幕間4:無慙なる魂



 ――『彼』にとって、何もかもが予定にない話だった。

 失われた《大いなる都バビロン》での企み。

 これが潰えた時点で、『彼』は暫く身を潜めるつもりだった。

 その「暫く」が数年か数十年か、或いは数百年に及ぶのか。

 それすら特に予定を立てていたワケではない。

 偶々出会った一人の少女に、気付かれぬよう「監視」の目を付ける。

 これもまた、特に意味があってやった行為でもなかった。

 単なる思い付きの気紛れ。

 少女とその仲間が、これから《大竜盟約》とぶつかって行く過程。

 それを眺めて、何か情報を得られれば御の字だと。

 『彼』自身、本当にその程度しか考えてはいなかった。

 ……だから、その少女が大真竜ヘカーティアに殺された時。

 どうして危険を冒してまで介入したのかは、『彼』自身も良く分かっていない。

 意味がある行いなのか。

 そんな事をする必要があったのか。

 己の思考に蓋をしたまま、『彼』は思いつくままに振る舞った。

 無事に少女の魂を引き上げる事に成功した後も。

 明確な予定など何一つないまま、「あわよくば」とその成り行きを見守った。

 上手く行くなんて、それこそ欠片も考えてはいなかったが。

 

『あぁ、心の底から感謝するよ。イーリス』

 

 だからこそ、その瞬間を『彼』は歓喜と共に迎えた。

 大真竜ヘカーティア。

 《大竜盟約》の礎である序列五位。

 強大極まりない古き竜の王。

 まともに戦えば、今の『彼』では手も足も出ない。

 そんな恐ろしい敵が、致命的な隙を晒している。

 千載一遇の好機だった。

 

「な……っ!?」

「ヘカーティア!」

 

 イーリスは『彼』の存在に気付いたが、反応が一瞬遅い。

 『彼』の放った術式は、無防備なヘカーティアの背に突き刺さった。

 普通に施したのなら、莫大な魔力によって抵抗レジストされて終わりだ。

 しかし此処はヘカーティア自身の内的世界。

 術式を撃ち込んだのは、その魂の本質。

 心臓に直接毒を流し込んだに等しい。

 如何に大真竜であろうと、こうなれば抗う余地などない。

 

「お、まえは……!!」

『久しいね。ヘカーティア、それともコッペリアが良いかな?

 千年前の報復だ、精々利用させて貰おうか』

「《黒》……!!」

 

 《黒》。

 今は《灰色》を名乗る狂える魔法使いは笑う。

 ヘカーティアに打ち込んだのは支配の術式。

 その力を奪い、乗っ取り、手駒に変えるための魔法。

 竜王バビロンの時は失敗した。

 長い年月をかけた計画はあっさりと崩れ去ってしまった。

 しかし今、それ以上の成果が『彼』の手に握られる。

 まさか盟約の礎、大真竜の一柱をそのまま奪い取れるなんて。

 

『あぁ、本当に。

 何もかも予定にない話だが、君には感謝しかないよ!』

 

 《灰色》の魔法使いは笑う。

 施した術式が、ヘカーティアの魂に広がって行くのが分かる。

 多少の時間は掛かるだろうが、こうなればもう覆せない。

 千年前の大いなる戦い。

 かつて無様に敗北してしまった、その時の続きを。

 《灰色》はその様を思い描いて――。

 

「オッラァァ!!」

 

 思い切り殴り掛かられた。

 躊躇なんて少しもしないで。

 イーリスは《灰色》に向かって突撃したのだ。

 固めた拳を勢いよく振り下ろす。

 

『イーリス……!?』

「気安く呼ぶんじゃねーよ糞野郎が……!」

 

 予定にない事だった。

 何もかも予定にない中、最高の結果を魔法使いは手にしつつあった。

 それをもたらした少女――イーリス。

 彼女の行動は、魔法使いの想定を何もかも飛び越えてくる。

 まさか、この状況で拳一つで突っ込んでくるとは。

 

「漁夫の利狙いとか、ホントにどうしようもねぇなテメェ!!」

『ちゃんとそのつもりだとは話しただろ!

 君は俺の想定を遥かに超えて上手くやった!

 だから動いただけじゃないか!』

「火事場泥棒する予定とは聞いてたけどよ。

 別にそれを認めたつもりは欠片もねぇよバカ……!」

 

 それはそれで道理ではあった。

 今の《灰色》は、敢えて魂と精神の形を定めないあやふやな状態。

 言葉通りに「幽霊」に等しい。

 そんなフワフワした魔法使いを、イーリスの拳が的確に捉える。

 これもまた、《灰色》にとっては予定外だった。

 ヘカーティアに対して術式を施した。

 それで終わりのはずだった。

 イーリスの行動も、単なる悪足掻きに過ぎない。

 悪足掻きに過ぎないはずの、彼女の拳。

 

『痛っ……!?』

「殴ってンだから当たり前だろうがよ……!」

 

 それが妙に痛いのだ。

 幽霊じみた今の《灰色》は、本来なら他が干渉するのは難しい。

 煙や霧を素手で殴るようなものだ。

 普通に考えればあり得ない事を、今のイーリスはやってのける。

 まるで、普通に生身をブン殴られているような。

 そんな痛みと衝撃が、容赦なく《灰色》の魔法使いを揺さぶる。

 

『くそっ、ちょっとは落ち着けよ……!

 君にとっちゃ、ヘカーティアは敵だろう!?』

「今はそんな話してねぇよ!!」

 

 痛み。衝撃。

 魔法使いはイーリスを抑え込もうとしたが、上手く行かない。

 彼女はただの人間の小娘に過ぎない。

 珍しい《奇跡》を持ってはいるが、それだけだ。

 《灰色》にとっては本来脅威にもならない。

 予定にも想定にも置かれることのない、取るに足らない存在だった。

 そのはずなのに。

 

「そりゃヘカーティアは敵で、何ならオレを殺した相手だけどな!

 だから今殴り合って話もしてたんだろうがよ!

 そこに外野が横から嘴突っ込むんじゃねぇよ……!!」

『ッ――――』

 

 また殴られた。

 頭をグラグラと揺さぶられる。

 今さらどれだけ殴られたところで、事態は止まらない。

 ヘカーティアへと、術式は順調に浸透している。

 意味はない。

 少女の行いに何の意味もない。

 だから。

 

『っ、無駄だぜ、イーリス……!

 幾ら君が俺を殴っても、ヘカーティアはもう――』

「だからンな話してねェつってんだろうが!!」

 

 迷いも躊躇いもなかった。

 殆ど一方的に、イーリスは《灰色》の魔法使いを殴り付ける。

 大真竜に遠く及ばないとはいえ、『彼』もまた古きもの。

 特殊な力を持ってるだけの人間などより余程強い。

 本来あるはずの力関係を無視して、一方的に拳を受ける。

 小さな手が与えてくる痛みと衝撃は、《灰色》の想定を超えていた。

 

「オラ、どうした。泣いて謝っても許しゃしねぇぞ……!」

『ッ……イーリス……!』

 

 お互いに、魂だけで存在している状況。

 一方的に殴られているのは、両者の心の強さの表れだ。

 少女は強く、魔法使いは弱い。

 ただそれだけの結果なのだと、《灰色》はようやく理解した。

 理解して、それを受け入れる事はできなかった。

 受け入れられたのなら、《灰色》はこんな真似はしていないから。

 

『このまま留まれば、君も巻き添えを食うぞ……!

 ヘカーティアには支配の術式を施した!

 程なく彼女は狂い果て、全てを嵐に呑み込む獣と化す……!』

「それで何がしたいんだよ、テメェは!!」

『邪魔な《大竜盟約》を排除し、俺は失われたモノを取り戻す!!

 盟約の礎、大真竜どもが蓋をしたかつての「神の力」!!

 そうしてやり直すんだよ! 千年前はしくじった!

 だけど今度は上手くやってみせる……!!』

「どいつもこいつも昔のこと昔のことかよ!!」

 

 剥き出しになった亡霊の妄執。

 その愚かな慟哭に、イーリスはまた拳を振り下ろした。

 殴る、殴る、何度でも殴る。

 このまま留まり続ければ、間違いなく嵐に呑み込まれる。

 そうと知っても、イーリスに退く選択肢はなかった。

 目の前の馬鹿野郎を、泣くまで殴ると決めたから。

 或いは万が一にも、事態を阻める可能性もあると――。

 

「……その辺にしておくんだ、イーリス」

 

 それを止めたのは、一匹の竜。

 魂の本質、その半ばを黒い「何か」に侵されたヘカーティア。

 彼女の声は酷く穏やかだった。

 既にボロボロなイーリスの魂を、ヘカーティアはその手で押し留める。

 

「っ……ヘカーティア……!?」

「君を『外』へ送り出す。

 僕は程なく狂ってしまう、千年前みたいに。

 他の大真竜たちが動いたらどうしようもない。

 だからその前に、君たちで僕を止めて欲しい」

 

 それは祈るような言葉だった。

 少し前まであった狂気は微塵もなく、《灰色》からイーリスを引き離す。

 魔法使いは無言。

 既に事を終えた《灰色》は、もう何もする必要がない。

 それを知っているから、ヘカーティアも今はその存在を無視した。

 怒りはない。憎しみも。

 ヘカーティアはただ、この無鉄砲な少女の身を案じた。

 

「ありがとう、イーリス。

 きっともう礼を言う機会はないだろうから。

 今の内に、全部まとめて言っておくよ」

「オイ、ヘカーティア! まだ諦めるなよ……!」

「諦めてはいないよ。ただ、信じて託すんだ。

 君と、『彼』を――アカツキを連れて来てくれた竜殺し。

 あとは業腹だけど、《最強最古》の我が姉にね」

 

 まだ暴れようとするイーリスを、ヘカーティアは抱き締めた。

 抱き締めて、すぐに離す。

 必要な言葉を語り、必要なモノは返した。

 後は必要な事を済ませて、それでお別れだ。

 

「さようなら。ありがとう。

 敵同士で、君を殺した僕が何を言うんだと思うかもしれない。

 けど――後の事は、任せたよ」

「……クソっ。絶対に、絶対に諦めるなよ……!!

 諦めなけりゃ、必ずどうにか――」

 

 言葉は最後まで紡がれる事はなく。

 ヘカーティアの導きにより、イーリスの魂は「外」へと向かう。

 後に残されるのは、黒の汚染が拡大していく内的世界。

 それを施した張本人である《灰色》の魔法使い。

 

『本当にどうにかなると期待してるのかい、“嵐の王”』

「それはお前自身に問うべき言葉だろう、愚かな魔法使い」

 

 自虐なのか皮肉なのか。

 恐らく当人すら分かっていない言葉に、ヘカーティアは冷たく応える。

 灰色の亡霊には一瞥もくれず、竜はその足を引き摺る。

 自由は殆ど奪われてしまった。

 間もなく意思のひと欠片も残さず、全て黒色に塗り潰される。

 ヘカーティア自身に、それを阻む術はない。

 彼女に出来る事は、送り出した少女とその仲間たちを信じる事だけ。

 だから、後は一つだけ。

 

「……アカツキ」

 

 横たわったままに、愛しい人の残骸。

 その胸に、雷光の如く煌めく愛の証明を抱いたまま。

 彼女は亡骸をその手で起こす。

 抱き締める。

 間もなく、この自我が消え去ってしまうその一瞬まで。

 もう離さないと、そう祈るように。

 

「愛してるって、口では言いながら。

 君のこと、何にも考えていなかったよ。

 ごめんよ。本当に」

 

 ほんの僅かに残った熱。

 一秒ごとに削れて消えて行く意識の中、ヘカーティアはそれを胸に抱く。

 

「本当に……馬鹿な奴で、ごめん。

 それでも……僕は、君を、愛してるんだ」

 

 その声は、望む相手に届くのか。

 定かならないまま、ヘカーティアの心は闇へと消える。

 ――《灰色》の魔法使いは、その最期を見ていた。

 間もなく“嵐の王”は破滅をもたらす獣になる。

 その愛も祈りも、全て無意味で無価値だと。

 

『…………ハッ』

 

 理解しているから、男は笑った。

 本当に無意味で無価値なものが何であるのか。

 理解しないままに、魔法使いは笑っていた。


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