295話:天秤狂い


 言うまでもなく、万全とはほど遠い。

 それでも休息した事で、幾らかの活力は取り戻すことが出来た。

 腕の中でアウローラが身を起こす。

 目が合うと、彼女は柔らかく微笑んだ。

 兜越しに触れる唇。

 間近に感じる熱が心地良い。

 

「……覚悟を決めて、行きましょうか」

「だな」

 

 出来ればこのまま惰眠を貪りたいところだが。

 あんまり待たせるのはイーリスに悪い。

 傍らにいたテレサも、遠慮がちに俺の手に触れた。

 

「レックス殿」

「あぁ。ぼちぼち迎えに行ってやらないとな」

「……はい、必ず」

 

 緊張はしているようだが、それよりも強い決意がある。

 テレサの腕に抱かれたアカツキからも、小さな駆動音が漏れる。

 

「ヘカーティアの魂の位置を索敵していた。

 残念だが正確な場所までは未だ把握できていない。

 ただ、『どちらにあるか』ぐらいは割り出すことができた」

「目印無しで歩き回るよりはずっと良いな。助かった」

「なに、文字通り手も足も出ない身だ。

 助けられているのは私の方だ」

 

 真面目な声でなかなか面白い冗談を言うな。

 いや、ちょっと洒落になってないかもしれんけど。

 どうあれ、進む方角ぐらい分かったのは大変ありがたい。

 微妙に離れた床で寝ていたボレアスも、身体を伸ばしながら起き上がった。

 

「やれやれ、もう少しぐらい寝ていたかったところだな」

「ヴリトラみたいな事を言うじゃないの」

「一仕事した後であるがゆえ、多少はな?

 ……しかしあの怠けられない猫は何処へ行ったやら」

「嵐に飛ばされてどっかに落ちてるんじゃないかしらね。

 まぁあんなナリでも古竜だし、特に問題はないと思うけど」

 

 なかなか酷い話ではある。

 しかしまぁ、アウローラの言う通りヴリトラも《古き王》の一柱。

 ちょっと自由落下したぐらいじゃどうって事はないだろう。

 本人の心情とか、そういう諸々は考慮しなければ、だが。

 そんな素っ気ない長子の反応に、ボレアスはニヤリと笑う。

 

「……何よ」

「いや、猫の心配はしておらんのは知っていたが。

 姉上の方はどうであろうな、と」

「ぶっ飛ばすわよお前」

 

 割と本気の声だった。

 殴り掛かるより先に、こっちで抱え上げておく。

 暴れたりはしなかったが、キレ気味にボレアスを睨みつける。

 

「……どうしようもない糞雑魚ナメクジとはいえ。

 仮にも今は大真竜なんて名乗るだけの力はあるんだから。

 第一、このぐらいで死ぬならあんな奴とっくの昔に死んでるわよ」

「長子殿が言うと説得力があるなぁ」

「いい加減にしないとその口を縫い付けるわよ。

 ……近くにウィリアムがいるかもしれないのは、正直不安だけどね」

「言いたいことは分かる」

 

 流石にブリーデを後ろから刺したりはしないと思う……思いたいが。

 その辺の予測をぶっ飛ばすからこその糞エルフだしなぁ。

 いや、ウン、大丈夫だろ。きっと。多分。

 これ以上考えても不安になるだけなので、思考を切り替える。

 視線を向けると、テレサは小さく頷いた。

 

「問題ありません。いつでも動けます」

「こちらもだ。ナビゲーションは全力を尽くさせて貰う」

「助かるわ」

 

 迷子の可能性を減らせるのは心底ありがたい。

 ボレアスも完全に起きたようだし、アウローラも準備良さそうだ。

 空いた片方の手で剣を抜き放つ。

 

「よし、行くか」

 

 そう言って、俺が先ず先頭に立った。

 続いてアカツキを抱えたテレサ、殿にボレアスが付く。

 進む通路は決して広くはなかったが、歩くに困るほど狭くもない。

 床も壁もゴツゴツしてるせいで、微妙に歩きにくいぐらいか。

 

「……ホント、相変わらず魔力だけは馬鹿デカいわね。

 そっちの流れを知覚しようとすると気分が悪くなりそう」

 

 微妙に嫌そうな顔をしながら、アウローラは小さくため息を吐く。

 アカツキだけでなく、自分でも索敵なり行おうとしたようだった。

 が、それは上手く行かなかったらしい。

 後ろの方でボレアスが抑えた笑い声を漏らす。

 

「流石は《五大》と言うべきか?

 ヘカーティアの魔力は、その規模だけなら長子殿以上であったな」

「だから余計な事を言うのは止めなさいってば。

 ……まぁ、だからこその《五大》の称号だけどね」

「《五大》か」

 

 確か、二十柱の《古き王》の中でも特に強大な五柱の総称だったか。

 《王国マルクト》の支配者であった竜王バビロン。

 彼女も《五大》の一柱だったはずだ。

 

「他の大真竜にも、ヘカーティアと同じ《五大》が含まれてるのかね」

「……真竜は、基本は古竜の魂を呑み込んだ元人間。

 それとは逆のパターンであるヘカーティアやブリーデは例外のはず。

 私も他の大真竜については詳しくはないが……」

「残念ね。あのナメクジがいたら吐かせてやったのに」

 

 確かに、ブリーデは大真竜の一柱なわけだしな。

 実際に答えるかは別として、仲間である大真竜については知ってるはず。

 

「……ヘカーティアが序列五位、だったわね。

 あのイシュタルとかいう小娘からは《五大》の気配は感じなかった。

 更に上位の大真竜なら、《五大》の魂を呑んでる可能性は十分あるでしょう」

「あまり考えたくない話ではあるがな」

 

 軽く言ってはいるが、ボレアスの声は微妙に硬い。

 それだけ《五大》の存在は脅威なのだろう。

 周囲の警戒をしつつ、黙って話を聞いていたテレサ。

 視線は辺りを巡らせながら、ふと思いついたように口を開いた。

 

「そういえば、他の《五大》はどのような竜だったのですか?」

「…………」

 

 本当に、純粋に疑問に思ったから言ってみた。

 テレサ側からするとそれだけの事だろう。

 ただ、聞かれた方は何故か重い沈黙を返して来た。

 その反応に、俺も思わず首を傾げる。

 

「? どうした?」

「……いえ。ちょっと思い出したくない奴が脳裏を過っただけよ」

「恐らく、我も長子殿と同じ相手を考えていたな」

「??」

 

 やっぱり良く分からないので、テレサも同様に首を傾げた。

 唯一、竜の姉妹が語る相手にアカツキだけは心当たりがあるようだった。

 

「もしや、《天秤狂い》の事か?」

「《天秤狂い》?」

「……模造品とはいえ、貴方はかつての時代の知識はあるわよね。

 ええ。恐らくは、大陸を最も荒らし回った最悪の《五大》」

 

 二人の反応から大体察しはついたが。

 どうやら《五大》の中でも特にろくでもない奴であるらしい。

 それはボレアスの表情からも察せられた。

 

「死にたがりのヘカーティア、愛したがりのバビロン。

 これらもまぁ竜としては大分狂しておる方だがな。

 《天秤狂い》は――竜王ヤルダバオトはイカレ具合が一味違う」

「……ヤルダバオトって、もしかしてアレか」

 

 具体的な名前が出た事で、俺の錆びた記憶も刺激された。

 そういえば《天秤狂い》ってあだ名も、多少だが聞いた覚えがある。

 一人まったく知らないテレサだけ首を傾けたまま。

 

「レックス殿もご存じでしたか」

「まぁ、ご存じってほど詳しくはないけどな」

「《天秤狂い》のヤルダバオト。

 アレは――何と言えば良いのかしらね。

 やってる事は単純だけど、そのための理屈がおかしすぎて言語化が難しいわ」

 

 すっかり雑談というか、昔語りの雰囲気だ。

 まぁ、全員警戒はしているので問題はないだろう。

 あまり大きく響かぬよう、声は低く抑えながらアウローラは続ける。

 

「昔っから、大陸では争いが絶えなかった。

 バビロンが《王国》によって大陸の半分近くを支配していても同じ。

 竜であれ人であれ、戦火は時と場所を選ばず燃えていた。

 ……そういう場所に、良くあの《天秤狂い》は現れた」

「……それで、そのまま戦場を荒らし回ると?」

「結果としては似たようなものだが、過程が少し違うな」

 

 テレサが口にした予想に対し、ボレアスは意味深に笑った。

 そうだな。

 結果としては似たようなもんだが、確かに過程が違う。

 

「戦場に現れたヤルダバオトは、先ず劣勢の側の味方につく。

 まるで突如助けに現れた守護神のように。

 弱く虐げられてる側に立ち、強い側を敵としてその力を振るう」

「それだけ聞くとヒーローみたいだよなぁ」

「ヒーローどころかとんでもない大嵐だがな」

「……それで、どうなるのですか?」

 

 概ね予想はついてるだろうが。

 テレサが不安げに問いかけると、アウローラは肩を竦めて。

 

「先ずは敵対者が動かなくなるまで徹底的に叩き潰すわ。

 徹底的に、本当に徹底的にね。

 全て真っ平になって、何もかもが更地になるまで」

「ヤルダバオトは《五大》の中でも、単純な強さでは随一だった。

 真っ向の力勝負で奴を上回る者は先ず存在しない」

「だから《天秤狂い》に殴り掛かられたら、殆どどうしようもない。

 そうして、弱者を背にしながら奴は強者を蹂躙し尽くす。

 一つも動く者が無くなったのを確認したら――奴は振り向くのよ」

「……まさか」

「ええ、貴女が想像してる通りよ。テレサ。

 ――そうしたら、ヤルダバオトは

 一人残らず、徹底的にね」

「気が狂っとる」

 

 マジでそう表現するしかない。

 最初っから皆殺しにする、までならまだ理解できる。

 それは単なる竜の暴虐だし、災害と大して変わらない。

 しかし曲りなりにも、最初は弱い側を守るように動くのだ。

 それは守られた側が絶望で歪むのを見たいとか。

 そういう悪趣味でもあるのかと思ってしまうが……。

 

「まったくふざけた奴だが、遊興でそんな行為に及ぶワケではない。

 むしろ義務感や使命感の方が近いであろうな」

「……そんな事を繰り返して、一体何の意味があるのかと。

 一度、ヤルダバオト本人に問うた事はあるけどね」

「何て言ったんだ?」

「“”、だそうよ」

「……んん?」

 

 言ってる意味が本気で分からない。

 今度ばかりは、何も知らないテレサと同じ気分だった。

 アウローラ自身も、意味が分からないという顔で。

 

「“これで天秤が平らになりました。美しいじゃないですか”。

 ……ヤルダバオトが言った言葉よ。意味分かる?」

「いえ、まったく」

「さっぱり分からん」

「で、あろうよ。それが健全だ」

 

 全裸ドラゴンに健全とか言われてしまった。

 アカツキも、首だけの状態だが頷いたような空気を出す。

 

「それが竜王ヤルダバオト、《天秤狂い》の行動原理だ。

 多くの事柄を天秤に当てはめ、それを「平ら」にしようとする。

 戦いへの介入が多いのは、恐らく天秤という概念に当てはめやすいからだ。

 ……そんな予想さえ、あの竜王の真実に当てはまるか定かでないが」

「誰も理解できないし、向こうも理解を求めてない。

 自分の中にだけ存在する『天秤の平衡』。

 その自分しか理解できない美しさを追い求める災厄の竜。

 それが《五大》の一柱、竜王ヤルダバオトだ」

「マジで死ぬほど迷惑だな」

 

 いやホントに。

 俺の記憶では、「戦場に現れては皆殺しに去ってく竜王」とか。

 そのぐらいしか知らなかったが。

 まさか実体はもっと訳の分からん奴だったとは。

 

「……残る大真竜に、あの《天秤狂い》がいると思うか?」

「考えたくもないわね。

 そもそもアイツは最初っから狂ってるし。

 あんなゲテモノを呑み込んで無事でいられる奴なんているの?」

「長子殿の言いたい事は良く分かるがな」

 

 心底嫌そうに身震いするアウローラに、ボレアスは苦笑いを浮かべる。

 

「……ヤルダバオトが大真竜の内に含まれているかは定かではないが。

 強大さで言えば、ヘカーティアも負けず劣らずの厄介さだ」

 

 大分盛り上がった思い出話。

 それに切りが付いたぐらいで、アカツキが話を現状にそっと戻した。

 どれだけ竜王ヤルダバオトが厄介でも、今は無駄話の一つだ。

 

「ぼちぼち、目の前の事に集中するか」

「すまない、催促する形になってしまったか」

「それは別に問題ないだろ」

 

 案内はアカツキ頼りだしな。

 ヘカーティアの《竜体》内部は広く、終わりが何処かも分からない。

 しかしこの何処かにヘカーティアの魂と、それに呑まれたイーリスがいる。

 

「相手がまったくの無警戒とは思えない。

 これから先、障害が現れる事は想定するべきだろう」

「そんな事、今さら言われるまでもないわ」

 

 アカツキの警告を、アウローラは不遜に笑い飛ばす。

 その態度は味方であれば非常に頼もしく見える。

 

「相手がかつての《五大》であろうと、私に喧嘩を売ったんだから。

 ――どんな妨害も障害も、全部薙ぎ倒す。

 それから受けた借りは、まとめて返してあげないとね?」

「――そうか」

 

 彼女の声に応じたのは、俺たちの誰でもない。

 進路を塞ぐ形で、唐突に現れた影。

 語る声だけは聞き覚えのあるその相手は――。

 

「であれば、早速有言実行を見させて貰おうか。

 かつての《最強最古》よ」

 

 アカツキと呼ばれた男の鏡合わせ。

 大真竜ヘカーティアの《爪》が立ち塞がっていた。

 

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