297話:嵐と水と猫


 ――状況は順調に進んでいた。

 嵐の中心に身を置きながら、コッペリア……いや、ヘカーティアは笑う。

 魔力を帯びた雲は大陸の七割以上を覆いつつある。

 吹き荒ぶ風と荒れ狂う雷。

 激しさを増すそれらを通じて、大真竜の意識は無数の輝きを捉えていた。

 イーリスと呼ばれる少女が宿していた《奇跡》。

 電子を操り、あらゆる機械を自らの意思で自由に操る異能。

 奪ったばかりの力を使うことに、ヘカーティアはまだ不慣れだった。

 故にこそ慎重に事を進めて行く。

 

『……もうすぐだよ、アカツキ』

 

 嵐の音に乗せるように、小さく呟く。

 もうすぐ。そう、もうすぐだ。

 自分だけでは不可能だった。

 どれほど高度な演算装置を用いようと困難だった。

 壊れて、砕けて。

 欠けてしまった愛しい人の魂を復元する。

 それはピースのない真っ白なパズルを完成させるに等しい。

 神ならぬ身では、本来ならどうあっても不可能な事。

 それを実現するために、ヘカーティアは大陸の隅々にまでその意識を伸ばす。

 

『もうすぐ、本当の君に会える』

 

 胸の奥から湧き上がる、止めどない愛。

 その衝動に身を任せ、ヘカーティアは状況を進行していく。

 大真竜の魂が持つ膨大な魔力。

 それにより増幅・強化された電脳の《奇跡》。

 ヘカーティアは、今や大陸全土に存在する都市の半分以上と接続しつつあった。

 都市の運営を円滑に進めるために置かれた演算装置。

 それらを纏めて掌握し、その計算能力の全てを一つに束ねる。

 強制的に構築された「神の頭脳」は、不可能さえも可能にするだろう。

 そのために、都市の多くはその機能を失う事になる。

 閉鎖型都市が大半である以上、それは極めて致命的な事態だった。

 箱庭の中でどれだけの人間が死ぬのか。

 当然ヘカーティアは理解していた。

 理解した上で、止めるつもりはまるでなかった。

 何をどれだけ犠牲にしても、彼女にとってその愛だけが全て。

 

『……今さら、何をしに来たんだい?』

 

 嵐の中に、古く馴染んだ気配を感じ取っても。

 大真竜は一切の動揺を見せなかった。

 むしろ邪魔された事への怒りで、吹き荒ぶ風が強さを増す。

 相手もまた、それで怯んだりはしなかった。

 

『貴女を止めに来たのよ、ヘカーティア』

『本気で言ってるのなら正気を疑うね、マレウス』

 

 強い決意と覚悟の込められた言葉。

 風雨を切り裂いて現れたのは、青い水晶の鱗を持つ古竜。

 美しくも力強いその姿を、ヘカーティアは覚えていた。

 《古き王》が一柱、《水底の貴婦人オンディーヌ》マレウス。

 彼女も良く知る古い姉妹の一人。

 ……マレウスが長らく続く狂気から解放された事。

 それをヘカーティアは知っていた。

 姉妹の救いに喜びさえ感じるが、今はまったく別問題だ。

 

『君が? 僕を止める?

 不可能だよ、分かってるだろう聡明なマレウス。

 君は戦いが不得手で、力も兄弟姉妹の中では下から数えた方が早い』

『ええ。逆に貴女は《最強最古》に次ぐ《五大》の一柱。

 大陸を呑み込むことさえ容易い“嵐の王”。

 やる前から結果は見えてる』

『なら――』

『……それでもやるらしいぜ。いや、オレも馬鹿だと思うけどな』

 

 もう一つの声が、マレウスの背中から聞こえて来た。

 それに対し、ヘカーティアは僅かに訝しむ。

 

『いたのかい、ヴリトラ』

『どいつもこいつも猫の扱いが厳しくない??

 いや、ふっ飛ばされたところを偶々マレウスに拾われたんだけどな』

『猫の手も借りたいっていう言葉もあるでしょう?

 折角だから手伝って貰う事にしたのよ』

『愚か過ぎて笑ってしまうよ』

 

 本当に。

 勝ち目なんて毛筋ほどにも存在しない戦いだ。

 いや、そもそも戦いになり得るのか。

 空間を支配し、全てを嵐で呑み込むヘカーティアの魔力。

 こうして相対しているだけでも、その圧力でマレウスの鱗は軋んでいる。

 ――ヘカーティアがその気になった瞬間。

 マレウスのささやかな《竜体》は一瞬で圧壊する。

 悲しいほどに隔絶した、それが両者の力関係だった。

 

『退きなよ、マレウス。一度しか言わない』

『それに大人しく従うのなら、私は此処にはいないわ。ヘカーティア』

『オレは出来れば帰りたいけどな』

 

 正直者の猫は兎も角。

 当たり前のようにマレウスの意思は強い。

 分かり切っていた問答に、ヘカーティアはそっと吐息を漏らした。

 古竜の魂は不死不滅。

 多少器が砕けたとても、本当に死ぬワケではない。

 だから、遠慮も容赦も一切必要なかった。

 

『残念だよ、マレウス。

 僕は優しい君の事が、とても好きだったのに』

 

 一時の別れに対する、それをはなむけの言葉に。

 《奇跡》の操作に割いていた意識の一部を、マレウスへと向ける。

 全方位から押し寄せる凝縮された嵐。

 巨大な稲妻が空間を切り裂き、マレウス目掛けて真っ直ぐに落ちる。

 《最強最古》の長子たちにぶつけたものと同等の威力。

 まともに喰らえば《竜体》であろうと砕け散る。

 ――そのはずだった。

 

『……何?』

 

 風と雷の向こう。

 砕けるはずだったマレウスの《竜体》。

 しかしそれが無事なまま、未だに嵐の中を飛んでいる。

 何故、という疑問を浮かべるヘカーティアをマレウスは笑う。

 

『無謀な挑戦なのは百も承知よ、ヘカーティア!

 だからこっちも、出来る限りの備えはして来たのよ……!』

 

 マレウスの周りで、何かが蠢いている。

 それは「水」だった。

 恐らくは海から運んできたと思われる、莫大な量の海水。

 その異名が示す通り、マレウスは水と親しむ竜だ。

 力の規模こそ劣っているが、水を操る能力には長けている。

 成る程、足りない力を膨大な水の質量で補う。

 それ自体は理解できる。

 だが、その程度の小細工で埋まる力の差では……。

 

『……そうか、お前か。ヴリトラ』

『ホントはこんな無茶したくはないけどなぁ!』

 

 半ば悲鳴に近い猫の声。

 ヴリトラは未だにその実体は猫の姿のままだが。

 マレウスの操る巨大な水の塊に対しても、自身の魂の一部を分け与えていた。

 元々、ヴリトラは巨大な質量を《竜体》として動かす事を得意とする。

 《古き王》でも、《竜体》として維持できる最大質量を持つのがヴリトラだった。

 その適性を生かし、マレウスが操る水を疑似的な《竜体》としていた。

 

『ありがとう、ヴリトラ。

 私だけだったら、多分最初の一発で殆ど死んでたでしょうね!』

『まぁ次の一発で死なない保証がないんだけどな!』

 

 竜王二柱分の力は、絶望的な格差の一部を埋めていた。

 しかし、それはあくまで「一部」に過ぎない。

 本調子ではないヴリトラと。

 かつての在り方に戻ったがゆえに、比較的に弱い竜王でしかないマレウス。

 《五大》の一柱にして《大竜盟約》の序列五位。

 大真竜であるヘカーティアと比べれば、その差は未だに大きかった。

 

『誰も彼も、本当に邪魔ばかりだな』

 

 微かな怒りを込めて、ヘカーティアは身に纏う嵐の一部を動かす。

 アカツキの魂を復元する事。

 それは極めて繊細で、一切の失敗を許されない精密作業だ。

 可能なら全能力を《奇跡》の操作に注ぎ込みたい。

 《竜体》内部に入り込んだ連中も、自らの《爪》に任せているほどだ。

 しかし目の前の二柱は、完全に無視するには流石に厄介だった。

 それを認め、大真竜は青い竜を睨みつける。

 

『退けよ、マレウス』

『警告は一度だけじゃなかったの? 優しいヘカーティア』

 

 いっそ穏やかな声で《水底の貴婦人》は笑う。

 このまま戦えば自分が砕かれることなど百も承知で、決して退く気はない。

 選択肢など、最初から一つしかなかった。

 

『……優しい。優しいだって?

 面白い冗談を言うじゃないか、マレウス!』

『冗談なんかじゃないけど、今の貴女には通じないでしょうね!』

 

 水と嵐。

 両者の力が真っ向から激突する。

 それは言葉通りの天変地異だった。

 

『死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ!!』

 

 マレウスの背に爪を立てながら、ヴリトラは半ば本気の悲鳴を上げる。

 疑似的な《竜体》と化している大量の水。

 それが二度の激突だけで、三割近くが吹き飛ばされてしまった。

 あと何度、これを耐える事ができるのか。

 

『散った水は出来る限り集め直すから! 何とか頑張って!』

『もうマジですっげェ頑張ってるんだけどなぁオレ!』

『貴方だったらまだまだ出来るわ! ほら、私も頑張るからね!?』

『くそっ、言葉は優しいのに要求の度合いが長兄殿と変わらねぇ……!!』

 

 ぎゃあぎゃあと喚く兄弟姉妹。

 不動のままでヘカーティアはそれを眺める。

 全力で戦ったのなら、二柱を諸共砕くのはそう難しくはない。

 しかし大事な作業を進めている大真竜は、その場から下手には動けなかった。

 大陸の都市とを繋げる《奇跡》によるネットワーク。

 それを維持した状態で使えるのは力の一部だけ。

 それすらも絶望的な威力を伴う嵐だが――。

 

『ほら、来た来た!!』

『どいつもこいつも容赦ねェなぁチクショウ!!』

 

 三度目の激突。

 棍棒でも振り回すノリで、ヘカーティアは嵐の塊を叩きつけていく。

 マレウスの纏う水は、その一部が大きく消し飛んだ。

 ――また耐えられた。

 ただ漠然と水を纏っているのではなく。

 恐らく直撃の瞬間に、嵐と接触する面だけを分厚くしたのだ。

 小細工ではあるが、それは確実にマレウスたちを延命している。

 彼女らの相手をする限り、どうしたって作業の手を緩める他なかった。

 

『鬱陶しいな……!!』

 

 思わず怒りを言葉として吐き出しながら。

 更に激しく風を吹かせ、雷を雨の如くに降り注がせる。

 

『こんな時間稼ぎに何の意味がある!?

 君らは確かに邪魔ではあるけど、言ってしまえばそれだけだ!

 僕は僕のなすべき事を止めてはいない!

 無駄なことをしてるとは思わないか!?』

『そういう貴女は、自分の行いを無駄だと思っているの?』

『なっ――……!』

 

 心臓を抉るようなマレウスの一言。

 それに絶句したヘカーティアに、水底の魔女は続ける。

 

『貴女が覚悟を決めてしまった事ぐらいは、私にも分かってる。

 そのためなら、どれだけの犠牲が出ても構わないと思ってる事も。

 ――私は、貴女の愛は否定しない。

 だけど私は私の愛のために、貴女の行いは許容できない』

 

 強い言葉だった。

 迷いのない意思が其処にあった。

 マレウスは弱い。

 けど、彼女の心の強さをヘカーティアは感じずにはいられなかった。

 その背中で、猫は弱々しく呻く。

 

『ホントもう、いい加減頭を冷やせって話だよ。

 優しいヘカーティア、真面目馬鹿なヘカーティア!

 オレらは単なる時間稼ぎに過ぎないだろうが。

 そのちょっとの時間さえ稼げば、後は何とかしてくれるだろうさ』

 

 誰が、とは言う必要もないよなと。

 ヴリトラは意地悪そうな声で笑った。

 ――全ての竜の長子にして、《最強最古》の竜王。

 今はかつての力を失いながらも、最も望む愛を手に入れた相手。

 《竜体》の内側に入り込んだ、一番忌々しい邪魔者。

 

『ッ……戯言を……!!』

『私だけで言ったのなら、戯言かもしれないわね。

 けど、貴女を止めたいのは私だけじゃない。

 それをすぐに思い知る事になるわ、愛しいヘカーティア』

 

 古い姉妹に向けた、偽らざる愛。

 狂気の枷から解き放たれたマレウスに迷いはなかった。

 時間さえ稼げば何とかなる。

 マレウスはヴリトラの言葉も信じていた。

 

『だから、今は暫く私と遊びましょうか。

 大昔のことでも語り合いながら、ね――!!』

 

 防戦に努めるのではなく、自ら水を操って仕掛ける。

 猫の悲鳴を尾と引きながら、マレウスは絶望の嵐へと挑んだ。

 戯れのような戦いは、少しではあるが確実に。

 嵐が大陸を呑み込む破滅への時間を先延ばしにしていた。

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