290話:ボレアスの《竜体》

 

「さて、大人しくしていろよ?

 手元が狂ってしまっては事だからな」

「いいからさっさとしなさいよ、お前は」

 

 笑うボレアスの声に、アウローラの低い唸り声が重なる。

 とりあえずの方針は決まった。

 なので早速行動に移ったワケだが。

 空の彼方に去ったヘカーティアを追うために、ボレアスの《竜体》を顕現させる。

 そのためには多くの魔力を集める必要があった。

 手始めに猫が軽く吸われた。

 突然腹の辺りを噛み付いての直吸いだった。

 

『あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛』

 

 変な鳴き声を上げながら微妙に萎んだヴリトラを放り捨てて。

 次にボレアスは、俺の方に寄って来たところだ。

 うん、まぁ出来ればサクっと済ませて欲しいのは間違いない。

 ややキレ気味のアウローラだが、そっちはブリーデたちが軽く抑えてくれていた。

 だから阻む障害もなく、ボレアスは俺の目の前に立つ。

 

「では、良いな?」

「おう」

 

 迷わず頷けば、向こうも躊躇いなく来た。

 軽く顔を上げさせられ、露出している首筋に牙が突き立つ。

 内を流れる魔力の一部を吸い取られる感覚。

 どうやら俺を通じて、剣の方の力も持っていくつもりのようだ。

 堪えるのはほんの数秒ほど。

 全身にちょっとした倦怠感を感じた辺りで、ボレアスは離れた。

 少し血の付いた唇を、赤い舌が舐め取る。

 

「物足りんは物足りんが、あまりやり過ぎては長子殿が怖いからな」

「後で覚悟しておきなさいよ……」

「落ち着きなさいってば」

 

 怖い顔をしてるアウローラに、ブリーデは頑張って宥めていた。

 若干腰が引けてるけど、それは仕方ない。

 ともあれ、だ。

 

「これで準備は良いのか?」

「あぁ、少し待て」

 

 頷きながら、ボレアスは俺たちから一旦距離を取る。

 辺りは瓦礫の山となっているため、空間の確保に困ることはない。

 何度か身体を動かしてから、一息。

 強烈な魔力が渦を巻き、眩い輝きが辺りを照らす。

 変化は一瞬で完了した。

 ボレアスが立っていた場所に佇むのは、赤い鱗の竜。

 その姿は、俺の中にある過去と寸分違わないものだった。

 かつて北の地を死の国に変えた偉大なる王。

 《北の王》と自らを称した古き竜。

 それが数千年の時を経て、再び俺の前に顕現したのだ。

 

『――ふむ。

 完全とは言い難いが、まぁ及第点ではあるか』

 

 翼を広げながら、赤い竜は呟く。

 《竜体》の見た目は、俺の知る過去とまったく変わらない。

 が、良く見ればサイズは幾らか小さくなっているようだった。

 竜――ボレアス自身が言う通り、まだ完全な状態ではないようだ。

 

「飛ぶ分には問題ないでしょう?」

『無論だ。さぁ、本来ならばこんな事はあり得ぬが。

 今一時だけは、《北の王》であった我の背を貸してやろうではないか』

「エラそうに言う事じゃないわよ。まったく……!」

「まぁまぁ」

 

 不機嫌全開のアウローラ。

 その頭をワシャワシャ撫でてから、片腕にひょいっと抱える。

 彼女は少し驚いた顔をしたが、特に文句は言わなかった。

 そうしてから、ブリーデの方を見て。

 

「乗るなら手を貸した方がいいか?」

「…………そうね。ウィリアムの手よりかは、そっちの方がマシね」

「忠臣の身としては、主人からの信頼度が低いのは大変遺憾だな」

「忠臣……?」

 

 本当に忠臣なテレサさんから疑問の声が上がった。

 言いたいことは分かるが、突っ込んでも不毛なので流すべきだと思う。

 ちなみに、萎びたのを良い事に寝息を立て始めた猫はアカツキが拾っていた。

 どうせすぐ寝る暇もなくなるだろうし、今は休ませてやろう。

 そして、テレサは。

 

「……行こう」

 

 傷は塞ぎ、身体についた血も清めたイーリス。

 熱の失せてしまった妹の身体を、彼女は大事そうに抱え上げた。

 

「……振り落とされても危ないでしょうから。

 私が魔法で別空間にしまっておくわよ?」

「はい。お願いします、主よ。

 ……ただ、もう少しだけ。もう少しだけ、お待ち下さい」

 

 例え亡骸でも。

 離れてしまう事に痛みを感じているのだろう。

 テレサは涙を堪えて、竜となったボレアスの元に向かう。

 俺の方はアウローラと一緒に、先にその背中に上がっていた。

 ブリーデを引っ張り上げたところで、テレサも傍までやって来る。

 最初に、イーリスの亡骸が差し出された。

 

「どうか、妹を頼みます」

「分かったわ」

 

 アウローラは頷くと、唇の中で小さく何かを唱えた。

 その直後に空間の一部が歪み、イーリスの身体はその中に消える。

 テレサは、ぐっと奥歯を噛んで耐えていた。

 そんな彼女に向けて、俺は手を伸ばす。

 

「迎えに行くんだろう?」

「……はい、勿論」

 

 苦痛と悲哀を、意思の力で無理やり抑え込んだ声。

 強く頷いて見せながら、テレサは俺の手を掴む。

 それを一気に引っ張り上げて、こちらの準備は完了だ。

 最後にアカツキ、それからウィリアムも乗り込む。

 

「背に跨る事を認める寛容に感謝を、《北の王》よ」

『かつての、ではあるがな。

 古き賢人の名残りよ、覚悟は良いのだろうな?』

「ヘカーティアの凶行を止めるべきは、私だった。

 未だ責任を果たせぬ愚かな身だが、覚悟はとうに済ませてある」

 

 どこか皮肉るようなボレアスの言葉に、アカツキは落ち着いた声で応じる。

 その見た目と同じ、鋼の如き意思を込めて。

 

「彼女の狂気を阻み、奪われたものを取り返す。

 我が身の全てを引き換えにしてでも、その責務を全うする。

 故に、どうかその翼をお貸し願いたい」

『ふん、別にお前に貸してやるワケではないがな。

 ――よし、全員問題はないな?』

「あぁ、頼む」

『よし。不本意ではあるが、役目を果たそうか』

 

 喉を鳴らしながら、赤い竜は翼を広げる。

 アウローラと、後はブリーデの二人を腕で支えて。

 俺は暗雲が残る空を見上げた。

 

『さぁ、振り落とされても助けぬからな――!!』

 

 そんな言葉と共に、竜となったボレアスは咆哮する。

 上昇する際の負荷は、想像していた以上のものだった。

 空に浮かぶ城で、アウローラの背に乗ってゲマトリアと戦った時。

 アレに勝るとも劣らない加速が全身を包む。

 テレサがやや苦しそうな顔をしている以外、特に大きな問題はない。

 ブリーデはうっかり吹き飛ばされそうなので、頑張って捕まえておく。

 

『ハハハハハハハハ――!!』

 

 久々に《竜体》となって飛ぶのは、本人も相当気持ちが良いのだろう。

 堪え切れない哄笑を響かせて、ボレアスは暗雲へと突っ込む。

 分厚い雲は、それ自体も強力な魔力を帯びていた。

 大真竜であるヘカーティアの纏う嵐。

 それはほんの一部ですら、触れた者を捕えようと蠢いている。

 仮に飛竜辺りで侵入していたら、そのまま絡めとられて墜落したかもしれない。

 しかし今のボレアスにとって、そんなものは蜘蛛の巣よりも脆い。

 

『邪魔だ!!』

 

 空に蓋をしている暗雲の一部を、文字通りに吹き飛ばす。

 気合いと、後は翼が巻き起こす風の力だけで。

 ぽっかり開いた雲の穴を潜り、赤い竜は更なる高みへと飛翔する。

 

「……壮観だな」

 

 そう呟いたのはアカツキだった。

 暗雲を貫いた先。

 人間では決して届くことのない空の高さ。

 果てしなく広がる雲海の上に、俺たちはいた。

 こんな状況でもなければ、景色を楽しみたいところだが。

 

「それで、位置は問題ない?」

『侮ってくれるなよ長子殿。

 ヘカーティアは特に身を隠す気もないらしい。

 巨大な魔力の痕跡が延々と続いておるわ』

 

 ボレアスの眼は、空の彼方を見ていた。

 肉眼では確認できない魔力の痕。

 あれだけ巨大だった竜の姿も、まだ目視はできない。

 

『さて、また少し飛ばすぞ?』

「あぁ。出来るだけ急ぎで頼むわ」

『ハハハハハ! ではその願いに応えるとしようか――!!』

 

 凄まじい急加速。

 さっきまででも十分速かったが、更に速度が上がった。

 風のように、なんて表現では生温い。

 今やボレアスの翼は、音を置き去りにしようとしていた。

 ホント、背中に乗ってる奴の安全性とかそういうのは投げ捨ててるな。

 

「幾ら何でも加速し過ぎでしょ……!?」

「ほらほら、ナメクジは振り落とされたくないでしょう?

 ちゃんと私に捕まってなさい。良いわね?」

「分かったから変なトコ触るのやめて貰える!?」

 

 姉妹仲が良いみたいで大変結構。

 そちらは任せて大丈夫そうなので、俺はテレサの腕を掴んでおいた。

 色々余裕もなさそうだしな。

 

「レックス殿?」

「あぁ、しんどかったら言ってくれよ。

 こっちに出来る事はしてやるから」

「……はい。その、ありがとう御座います」

 

 加速に堪えながら、テレサは少し照れたように笑う。

 しんどいはしんどいだろうが、笑えるんだったらまだ大丈夫だな。

 

「……見えて来たな」

 

 そうやって、どれだけの距離を飛んだのか。

 呟くウィリアムの視覚が、真っ先にそれを捉えていた。

 前方に見えてくる巨大な黒い塊。

 遥か高空に広がるのは、自然のモノではあり得ない嵐の塊。

 物理的な距離は未だに遠い。

 にも関わらず、肌を焼くような強烈な魔力を感じる。

 

「本体の姿がまったく見えんけど、もしかしてあの中か?」

『……あぁ。《嵐の王》の真骨頂だな』

 

 俺の言葉に応えたのは、ぐったりと伸びていた猫――ヴリトラだった。

 本当に、心底嫌そうにしながら身を起こす。

 できればこのまま永遠に眠っていたかったと、全身で不満を露わにしながら。

 

『ヘカーティアの《竜体》は、あの嵐のど真ん中だ。

 くそ、あの規模で力を展開するとか大陸そのまま滅ぼす気か?』

「……今のアイツだとホントにやりかねないのが怖いわね」

『ハハハハ、景気が良くて結構な話よな』

「言ってる場合……!?」

 

 兄弟姉妹同士で言葉を交わす間も、竜の翼は速度を緩めない。

 近付けば、嵐はさながら空に浮かぶ真っ黒い城塞だ。

 魔力もそうだが、視覚的な威圧感も半端ない。

 雲の表面、そこかしこに稲妻がまるで竜の如くに閃いていた。

 

「下手に突っ込めば、それだけで死にそうだな」

「だが、突入する以外に道はあるまい」

 

 糞エルフとアカツキ、どちらの言う事も真実だった。

 突っ込めば、まぁ十中八九は死にそうな地獄。

 しかし目的を考えれば、突っ込まないという選択肢はなかった。

 

「……可能な限り防御を固めるわ。

 ほら、手伝える奴は手伝いなさいよ。特に猫」

『なんで名指しなの?? いやまぁ手伝いますけどねぇ!』

 

 アウローラに呼ばれて、猫はびくんっと跳ね起きる。

 とりあえず、現状ではまだ俺にできる事はない。

 今はまだ、俺以外を信じて待つのみ。

 

『怖気づいてはないか? 竜殺しよ』

「お前と初めて出くわした時よりはマシかね」

『ハハハハハッ! なかなか言うではないか』

 

 懐かしい竜の姿で、ボレアスは心底愉快そうに笑ってみせた。

 相手は大真竜の序列五位。

 これまで遭遇した竜の中でも、間違いなく一番の大物だ。

 そしてこの先、似た状況はまだ何度もあるだろう。

 だからこのぐらいは問題ないのだ。

 

『備えは万全か?』

「万全かは知らないけど、後はアンタがしくじらないかだけよ」

『そうか。ではかつての《最強最古》と《五大》の一角。

 それらの眼に、王たる我の勇姿を見せつけてやらねばなるまいな』

 

 そんな事を言いながら、ボレアスは改めて翼を広げる。

 視線の先には、大真竜となったヘカーティアが纏う嵐の城塞。

 並みの人間なら、触れるどころか近付いただけで死ぬ超高密度の魔力構造体。

 幾重もの守りを鱗に纏って、赤い竜は空を駆ける。

 

『行くぞ、死にたがりのヘカーティア!!

 大嵐に籠る貴様の姿、我が前に曝け出すがいい――!!』

 

 竜の咆哮は高らかに。

 分厚い雲の壁を、ボレアスの翼は真っ向から切り裂いた。

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