幕間3:祈り、待つ
嵐は止む気配を見せない。
むしろその強さを増すばかりだ。
大陸の全てを、吹き荒れる雨と風とが呑み込んでいく。
空を塞ぐ暗雲には、無数の稲妻の蛇がうねっている。
この世の終わりの如き光景。
事実として、このまま放っておけば大陸が滅ぶ可能性は十分にある。
それを一人の男が見ていた。
「……さて、連中は上手くやっているのやら」
ウィリアムだ。
嵐での戦いに振り落とされたエルフの男。
彼は今、何もない荒野のど真ん中に放り出されていた。
視線は轟々と唸る嵐の方に向けたまま。
ただその場でじっと佇んでいる。
「ご主人様はどう思う?」
「……今集中してるんだけど」
皮肉げに笑いながら。
この場にいるもう一人に、ウィリアムは問いを投げた。
雨で全身をずぶ濡れにした白い鍛冶師の娘。
ブリーデはやや不機嫌そうな声で応じる。
そんな唸り声に対しても、男は愉快そうに笑うだけ。
「他の大真竜連中に助けを求めないのか?」
「ダメよ。もしその気があるなら、アイツらはとっくに動いてる」
荒れた風が激しく泣き叫ぶ。
その中での会話となると非常に聞き取りづらいが。
構わず交わされる言葉の合間に、硬い金属音も重なる。
規則正しく、力強く。
その音はブリーデの手元から響いていた。
「上位の大真竜同士が本気で争ったら、それだけで大陸が滅ぶわ。
そう判断して静観する事を選んだんでしょうね」
「ふん。現在の大陸秩序を担う《大竜盟約》が聞いて呆れるるな」
「まぁ、アンタはそう言うでしょうね」
僅かに怒りを滲ませるウィリアム。
それにブリーデは、少しだけだが申し訳なさそうに応じた。
今回に限ってはウィリアムの言い分が正しい。
かつて《黒》が引き起こした古竜の暴走。
暴れ狂う竜たちを鎮め、大陸文明の継続と維持のために盟約は成立した。
どれほど歪んでいて、真竜たちによる暴政が敷かれていようと。
人間が荒野で野垂れ死んでいくよりはマシと、ブリーデも割り切っていた。
しかし、その最低限の生存という前提すら崩れようとしている。
ブリーデには、ウィリアムの怒りが理解できた。
「だから私は、このまま手を出し続けるつもり。
アンタもそれは了承したでしょう?」
「あぁ。すまんな、単なる愚痴だ。
……しかし、その作業は間に合いそうなのか?」
「間に合わせるわ」
ウィリアムの確認に対し、ブリーデは即答で頷いた。
荒れる風も、激しく振り続ける雨も。
それらをものともせずに真っ赤な炎が燃え上がる。
ブリーデの前で揺れる赤い輝き。
それは「炉」だった。
魔法によって用意された鋼を鍛える炎の炉。
白い手を躊躇なく炎の中へと突っ込み、そこに鎚を振り下ろす。
硬い金属音は、轟々と唸る風を切り裂くように響く。
何もない荒野のど真ん中は、今やブリーデの鍛冶場となっていた。
「鍛冶は私の領分。
アンタは口出しせずに、大人しく見張りをしてて頂戴」
「あぁ、仰せの侭に」
「…………」
「? どうした、まだ何かあるのか」
「いえ……」
鍛冶の手は止めず、ブリーデはウィリアムを見ていた。
その視線にエルフの男は首を傾げる。
問われて、鍛冶師は珍しく言い淀んだ。
ほんの僅かな沈黙を挟んで。
「……アンタこそ。良かったの? コレ」
そう言って、彼女が示したもの。
それは今まさに、炎の中で鎚に打たれている最中の鋼だった。
見渡す限り何もなく、嵐に呑まれるだけの荒野。
当然、鍛冶に使えるような鋼なんて何処を探しても見当たらない。
であれば、ブリーデの手にある鋼は何か。
ウィリアムは笑って応じる。
「問題ない。今の俺にはこちらの剣があるからな」
「別にそれはアンタに上げたワケじゃないわよ……!?」
掲げ持ってみせた大剣。
常に月の淡い輝きを宿す至上の一振り。
ブリーデの《竜体》の源である最初の“森の王”の魂。
何故か我が物のように手にするウィリアムに、ブリーデは思わずツッコんだ。
「王は俺を一時の所有者とは認めている。
あくまでお前と同行し、その身を守る間はだがな」
「それは――言われるまでもなく、分かってるけど」
結局、戦いには向いていない。
だから剣は、それが出来る者に預けるべきだと。
古い戦友であった男は、きっとそんな風に言っているだろう。
容易に想像できる言葉に、ブリーデはそっとため息を吐く。
合意が取れているのならもう仕方がない。
向いていないと言われたら、ブリーデに反論の余地はなかった。
「……けど、それとこれとは別じゃないの?」
「別だな。だが、武器は所詮武器だ。
例えそれが先祖から受け継いできた守り刀であってもな」
ウィリアムは笑っていた。
遠い昔、白い蛇たるブリーデから先祖に送られた《月鱗》の太刀。
愛用していた白刃は、今それを鍛えた鍛冶師の手で形を変えつつあった。
何故、そんな事をしているのか。
「今さら聞く事でもあるまい。
地上に振り落とされた俺たちが、あの戦場に横槍を入れる。
そのために必要な事なんだろう?」
「……そうね。その通りだわ」
ため息を一つ。
感傷的になっていたのは自分だけだったと、ブリーデは少し反省した。
どれほど思い入れがあろうと、道具は道具。
道具は役に立てなければ意味がない。
使う側のウィリアムはそう完全に割り切っていた。
だからブリーデも、作業を進める手は決して緩めない。
「まぁ、問題はやはりお前が間に合うか否かだな」
「さっきも言ったと思うけど、間に合わせるわよ。
私が何年鍛冶をやってると思ってるの」
「人類種から見た大陸史より遥かに長いだろうからな。
考えてみれば恐ろしい話だ」
不死不滅。
どれほど脆弱で、古竜であらざるとも。
ブリーデは悠久の時を生きる白き蛇。
鍛冶においてはこの大陸で彼女に並ぶ――どころか、影を踏める者さえいない。
そんな唯一無二の鍛冶師の手で、守り刀は新たな形を得ようとしている。
間に合う、間に合わせる――だが。
「……私以外がどうか、ってところね」
軽い口調だが、そこには焦りが混じっていた。
「……嵐が弱まる気配はないな」
「急激に強くなる、って事もないのよね」
「あぁ。恐らく、戦いは続いているはずだ」
見る。
肉眼では当然確認できない。
分厚い黒雲の向こう。
巨大な鋼の翼を広げているだろう大真竜。
“嵐の王”と、それに挑んだ者たち。
戦いはまだ続いているのだと、ウィリアムは確信していた。
「……あの男が。
俺にさえ勝ったあの竜殺しが、この程度で折れるものかよ」
根拠はそれだけで十分過ぎた。
ゆえにウィリアムも決して諦める事はしない。
最後に勝つのは自分であると、その自負は揺るがないのだから。
「また悪い顔してるわよ、アンタ」
「失礼だな。元からこういう顔なんだが」
「でしょうね」
ため息混じりに言いながら、鎚を振るい続ける。
焦りはある。
けれどその焦燥が手元に現れぬよう、細心の注意を払う。
作業は最速で進めるが、急ぎ過ぎては仕損じる。
一つ一つ、確実に。
ブリーデは刃に新たな役目を与えつつあった。
「ウィリアム、準備をしておいて。
もう少しすれば完成する」
「あぁ。――《月鱗》から鍛えた矢か。
弓手として、それを弦に番えて引けるとは。
これほどの名誉は他にないだろう」
「煽てたって何も出ないわよ、まったく」
世辞ではなく本音なんだがな、とウィリアムは笑った。
口では卑屈に言いながらも、自らの仕事には絶対的な自負がある。
ブリーデの振るう鎚に更なる力が籠められる。
「けど、用意できるのはこれ一本だけ。
目には見えない、遥か嵐の向こうにいる標的。
そんなのをホントに狙えるんでしょうね?」
「さて、そればかりはやってみなければな」
「ちょっと、ぶっつけ本番でダメでしたは止めてよ」
唸る主人に、ウィリアムは皮肉げな笑みを見せる。
視線を向けたとしても、ヘカーティアの姿は空の何処にも見えない。
どれだけ巨大な《竜体》でも、天を覆う嵐と比べれば芥子粒だ。
距離は遥か彼方、遮るのは大陸を呑み込む風雨と雷雲。
当たるワケがない。
そんな状態で矢を撃って狙うなど、あり得ない話だった。
けれど。
「当てる」
ただ一言。
たった三文字の言葉。
そこに宿るのもまた、絶対的な自信だった。
最後に勝つのが己ならば、放つ矢が外れるはずもない。
あり得ない事はあり得ないと。
ウィリアムは全身全霊でそう語っていた。
その空気に、ブリーデは思わず息を呑んだ。
「……まぁ、やって貰わなきゃ困るしね。
今の作業が全部無駄になるんだから」
「大船とまでは言わんが、泥船でない程度は保証しよう」
「大船って表現じゃ謙虚過ぎるとか、そう思ってるんでしょう。アンタ」
「良く分かっているじゃないか」
笑うウィリアムに、ブリーデは軽く鼻を鳴らした。
嵐が収まる気配はない。
勢いは増していても、そのペースは緩やかだ。
破滅の時は、間違いなく迫っている。
けれどその瞬間に届くまでは、まだ暫しの時間があった。
――戦っているのだろうな、お前たちは。
「急いでくれよ、ご主人様。
向こうが踏ん張っているのに、此方が間に合わんでは話にならん」
「だからこっちは間に合わせるって言ってるでしょ……!」
感情的に叫んでも、手元に一切狂いはない。
そこは流石に伝説の鍛冶師だ。
ウィリアムはただ来るべき時を待つ。
間に合う、それについては心配はしていない。
懸念すべき事は一つだけ。
「……嵐は止まず。
それを引き起こす“嵐の王”も、あの巨体だ」
現時点でも嵐による被害は出ているはず。
それは時間が経つほどに増えていく。
そしてもう一つ、ヘカーティア自身の《竜体》だ。
かつてのヴリトラの《竜体》ほどでないにしろ、アレも十分以上に大きい。
仮にこれを撃破し、地上へ落下したらどうなるか。
無視するには余りに問題が大きい。
ウィリアムの森に影響がないと、完全には言い切れないのだから。
「こればかりは、祈る他ないか」
呟く。
神様でも竜王でもない身では、打てる手には限りがある。
故にウィリアムは、ただその時が訪れるのを待つ。
吹き荒ぶ嵐の向こう側。
眼では決して見えないはずの鋼の竜。
風と雨、暗雲の内側を無秩序に跳ね回る稲妻。
あらゆる条件を頭の中で整えて行く。
いつでもその矢を撃ち放てるよう。
ウィリアムはただ狙いを定め、その時が訪れるのを待ち続けた。
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