307話:魂の衝突


 殴りつけた拳の感覚が消失した。

 まぁ、そうだろうな。

 そうなるだろうと分かってやったんだ。

 大真竜ヘカーティア。

 不滅の竜王であるその魂の本質に。

 それにたかが人間の魂がぶつかりに行ったんだ。

 当たり負けするのは当然――。

 

 

 否定する。

 ここは物理的な世界とは違う。

 自分の中にある「当たり前」なんて感覚は枷でしかない。

 強く握り締める。

 殴った右の拳を、何度か確かめるように。

 吹き飛んだと思った右腕は、ちゃんとそこにある。

 そう思い込めば、それが正しいんだ。

 

「な……っ」

 

 一方、ブン殴ってやったヘカーティアはどうだ。

 明らかに驚き、戸惑った顔でオレを見ていた。

 殴られた衝撃で、今は地面に尻餅をついている。

 そりゃビックリしただろうな。

 ただの人間に顔を殴られて、その衝撃で転ばされるなんて。

 目を白黒させてるとこ悪いが、まだ終わりじゃねェぞ。

 

「立てよ」

 

 手を伸ばし、襟首を掴む。

 今のオレたちは魂だけの存在だ。

 だから物理的な重さなんてのは関係ない。

 本来なら、そう大した腕力があるワケじゃないオレでも。

 大真竜様を片手で持ち上げる事も可能だった。

 

「ッ、小娘が……!」

「テメェだって小娘だろうがよ、ヘカーティア」

 

 戸惑いから怒りを思い出したか。

 罵倒を口にしようとしたところに、更に拳を打ち込んだ。

 それは本来ならあり得ない構図だった。

 

「ぐ、ぁっ……!?」

「痛ェだろ? オレもちょっと痛いけどな」

 

 実際はちょっとどころじゃない。

 拳をぶつけた瞬間に、全身が引き裂かれたみたいな錯覚に襲われる。

 不滅である古竜の魂。

 その強大な塊に、人間一人分の魂だけでぶつかってるんだ。

 太陽に生身で突撃してるのと、そう大差はない。

 

「……あり得ない、どういう事だ」

「人間の小娘如きにブン殴られてる状況が、そこまで不思議か?」

 

 今度は転ばず、けれどバランスを崩しかけたヘカーティア。

 睨みつけてくる眼を、逆にこっちも睨み返して。

 オレはまた拳を握り締め、間合いを詰める。

 

「僕は大真竜だ。

 それに人間如きの魂が触れて、無事で済むはずが……」

「そんなに不思議だったら、テメェも殴ってみろよ。

 グダグダ言ってたって喧嘩にゃならねェんだぞ、オイ」

 

 一方的に言葉をぶつけて、再びヘカーティアの前に立つ。

 生身の状態なら、恐らくこの時点で粉々に吹き飛んでるはずだ。

 いやそもそも、近づく事すらままならないだろう。

 見られただけで重圧に潰されそうだった、大真竜の眼光。

 今は何の重さも感じないソレを、オレは真っ向から受け止める。

 

「情けねェ面してんな、ヘカーティア。

 それは負け犬の顔だって自覚してるのか?」

「ッ――――!?」

 

 その言葉に、ヘカーティアの表情が動揺に揺れた。

 合わせて、今度は拳ではなく蹴りを叩き込む。

 本来は隔絶した力の差に、精神が痛みでガリガリと削られる。

 いいや、大丈夫だ。

 オレはまだまだ耐えられる。

 だから平気だと、そう歯を食いしばった。

 

「が……ッ……!?」

 

 みぞおち辺りを思い切り蹴飛ばされたヘカーティア。

 予想以上の衝撃を受けたらしく、今度は地面に膝をついた。

 大陸でも比肩する者なんて殆ど存在しない、大真竜の序列五位。

 そんな奴が、ただの人間の殴る蹴るでダメージを受けている。

 不可解極まりない構図の理由。

 ヘカーティアも、流石にそろそろ理解が及んできただろう。

 

「……僕が、負け犬だって……?」

「あぁ、そうだよ。鏡ねェのか此処。

 自分の顔すらロクに見てないから、こんな間抜けを晒してんだよ」

「言ってくれるじゃないか……!」

 

 ヘカーティアは笑う。

 笑って、膝をついていた状態から立ち上がる。

 自覚した事で、ちょっとぐらいは持ち直したか?

 オレは変わらず、ヘカーティアから目を逸らさない。

 

「……彼のせいか」

 

 ぽつりと、独り言のような呟き。

 

「そうだな」

 

 物理が無関係な、魂の世界とはいえ。

 オレなんかが大真竜をブン殴れるこの状況。

 その理由は、分かってしまえば単純な話だった。

 

「アイツを――機械のアカツキをぶっ壊した時点で。

 お前の心は折れたんだよ、ヘカーティア」

「…………」

 

 ヘカーティアは応えない。

 反論もせず、ただオレの言葉を受け止める。

 折れていた。

 どうあれ、ヘカーティアは愛した男をその手で壊してしまった。

 元より、狂ってひび割れだらけの心だ。

 どれだけ本来の恋人を模しただけだと、お互いに分かっていても。

 その愛が本物である事も、ヘカーティアは知っていた。

 知っていて、今度は自らの手でそれを砕いた。

 愛のための狂気で、その愛を失わせてしまった。

 大昔とは違って、今度は自らの意思で。

 その行いは本人が自覚しないまま、心の根元を折ってしまっていた。

 

「…………違う」

「違わねぇよ」

「違う、違う違う。僕は、折れてない。

 僕はまだ、彼を――アカツキを、諦めてなんか……!」

「諦めちゃいないだろうさ。お前にはもうそれしかないんだ。

 お前を愛した、もう一人の『本物の』アカツキ。

 ソイツを壊した時点で、もうそれしか無くなっちまったんだから」

「ッ――――!」

 

 自分の手で、バラバラに砕いてしまった愛。

 偽物だと、それは本物ではないと壊してしまった愛。

 それはもう二度と取り戻せない。

 かつて失った愛を取り戻すため、今差し伸べられた愛を壊したんだ。

 本当に、どうしようもなく馬鹿な女だ。

 ……そして、アイツの方もどうしようもなく馬鹿な男だよ。

 この結末を分かった上で、その愛を貫いた。

 壊れるのと引き換えに、アイツは自分のやるべき事をやったんだ。

 

「オラ、呆けてて良いのかよ!!」

「ッ!?」

 

 もう一度ブン殴る。

 が、それは咄嗟に構えた腕に当たって防がれる。

 流石にそうそう何度もまともに喰らってはくれないか。

 

「泣いてゴメンナサイするんだったら勘弁してやっても良いぞ!

 どうなんだよ、泣き虫女!!」

「ッ、誰が……!!」

「煽り耐性なさ過ぎんだろ!!」

 

 ムキになったところに、全力の前蹴りをぶち込む。

 これは直撃して、ヘカーティアは仰向けにスッ転んだ。

 すぐ頭に血が上るのも、割とアウローラの奴と似てるよな。

 本人に聞かれたらキレそうな事を考えながら。

 

「離せ、人間……!!」

「嫌なこったよ……!!」

 

 倒れたヘカーティアが立ち上がってしまう前に。

 オレはその上に馬乗りになってやった。

 喧嘩じゃこの体勢になったらほぼ勝ちと言っていい。

 ヘカーティアは即座に、とんでもない力で振り払おうとするが。

 

「ぐっ……!?」

 

 その前に、顔面を全力でブン殴る。

 力が緩んだので、オレは暴れないよう抑えつけた。

 物理的には絶対に勝てない力関係。

 だけど、今の状況には心の在り方が強く反映されていた。

 愛する者を自分の手で壊した事で、精神の根元が砕けたヘカーティア。

 兎に角この馬鹿女をブン殴って、生還するために暴れるオレ。

 どっちの方が強いかなんて明白だった。

 

「この、調子に乗るな……!」

「ぶっ」

 

 暴れるヘカーティア。

 その拳がオレの顔にモロで当たった。

 痛ェ。

 どんだけ圧し折れて弱化しててもドラゴンのパワーだ。

 首から上が吹っ飛んだみたいな衝撃に襲われる。

 が、耐える。耐えられる。

 オレの魂は折れてねェし、精神は諦めてもいない。

 ここは首が吹っ飛んだら死ぬ世界じゃない。

 だから大丈夫だ。

 

「やりやがったなオラ!!」

「ッ……!?」

 

 反撃に一発。いや二発。

 顔面にまた叩き込んだら、向こうも殴り返して来た。

 くそ、腰も入ってないパンチなのに痛すぎるだろ……!

 どんだけゴリラかと思ったが、そもそもコイツはドラゴンだった。

 パワー負けしないためにも、オレは頑張って気合いを入れる。

 

「いい加減にどけよ……!

 上に乗られてると胸が苦しいだろ……!」

「苦しくなるほど胸デカくねェだろ貧乳!!」

「言ったなお前……!?

 アカツキにもそんなこと言われた事ないんだぞ!!」

「男は揉める乳ならデカさなんて気にしねーよ!」

「彼がそんなこと思ってるワケないだろ!!」

 

 くそ、コイツだんだん元気になって来やがったな。

 でもマウントを振り払われるほどの馬力はない。

 状況が有利である内に、ひたすらに拳を振り下ろし続ける。

 自分が何発ブン殴ったのか。

 ヘカーティアに何発ブン殴られたのか。

 それも曖昧で、痛いのが顔かそれ以外なのかも分からないぐらい。

 オレたちは延々と殴り合った。

 

「クソ、顔ばっか狙うな……!」

「テメェだって顔しか狙ってねぇだろ!」

「っ……本当に何なんだよ、お前は……!!」

 

 泣きそうな声だった。

 痛くて泣いてるのか、悲しくて泣いてるのか。

 きっとヘカーティア自身も分かっていないんだろう。

 顔を腫らして泣く顔は、単なる子供にも見えて。

 

「どうしてだよ……!

 『彼』は本当のアカツキじゃないかもしれない……!

 それでも、僕は『彼』を愛していた! 愛していたんだ!

 けど、『彼』は僕から離れて行った……!

 僕の行いは間違っていると、それを止めなきゃならないって……!」

「…………」

 

 殴る直前で、拳を止める。

 ヘカーティアはもう暴れてはいなかった。

 オレに馬乗りにされた状態で、ただ力なく横たわっている。

 

「間違ってる事なんて、分かってる。分かってた!

 それでも僕にはアカツキしかいなかった!

 耐えられない、耐えられるワケがないだろ……!

 彼は、僕のせいで……ッ……」

「……そうだな。それに関しちゃ、『アイツ』は良くねェよ。

 お前を置いて行くんじゃなくて、お前の傍でそれを止めるべきだった。

 それだったら、こんな面倒事にはならなかったろうさ」

 

 置いて行かれるのは辛いもんだ。

 それは、多少なりとも分かるつもりだった。

 けど。

 

「お前も、

「…………」

「口では引き留めたろうし、行って欲しくなかったのも本音だろ。

 けど、お前は『アイツ』が離れてくのは止めなかったんじゃないか」

「それ、は……」

「止めりゃ良かったんだよ。

 今みたいに本音ブチ撒けて、なりふり構わず暴れて。

 そんで逃げようとする男をとっ捕まえて。

 愛してるでも何でも、全力でぶつけてやりゃ良かったんだ」

 

 最後の最後で、アイツ――「アカツキ」がした事。

 結局は同じ事なんだ。

 遅れた愛は届いて、大真竜の心を打ち負かした。

 この喧嘩の勝ち負けは、決してオレが拾ったものじゃない。

 

「……僕は……僕は、どうしたらいい……?」

「オレに聞くなよ。

 ……いや、まだやれる事はある。あるはずだ」

 

 そうでなきゃ、ここまでやった甲斐がない。

 とりあえず、ヘカーティアにはもう怒りも戦意もなかった。

 だから一先ず上から退いて、手を差し伸べる。

 

「そら、立てよ。

 一人で考えたって、どうせまたロクな結論にならねェんだ。

 だったら少しぐらいは、一緒に考えてやるよ」

「……君は」

「イーリスだって名乗ったろ。

 殴り合いの喧嘩までしたんだ、せめて名前で呼べよ」

「……そうか。そうだね。ありがとう、イーリス」

 

 ヘカーティアは、初めてオレの名を口にした。

 オレの手を、細い指が握り返す。

 

「……殴り合いの喧嘩なんて、初めてだよ。

 兄弟や姉妹――アカツキ相手にも、した事はなかったな。

 やると死んじゃいそうだったから」

「オレも竜相手に殴り合いとか初めてだね。

 つーか、勝手な男は殺す気ぐらいでブン殴って良いと思うぞ。

 変なところで思い切りが良いのに、そこでブレーキかけるなよ」

「悪かったね、馬鹿な女で」

 

 苦笑いを浮かべるヘカーティア。

 と――繋いだ手から、何かが流れ込んでくる。

 慣れ親しんだこの感覚は……。

 

「返すよ、元は君の持ち物だ」

「……良いのか?」

「良いか悪いかは、僕にも分からない。

 ……けど、そうだね。これで良いんだと思う」

 

 空いたもう片方の手。

 その手の中にあるのは、微かな稲妻の煌めき。

 壊れて砕けてしまった男の、消える事のない愛の光。

 それをヘカーティアは自分の胸に抱き締めた。

 

「もう、どうして良いのかなんて分からない。

 正しい事も、間違っている事も、頭の中でグチャグチャだ。

 君が何度も殴ったせいだぞ、イーリス」

「それは謝る気はねぇからな。

 だから、一緒に考えてやるって言ってるだろ?」

 

 その言葉に、ヘカーティアは小さく笑う。

 少し晴れ晴れとした、童女めいた微笑みで。

 

「……あぁ、ありがとう。

 そうして貰えると、嬉しいよ」

「……ん」

 

 ここまで完全に勢い任せだったが。

 とりあえず、何とか良い具合に話が済みそうだ――と。

 そう考えていたオレの目に、「ソレ」が見えた。

 ヘカーティアの背後。

 最初に彼女が現れた時に、その怒りで引き裂かれた空間。

 闇と星だけが覗く世界で蠢く、灰色の影。

 

『――ありがとう、君のおかげだよ。イーリス』

 

 身を潜めていたその糞野郎は。

 オレに対して心底感謝した声でほざきやがった。

 

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