幕間2:落下する自由

 

 落ちる。

 落ち続ける。

 その事実を客観視しながら。

 

『つれぇ』

 

 猫――ヴリトラは呻くように鳴き声を漏らした。

 ただ落下し続けているというよりは、風に流され続けている。

 ヘカーティアの嵐は、今や大陸の空を覆い尽くそうとしている。

 その激しい風雨に巻き込まれる形で。

 軽い猫の身体は、まるで木の葉のように飛ばされていた。

 

『誰も庇ってくれないんだもんなー。

 いやまぁ、ちょっと落ちたぐらいなら平気だけどもさ』

 

 聞く相手もいない愚痴は、風の音にかき消される。

 雨は激しく打ち付け、稲妻が雲の中を駆け巡っている。

 ……これでもまだ弱い方だ。

 拡大を続ける嵐を見ながら、ヴリトラは思う。

 このまま勢いを増せば、ヘカーティアの嵐は大陸を押し流してしまう。

 一体、何のためにそんな事をする気なのか。

 理解できず、ヴリトラは大きく息を吐き出した。

 

『ホントまぁ、どいつもこいつも……』

 

 理解し難い――とまでは言わない。

 けれど思い込むと見境がない兄弟姉妹には困ったものだ。

 なまじ力が強大な分だけ手に負えない。

 

『これ言ったらどっちもキレるんだろうけど。

 ヘカーティアも長兄殿もそっくりだぜ、まったく』

 

 昔っから特に仲が悪かった二柱。

 アレは同属嫌悪だったんだなと、猫は今さらのように結論づける。

 

『…………昔、か』

 

 呟く。

 吹く風に運ばれる形で、ヴリトラはまた横に流される。

 随分と落ちてるはずだが、嵐が強すぎてなかなか地面に下ろしてくれない。

 抗うのも面倒だと身を任せているので、猫は気にしないが。

 気にせず、吹き飛ばされながら在りし日を思う。

 

『昔は良かった――なんて、言うつもりはないけどなぁ』

 

 別に、良かったというワケではない。

 いや今よりは眠れていたので、そういう意味では良かったか?

 睡眠の誘惑を感じ取り、ヴリトラは小さく欠伸をした。

 ……そう。

 かつてのヴリトラは、兄弟姉妹の無為な争いに関わる気はなかった。

 不死不滅の古竜。

 《古き王》たちは死なないからこそ加減を知らない。

 偉大なる《造物主》が消え去った後、動き出した彼らは争う事が多かった。

 ヴリトラは、それに巻き込まれる前に大陸の一部を引き剥がした。

 それで誰よりも巨大な《竜体》を形成すると、空の上へと逃げたのだ。

 面倒な諍いに関わるよりも、誰にも邪魔されずに眠っていたい。

 その時は、単純にそう考えていた。

 けれど。

 

『……嫌だったのかね、オレは』

 

 呟く言葉は、自分自身に向けて。

 何もする必要はなく、眠るように完全に満たされていた頃。

 ヴリトラは別に《造物主》に特別な感情を持っていたワケではなかった。

 ただ、自らを創造した「父」だという認識はあった。

 そんな父に、どれほど呼びかけられても。

 ヴリトラは「満たされた状態」を崩してまで動く必要性が分からなかった。

 「完璧な生命」を求められ、実際にその通りに在るというのに。

 どうしてそれを損なってまで動かなければならないのか。

 

『そんで何もしないまま親父殿が自殺して。

 それで諸々おかしくなったから、誰も彼もが動き出した。

 ……都合の良い話だよな、ホント』

 

 自嘲の笑みもまた、嵐の音にさらわれる。

 頑張れば、風の流れに逆らって浮遊する事も不可能ではない。

 けど、今のヴリトラにそれをする意義は見当たらなかった。

 狂ってしまったヘカーティア。

 不完全のまま永遠を生きる現実に嘆き、無意味と知りながら死にたがっていた。

 そして今は、失われた恋人を取り戻すために狂気に身を委ねている。

 余りにも愚かで、それ以上に哀れな姉妹。

 

『ホント、都合の良い話だわ』

 

 死にたがっていた頃のヘカーティアを、ヴリトラは知っている。

 嵐の巻き添えを喰らわないよう、より高い空に逃げた事を覚えている。

 ヴリトラは兎に角眠っていたかった。

 「父」の死をきっかけに動き出した兄弟姉妹。

 完全性を失い、何処か歪んでしまった彼ら。

 出来ればそれを見ていたくないから、眠る事で逃避していたのか。

 ありもしない天秤に狂った竜。

 届かない恋心を、自覚することなく胸に抱き続けた竜。

 人という種を愛するために全てを犠牲にした竜。

 ……誰も彼も。

 本来の竜の在り方からは、大きく外れてしまった。

 それは恐らく、ヴリトラ自身も。

 

『……今さら、助けようなんてな』

 

 狂ってしまったヘカーティアを阻む。

 半ば手遅れに近い彼女を。

 恋人の残滓であるアカツキがそうするのは、間違いなく正しい事だ。

 けど、ヴリトラはどうだろうか。

 殆ど流れで手を貸していたが。

 嵐に運ばれながら、猫は改めて省みる。

 

『親父殿の時は何もしなかったのに、今さらどうする気なんだ?』

 

 あの時は何もしなかった。

 それを悔いているから、その代替としてヘカーティアに手を差し伸べようと?

 だとしたら、酷い偽善だとヴリトラは笑う。

 もし、本当にそうであるとしたら。

 自分は何故、石木に呼びかける「父」の声に応えてやらなかったのか。

 そうする必要が分からないと、その言葉を無視して。

 機会が永久に失われるまで眠っていた。

 

『今そうするなら、何であの時そうしなかったんだって話だよなぁ』

 

 呟く。

 聞く者は誰もいない、それは懺悔に近い言葉だった。

 嵐の音に紛れてしまい、猫の鳴き声ほども響くことはない。

 轟々と、風は喧しく唸っている。

 

『……ま、もう良いか』

 

 ほうっと息を吐く。

 アレコレ考えたところで仕方ないと、ヴリトラは結論づける。

 ヘカーティアの《竜体》がいる嵐の中心からは、随分と離されてしまった。

 近付くほどに強まる暴風圏。

 流石に《竜体》でもないのに、それに抗って飛ぶのは困難だ。

 そこまでする意味も、必要性も感じない。

 長兄殿たちが未だに頑張っているなら、もうそれで良いじゃないかと。

 ヴリトラはそう考えて、風の上で身を丸くした。

 上下が定まらないのは落ち着かないが、それは仕方ないと割り切る。

 

『いい加減に寝ても良いよなぁ』

 

 怠け者の割に、ここまで随分と頑張った気がする。

 長兄殿の無茶ぶりとか、長兄殿の無茶ぶりとか、あと長兄殿の無茶ぶりとか。

 大体同じ相手からの無茶ぶりなのは、今も昔も変わらない。

 笑ってしまったのは呆れからか、ヴリトラ自身にも分からなかった。

 分からず、分からないまま目を閉じる。

 ――眠ろう。自分はそれで良い。

 自己嫌悪も苦悩も、どこまで行ってもどうしようもない。

 どうしようもないなら、眠るのが一番だとヴリトラは思う。

 さっさと地面につけば良いのに、嵐はなかなか下ろしてはくれない。

 このまま海まで運ばれやしないかと、そう考えて。

 

『……それならそれで別に良いか』

 

 荒れた海に落ちたとしても。

 永遠不滅である古竜には、特に大きな問題はない。

 猫ボディが浮くのか沈むのか、それだけが未知数だった。

 海面を揺蕩い続けるのも、果てしない海の底へ沈んで行くのも。

 どちらもヴリトラにとっては等価値だ。

 故に気にすることなく、眠りに我が身を委ねようとする。

 委ねようとして――どうにも寝付けない。

 風の音がうるさいからだろうかと、ヴリトラは低く唸った。

 

『安眠の妨害は止めて欲しいよなぁ。

 ……昔は長兄殿にやられてたが、今回はヘカーティアだもんな。

 やっぱりそっくりだよ、アンタら』

 

 目を閉じたままで、ため息を一つ。

 正直、眠れる気はしなかった。

 眠れる気はしないが、もうこのまま寝てしまおう。

 すっかり安眠の仕方を忘れてしまったが。

 眠って、意識を深く沈めて。

 嵐が通り過ぎるのを待つのが、ヴリトラという古竜だったはずだ。

 そう思っても、風の音は轟々と喧しい。

 酷い安眠妨害だと、猫は毒吐きたい気持ちでいっぱいだった。

 独り言を聞く者なんて、この嵐にはいない。

 だから黙り込んで、どうにか寝てしまおうと――。

 

『――随分、面白い拾い物をしてしまったみたいね』

『………………うん??』

 

 無理やりにでも意識を眠りの中に沈めようとして。

 けれどヴリトラは、その聞き覚えのある声に目を開けざるを得なかった。

 随分と――それこそ、数千年ぶりぐらいに聞く声だった。

 見れば、猫はもう嵐に飛ばされてはいなかった。

 代わりに大きな「何か」の上に乗っていて、落下もしていない。

 その「何か」とは、竜だった。

 薄く半透明な羽根を広げた、青白い水晶の鱗を持つ竜。

 

『……まさか、マレウスか!?』

『やっぱり、貴方ヴリトラね。

 猫が丸まって風で飛ばされてるとか、最初は何事かと思ったけど』

 

 クスクスと、青い竜――マレウスは笑みをこぼす。

 

『お前、なんでここに?』

『それは私の台詞だと思うんだけどね?』

 

 マレウスからすれば、嵐を飛んでいたら何故か猫が飛んできた状況。

 それが古い兄弟であるヴリトラの現在だとか、ちょっと理解を超えている。

 言われてみればそうだなと、竜の背でヴリトラは頷く。

 

『話せば長くなるんだが、大体長兄殿に捕まって今は見捨てられたとこだわ』

『私の方も、話そうと思うと少し長くなるから省くけど。

 ……それは多分、本気で見捨てたワケじゃないと思うの。ウン、きっと』

『語弊がある事は否定しないわ』

 

 笑うマレウスに、ヴリトラも釣られて少し笑ってしまった。

 まさか会えるとは思っていなかった古馴染み。

 《竜体》となったマレウスは、嵐に逆らい力強く空を舞う。

 向かう先が何処なのかは考えるまでもない。

 

『……なぁ、マレウスよ』

『あら、何?』

『この先にいるのはヘカーティアだぞ』

『知ってる。こんな嵐を出せるのは彼女ぐらいでしょうし。

 雨や風に乗って、嫌っていうぐらい魔力の質も伝わって来るから』

『だったら――』

 

 行ってどうするのか、と。

 ヴリトラはそう問おうとした。

 けれどそれよりも早く、マレウスは答えを返した。

 

『姉さんも――アウローラも、戦っているんでしょう?』

 

 姉さんと。

 マレウスが《最強最古》をそんな風に呼ぶのは、ヴリトラも初めて聞いた。

 同時に、そう言われた相手がどんな顔をするのか。

 想像するとなかなか愉快な気持ちになった。

 困惑の表情が目に浮かぶようで。

 

『私は、今の私が守りたい場所を守る事を選んだ。

 あの人と一緒に行きたかったけど、私は自分の意思でそれを選んだわ。

 ……けど、この嵐を放っておけばその場所も壊れてしまう。

 だから、私は来たの。

 姉さんが戦っているのなら、なおさら傍観なんてしてられないから』

『…………』

 

 その言葉に込められた、強い意思。

 《古き王》とはいえ、マレウスの力は下から数えた方が早い。

 《五大》であるヘカーティアと真っ向から戦えば、どういう結末になるのか。

 それはマレウス自身が良く分かっているはず。

 ――それでも、彼女は己の意思で戦う事を選んでいる。

 不死の竜といえど、確実な死地に自ら向かう覚悟はどれほどのものか。

 ヴリトラは、僅かに口を噤んで。

 

『……ホント、どいつもこいつもどうしようもないな』

『誉め言葉として受け取っておくわね?』

『あぁ、是非そうしてくれよ』

 

 前向きに解釈するマレウスに、ヴリトラは否定する事はしなかった。

 嵐は時を追うごとに強まり、中心との距離が縮むほどに激しさを増す。

 薄い羽根は力強く、その流れに逆らい続ける。

 

『ヴリトラ』

『なんだ?』

『必要なら、貴方を地上に下ろしていくけど』

『…………そうだなぁ』

 

 姉妹からの気遣いに、猫は少しだけ考え込んだ。

 考え込んで、出した結論は。

 

『……意外と、お前さんの背中の上も寝心地が良いな。新発見だわ』

『昔の貴方は凄く大きかったものね』

『この猫モードは実際悪くないんだよな。《竜体》のなり方忘れそうだわ』

『それはそれで困りものじゃない?』

 

 確かにそうかもしれない。

 苦笑するマレウスの言葉を聞きながら、ヴリトラは小さく欠伸をした。

 何故か安心したせいで、微妙に眠気が来ていた。

 

『どうせ上も下も嵐でうるさいしな。

 ここならちょっと眠れそうだから、背中貸して貰って良いか?』

『ええ、どうぞ。でも暫くしたらもっとうるさくなるわよ?』

『良いさ。その時は手伝うぐらいはしてやるさ。

 どうせ長兄殿に見つかったら同じ事だしな』

 

 そう言って、ヴリトラはマレウスの背で丸くなる。

 

『着いたら起こしてくれよ』

『ええ。――おやすみなさい、ヴリトラ』

『おやすみ、マレウス。また後でな』

 

 マレウスは嵐を飛び、ヴリトラは一時眠りに身を委ねる。

 相変わらず風の音は喧しいが。

 伝わる揺れは心地良く、猫は程なく寝息を立て始めた。

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