 ――予定していない最高の成果を得た。

 気紛れで助けた少女がもたらした、想定外の大勝利。

 ほんの少し前までは、魔法使いはそれがもう揺るぎないと信じていた。

 だが、今はどうだ。

 

『糞、ここまで抵抗するかよ……!』

 

 “嵐の王”を支配している魔法使いには、その五感の一部を知覚できる。

 その眼や耳が捉えるのは、嵐の中で戦う者たちの姿。

 勝ち目など存在するはずもない。

 現在の大陸において、抗うことなど不可能な最強の力。

 それこそが大真竜、その序列五位たる大いなる竜。

 ――勝てるはずがない。

 まだ支配したばかりで、灰色の男は全てを十全に操れるわけではなかった。

 だとしても、その力を狂える獣として解き放つだけで何もかもが砕け散る。

 大真竜ヘカーティアはそれほどの存在だ。

 全てを呑み込む大嵐に、抗える者などあるものか。

 古き魔法使いは、それを支配する己の勝利を確信していた。

 むしろ、目の前にある儚い抵抗などどうでも良いとすら思っていた。

 肝心なのは、今は遠くなってしまった大陸の方。

 深淵の玉座に居座る、あの恐るべき《黒銀の王》と。

 彼女を頂点に、未だ健在である上位の大真竜たち。

 特に厄介なのは、あの「鋼鉄の大英雄」と――。

 

『……チッ』

 

 その名と姿を思い浮かべ、灰色の亡霊は小さく舌打ちをした。

 それを聞き咎める者は、此処には誰もいない。

 亡霊たる男はいつも一人だった。

 一人でここまで行って来た。

 だから今も、たった一人で困難に挑み続ける。

 儚いと侮っていたはずの抵抗。

 それが予定外に粘っている事実にも、ただ一人で苛立っていた。

 ――あり得ない。

 口にはせずに、その言葉を繰り返し唱える。

 あり得ない、あり得ない、あり得るはずがないだろう?

 どうしてここまで戦える。

 コレは盟約の礎たる大真竜。

 その序列五位であり、力の規模だけならより上位の竜にも引けを取らない。

 大陸そのものを滅ぼしかねない“嵐の王”。

 狂える嵐の手綱を握り締めながら、魔法使いは焦っていた。

 本当なら、さっさと蹴散らして大地の上で暴れさせるはずだったのに。

 

『何で《断絶流域》まで押し込まれてるんだ……!!』

 

 陸地はもう遥か遠く。

 弱者の奮戦により、気付けば其処は最果ての海。

 かつて《造物主》が大陸を囲う形で敷いた侵入不可能な嵐の領域。

 空間さえも遮断された不可触の海。

 こんな場所まで押し込まれるなんて、まったく想定外の事態だった。

 振り払おうにも、それはどうも上手く行かない。

 勝利の余裕は、だんだんと焦燥に変わりつつあった。

 

『……いや、まだだ』

 

 まだだ。

 まだ自分の勝ちは揺らいでいない。

 どの道、抗っている連中ではヘカーティアの《竜体》は砕けない。

 《断絶流域》まで押し込まれたのは驚いたが。

 これだけ離されても尚、“嵐の王”の力ならば十分大陸に届く。

 加えて、《断絶流域》で荒れ狂う巨大な嵐。

 元々は《造物主》が施したコレも、ヘカーティアの権能で操れるはず。

 そう考えた魔法使いは、それを早速実行に移した。

 膨大な水流を操る青き竜も。

 鱗の何枚かを削るために走り回る人間たちも。

 そして、忌々しいかつての《最強最古》も。

 全てを無視して、魔法使いは思惑通りに大真竜を動かす。

 嵐を支配する権能によって、《断絶流域》の嵐を一部奪い取る。

 その膨大なエネルギーと、ヘカーティア自身が元々纏っている嵐。

 これらを無理やり一つに纏めて《竜王の吐息ドラゴンブレス》へと変える。

 古き始祖たる男にとっても、その作業は難事だった。

 難事ではあるが――それでも彼はやり遂げた。

 この距離からでも、大陸を打ち砕く事が可能な嵐の凝縮。

 或いは、それは《黒銀の王》さえも届くほどの。

 

『ハハハ……ッ!!』

 

 我知らず、灰色の魔法使いは笑っていた。

 成功した。

 序列五位の大真竜、その能力でもギリギリだった。

 二つの異なる嵐の融合と、その制御。

 今も処理能力は限界近いが、間違いなく成功している。

 自らの魂さえも軋ませながら、魔法使いは最後の仕上げに取り掛かった。

 完成した《嵐の吐息》を、大陸に向けて撃ち放つ。

 多少狙いがズレても、当たりさえすれば良い。

 大地は砕け、地の底にある深淵の玉座も無事では済むまい。

 そうなれば《大竜盟約》はどれほどのダメージを受ける事になるか。

 

『さぁ、千年前の応報の時だ……!!』

 

 誰もいない孤独な空間で、一人叫ぶ。

 予定外の勝利を得た魔法使い。

 しかし彼は、予定外に敗北する事になる。

 《吐息》を間もなく放つというところで、あり得ない抵抗が襲った。

 発射寸前の顎を閉じ、《嵐の吐息》の暴発を狙う。

 そんな馬鹿で無謀な抗いは、灰色の男にはまったく想定の外だった。

 

『ッ……無駄な事を……!』

 

 あり得ない。

 そんな愚かしい真似が成功するはずがない。

 しかし人間たちの捨て身により、大真竜の顎は閉じられた。

 そこに他の古竜たちが加わって全力で締め上げる。

 解き放つ寸前の嵐の凝縮。

 行き場を失ったエネルギーが《竜体》の内側で暴れ始めていた。

 少しずつ、だが確実に。

 大真竜たる身体は崩壊しつつあった。

 だが。

 

『ふざけるなよ……!!』

 

 魔法使いは怒りに吼える。

 そう、怒りだ。

 灰色の男は、これ以上なく憤っていた。

 必殺を確信した一撃を妨害された事に――ではない。

 彼の望みに繋がるはずだった一撃。

 それを遮った者の中に、あの《最強最古》が含まれている事。

 その事実が、他の何よりも魔法使いの癇に障った。

 

『この期に及んで、まだ俺の邪魔をするのかよ! 《最強最古》!』

 

 亡霊の内から湧き出る制御不能な激情。

 最早、彼の目には無謀な抵抗を続ける者たちしか見えていなかった。

 特に恨みを持つ、《最強最古》に多くの意識を割かれていた。

 暴発寸前でも、男は未だに大嵐の塊を制御できている。

 それもまた集中力の大半をつぎ込む必要のある大仕事だ。

 ……故に、亡霊は気付かない。

 彼しかいないはずの孤独な闇の中。

 そこに立ち上がった、「」の存在に。

 

『――――は?』

 

 亡霊の背後を取ることなど、容易だったはずだ。

 けれど、「彼」は敢えてそうしなかった。

 わざわざ正面に立った者の姿を見て、魔法使いは間抜けな声を漏らす。

 どれほどの年月を経ても、色褪せる事のない強い眼差し。

 闇に突き立つ稲妻の如くに、「彼」はそこにいた。

 白い装束を纏った、黒髪の青年。

 その片腕には、眠る少女が愛おしそうに抱えられていた。

 「彼」が誰なのかは、灰色の男は良く知っていた。

 

『アカ、ツキ』

「久しいな、友よ」

 

 打ち込まれた鉄拳を、躱す術などなかった。

 イーリスに殴られた時と同じか、それ以上の衝撃。

 灰色の亡霊は闇の中で倒れ伏す。

 

『が、ッ……クソっ……!

 今、さら、迷い出てくるのかよ……!』

「そうだな。亡霊の身はお互い様だ」

 

 淡々とした、機械に似た声。

 聞く者が聞けば、そこに深い痛みと悲しみが秘められていると分かる。

 そして古い魔法使いにはそれが分かっていた。

 

「……正直に告白するなら。

 私は自分が本当に『アカツキ』であるかという自信はない」

 

 狂気に侵され、深い眠りに囚われた少女。

 愛しい竜の魂を腕に抱きながら、アカツキと呼ばれた男は呟く。

 

「ヘカーティアが、その魂の内に呑んでいた『アカツキ』の魂。

 そして、最後の瞬間に彼女が抱き締めていた『機械の男』の魂。

 二つの魂が重なり、彼女が愛を取り戻したが故に起こった泡沫の奇跡。

 ――それが今の私だ、友よ」

『……理不尽だろ、それ。

 奇跡なんて、そうポンポン起こすもんじゃないはずだ』

「起こるとも。奇跡は、正しく望む者の手ならば何度でも」

 

 アカツキの言葉に、灰色の男は皮肉げに笑った。

 あぁ本当に、彼はもう笑うしかなかった。

 他人が起こした奇跡に乗っかって、予定外の勝利を手にした。

 そして今、やはり他人が起こした奇跡によって自分は敗北するのだと。

 そう確信したから、魔法使いは笑っていた。

 

「無駄ではあると思うが、確認をして構わないか。我が友よ」

『聞くだけ聞いてやるから、言うだけ言ってみろよ。古き友よ』

「もう、やめるつもりはないか」

『無い』

 

 その言葉は、間違いなく慈悲だった。

 もう全てを終わらせても良いはずだと、アカツキは言った。

 けれど、灰色の男はそれを拒絶する。

 それだけは絶対にあり得ない、認められないと。

 此処で諦めてしまったら、これまでの重ねた犠牲は何だったのか。

 自分の意思で止まることなど、彼には到底不可能だった。

 

「……そうか。そうだろうな」

 

 その狂気の果てを、アカツキは悼んだ。

 志高く、同胞やそれ以外の人間たちを愛した心優しき魔法使い。

 アカツキの生涯の友であったはずの男。

 此処にいるのは、その壊れた残骸に過ぎないと。

 もう認める他なかった。

 そしてそれを正すだけの力と時間は、アカツキには残っていなかった。

 こうして立ち上がり、言葉を交わすだけでも奇跡なのだ。

 奇跡は何度でも起こるが、決して長続きはしない。

 だから。

 

「この一撃と敗北を、亡き友への手向けとしよう」

『……一応聞くだけ聞くけど、手加減してくれたりはしない?』

「分かり切った問いかけほど哀しいものはないな、友よ」

 

 愛しい少女を片腕で抱き、もう片方の腕を友のために振り上げる。

 灰色の男は、座り込んだ状態でそれを見ていた。

 この場の敗北を受け入れた彼は、もう抵抗する意思はなかった。

 ……少なくとも、最低限の「嫌がらせ」はできる。

 言葉にはせず、その思惑は胸に秘めた。

 

「手加減は無しだ。

 ―――今度こそ、さらばだ」

 

 振り下ろされた鉄拳は、闇を粉々に砕いた。

 空を駆ける稲妻が、分厚い暗雲を切り裂いていくように。

 亡霊の如き魔法使いは、砕ける暗黒と共に「外」へと弾き出された。

 不滅たる始祖の魂を持つ彼は、決して諦めないだろう。

 そのことを悲しみながら、残されたアカツキは。

 

「……私も、愛している。

 今は共に眠ろう、ヘカーティア」

 

 両腕に、愛する竜の少女を抱き締めて。

 闇が晴れたその中心で、目を閉じる。

 きっと、彼女と同じ夢を見られるだろうと。

 そんな祈りにも似た願いを胸に抱き――再び彼は、眠りについた。

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