幕間1:深淵の玉座

 

 竜在りし地ドラグナールと呼ばれる大陸の中心。

 かつて大いなる戦いがあった事実を示す、大地に穿たれた巨大な傷痕。

 その奥底に築かれた巨大な建造物。

 《大竜盟約レヴァイアサン・コード》の始まりである場所。

 奇妙に歪んだ構造の、何処か冒涜的ですらある「神殿」。

 其処に、盟約の礎である大真竜たちは集っていた。

 

「…………」

 

 「神殿」の中枢とも呼ぶべき玉座。

 それに座したまま、《黒銀の王》は沈黙している。

 両の瞳を閉ざし、まるで眠っているかのよう。

 本当に眠っているワケではない事は、円卓に集う者たちは知っていた。

 当人がどれだけ「眠っていた」と表現したとしても。

 彼女はあの日以来、正しい意味で眠りについた事などないのだから。

 

「……翁」

『分かっている』

 

 大真竜の序列三位、ウラノス。

 無双を誇る鋼の大英雄は、硬い声で呼びかける。

 応じたのは序列二位たるオーティヌス。

 異なる地より現れた十三人の古き魔法使いたち。

 彼ら始祖の王であった老賢人は、あくまで落ち着きを払っていた。

 何が起こっているのか、そのまなこ無き目で全て見通しながら。


「……コッペリアの奴。一体何を考えてるの?」

 

 もう一柱。

 序列四位であるイシュタルはひとり呟く。

 彼女もまた、進行している事態については把握していた。

 地の底に沈んでいるこの「神殿」には大きな影響は及んでいない。

 しかし、地表では――。

 

「――只今戻りましたぁ!!」

 

 重い静寂に満たされていた「神殿」の空気。

 それをかき乱しながら現れたのは、幼い姿のゲマトリアだった。

 大真竜の序列七位。

 しかし今、その力の大半は失ってしまっている。

 彼女が転がり込んで来た瞬間、ウラノスはほんの僅かに表情を緩めた。

 

「ゲマトリアか。

 万一はないと思っていたが、無事だったようだな」

「この姿を見ても無事だって言えるウラノスさんの事は嫌いじゃないですけどね!

 いやいや、そんな事は良いんですよどうでも!」

 

 テンション高めに叫びつつ、ゲマトリアは同胞らが囲む円卓へと近付く。

 その顔には彼女らしからぬ強い焦りが滲んでいた。

 

「コッペリアさんが暴走しました!」

「…………」

 

 余計なお喋りの多いゲマトリアだが、今回ばかりは事実を端的に告げた。

 《黒銀の王》は瞳を閉ざしたまま、動かない。

 

「ブリーデさんは例の《最強最古》と竜殺しのご一行と交戦!

 残念ながら敗北……まぁ、結果だけ見れば負けも同然ですね、ウン。

 兎も角、そっちは負けましたが身命の方は無事っちゃ無事です」

「……ブリーデが? 負けた?

 まぁ、アレが強いのは剣に宿った騎士たちの方だものね。

 そういう事もあり得るかしら」

 

 敗北の報に驚きながらも、イシュタルは自分で納得するように呟いた。

 オーティヌスは何も語らない。

 

「まぁ、それは良いんですよ。いや良くはないですが。

 それよりもコッペリアさんの方ですよ!

 皆だってもう察知してるんじゃないんですか!?

 “嵐の王”は、今や大陸全土を呑み込みそうな勢いですよ!」

「…………」

 

 ウラノスは小さく奥歯を噛み締めた。

 全てはゲマトリアが言った通り。

 序列五位の大真竜コッペリア。

 《竜体》となった彼女は、現在その力を無制限に拡大させつつあった。

 大いなる力を持つ嵐の竜。

 《五大》と称された頃より、その魔力の強大さは《最強最古》にすら比肩した。

 それが何の加減も無しに嵐を生み出せば、大陸を覆い尽くす事など容易い。

 今はまだ、範囲を広げているだけで被害はそれほど大きくないが……。

 

「あの調子で出力上げてったら、最悪地表が洗い流されますよ!?」

「……コッペリアは、彼女は何を考えている?」

「それが分かったらこんなに悩んでませんってば!!」

 

 苦い声を漏らすウラノスに、ゲマトリアは半ば叫ぶように言った。

 分からない。

 少なくとも、ある程度は行動を共にしていたゲマトリアでも。

 コッペリアが何を思って今回の凶行に及んだのか、心当たりがなかった。

 過去に魂が損なわれてしまった恋人を取り戻す事。

 それが彼女の大いなる望みである事は、ゲマトリアも把握していた。

 《最強最古》に干渉したのも、アレが実現した死者の蘇生に興味を持ったから。

 そこまでは理解していた。

 だからこそ、ゲマトリアから見てもコッペリアの行動は不可解だった。

 小娘ひとりを殺し、その魂を奪い去って。

 それから《最強最古》など目もくれず、空の彼方へと飛び立った。

 そして現在、《竜体》の力で大陸全土を呑み込もうとしている。

 本当に意味が分からない。

 狂ったコッペリアは、一体何を夢見ているのか。

 

「ここで止めないとホントに拙いですよ!?

 序列こそ五番目ですけど、コッペリアさんは元々は《五大》の一柱!

 力の規模なら上位のイシュタルさんやウラノスさんにも劣ってないんですから!」

「……そうね。

 アレが本気なら、大地の表面を全て引っぺがすぐらいやれてしまうでしょうね」

 

 そうなれば、どれだけの被害が生じるだろう。

 正確に答えられる者はいない。

 破滅的な未来が待っている事だけは、この場の誰もが理解していた。

 だからこそ、他の大真竜たちの力でコッペリアを阻止すべきだと。

 力を失っているゲマトリアは同胞たちに訴える。

 しかし。

 

『……それで、?』

 

 声は冷たく。

 けれどその奥には、苦い色が混じっていた。

 ゲマトリアは老賢人オーティヌスの方に視線を向ける。

 

「オーティヌスさん? 一体何を……」

『ここまで思い切った行動に出たのだ。

 コッペリアはもう言葉で止まる事はあるまい。

 であれば、アレの行いを阻むには力を以て当たる他ないだろう』

 

 だが、それがどういう結果となるか。

 オーティヌスはあくまで冷静に語り続ける。

 

『お前自身が言っている通り、コッペリアの力は強大だ。

 単独では、序列で上位であるイシュタルやウラノスとも互角に近い。

 私や《黒銀》ならば、止める分には問題ないやもしれん』

「だったら――」

『そうして始まるのは、上位の大真竜同士の本気の争いだ。

 それこそ、大陸の表面どころか土台を危ぶまなければならなくなる』

 

 それは、余りにもどうしようもない結論だった。

 コッペリアを放置すれば、最悪大陸の表面が嵐によって吹き飛ばされる。

 けれどそれを止めるために他の大真竜が力に訴えたなら。

 始まるのは、大陸を滅ぼす力を持つ者同士の本気の潰し合いだ。

 この狭くも広い限られた大地が、そのまま砕ける可能性すら考える必要がある。

 

「……故に、事態を知りながらも我らは此処で動けずにいるんだ」

 

 既に、苦渋の決断を下した後なのだろう。

 ウラノスは途方もない苦痛に耐えるように、その表情を歪ませている。

 イシュタルは無言。

 同時に、彼女もこの結論には納得していないようだった。

 納得はしていないが、理解せざるを得ない。

 大真竜が全力で戦えば、大陸そのものが滅びかねない。

 更に言えば――。

 

『我らは《大竜盟約》の礎。

 末席であるゲマトリアが力を失い、序列六位たるブリーデも敗北した。

 これ以上、大真竜の席に空白を作ることは出来ぬ』

 

 語る声に宿るのは、強烈な使命感。

 

『我らの存在意義は、盟約を維持し続ける事。

 ……コッペリアの暴走は遺憾ではある。

 だが、彼女が地上の全てを吹き飛ばしたとしても。

 それが盟約そのものを損なう事はない』

「……だから、この場は見過ごせと?」

『そうだ。多くの都市は滅ぶだろうが、大嵐だけで真竜は滅びない』

「山ほど死にますよ」

『全てではない。

 だが、我らが動けば全て死ぬ』

 

 少なくとも、その危険性は十分にある。

 動くことよりも、動かずにいた方が損害は少ない。

 オーティヌスはそう結論していた。

 《黒銀の王》は、瞳を閉じたまま動かない。

 

「っ……貴女は……」

 

 ゲマトリアも、それで納得するしかないとは分かっていた。

 分かってはいたが、理性だけで全てを抑えることもできなかった。

 極力目を向けずにいた相手に。

 彼女が愛してやまない太陽を直視した。

 黒く淀み、かつての面影だけが残るその姿をゲマトリアは見た。

 

「貴女は、それで良いんですか、《黒銀の王》よ……!」

 

 かつての名を呼ぶ事だけは、しなかった。

 それをしたら、もう後戻りができなくなる。

 大真竜としての最後の一線。

 そのギリギリのところで、ゲマトリアは声を上げた。

 《黒銀の王》は動かない。

 

「そりゃもう、今さらってぐらいには滅茶苦茶ですし!

 誰がどう見たって酷い世界なのは分かってますけどね!

 それでも、それがボクらが戦った末に辿り着いた結果じゃないですか!

 そのぐらい、どうにか守りたいって思いませんか!?

 それすら無くなってしまったら――」

 

 一体、ボクらはこれまで何をして来たのか。

 あの日の結末に、どんな意味があったのか。

 そこまでは、喉の奥で言葉が引っ掛かって出て来なかった。

 《黒銀の王》は動かない。

 ただ、ゆっくりと。

 閉ざされていた瞳が開いた。

 大地の怒りを宿した眼差しが、ゲマトリアを見ていた。

 

「――、ゲマトリア」

 

 その一言には、何の感情も込められていなかった。

 人間らしさとか、そんなものは微塵もない。

 ただ冷徹なる機構システムとして、盟約の王は神託を告げる。

 

「オーティヌスの判断が正しい。

 コッペリアがどれだけ荒ぶろうと、盟約は損なわれない。

 であれば、私たちは此処から動く必要はない」

「…………」

 

 今度こそ、ゲマトリアは沈黙する他なかった。

 盟約そのものとも呼ぶべき《黒銀の王》の言葉だ。

 一体誰がそれに異論を唱えられようか。

 痛々しくも黙り込んだ彼女の肩を、ウラノスがその大きな手で軽く叩いた。

 最早どうしようもない。

 狂った女の狂った愛によって、大陸は無力に沈む他ない。

 大真竜の多くは、そう考えていた。

 

「今は何が起ころうと、私たちが動く必要はない。

 そう、何が起ころうと」

 

 繰り返す。

 その言葉の真意を推し量れる者は誰もいない。

 余人には理解できないモノを、大地の化身たる王は見ていた。

 

「……運命に挑む者たちがいる。

 それはいずれ、盟約にも牙をむくでしょうが――」

 

 呟く声を、王は誰に聞かせるつもりもなかった。

 かつて、大いなる運命に抗った英雄。

 その残滓であり、今は盟約そのものとなった彼女は語る。

 或いは、自分自身にも言い聞かせるように。

 

「その先を望むなら、この程度の嵐は越えて見せるといい。

 ――いずれ来るべき時。

 私は、この深淵の玉座にて待ちましょう」

 

 その言葉は、遥か遠く。

 伝えるべき者には決して届かない。

 少なくとも、今はそれで何も問題はないと。

 届かぬ神託を告げて、《黒銀の王》は再びその瞳を閉じた。

 後に残る大真竜たちも、最早語る言葉は尽きていた。

 大陸を支配する盟約の礎たち。

 彼らはただ、吹き荒ぶ嵐の終わりを待つ他なかった。

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