289話:僅かな望み


 顔だけ見れば、イーリスは眠っているようだった。

 しかし、背中から胸まで貫く大きな刺し傷。

 流れ出してしまった血は、明らかに死に至る量だ。

 死んでいる。

 心臓は動きを止め、もう役目を果たすことはない。

 そんな彼女を、なるべく平らにした瓦礫の上に横たえて。

 姉であるテレサは、冷たくなってしまった手を縋るように握っていた。

 亡骸のすぐ傍にもう一人いるのは――。

 

「アウローラ。どうだ?」

「…………」

 

 テレサに懇願されたばかりのアウローラが、難しい顔をしていた。

 俺の呼びかけに、彼女は右手を軽く上げる。

 どうやら考え事をしているらしい。

 なのでこっちも口を閉ざし、暫し様子を見ることにする。

 他の者たち――ブリーデにウィリアム、アカツキ、ボレアス、それと猫。

 誰も何も言わず、成り行きを見守っていた。

 ちなみにゲマトリアの姿はない。

 《中枢》が崩落するドサクサに紛れて逃げ出したようだった。

 

「主よ……」

「少し、静かにしていなさい」

 

 涙に濡れた声を漏らす姉に、アウローラは冷たい声で返す。

 それから何事か呟いて、両手に淡い光を灯した。

 回復のための魔法。

 ブリーデとの戦いで消耗は、少なくとも表面的には感じられない。

 柔らかい光は横たわるイーリスの傷を塞いでいく。

 けれど、顔に生気が戻る様子はなかった。

 どれだけ傷を治しても、彼女は変わらず死者のままだ。

 

「……ダメね、これは」

「あぁ、そんな……っ!!」

 

 再び泣き崩れるテレサ。

 この状況で、俺にできる事は何もない。

 精々、彼女の背を撫でてやるぐらい。

 慰めの言葉さえ、今は下手に口にしても重しになるだけだろう。

 剣が通じない事柄には、流石に俺もどうしようもなかった。

 アウローラは、そんなテレサを一瞥する。

 それから、わざとらしいぐらいに大きなため息を吐き出す。

 

「見苦しいわね。

 貴女は生きてるんだから、もう少ししっかりしたらどう?」

「ちょっとアンタ、言い方ってものが……!」

「ただの事実よ。そんな事を気遣って何の意味があるの?」

 

 反射的に声を上げたブリーデに、強い言葉で返す。

 ……アウローラも地味に苛立ってるな。

 いや、怒ってると言った方がいいか。

 イーリスが殺されたという事実に、大分頭にキてるようだ。

 

「イーリスは死んでる。

 幾ら肉体を修復しても、魂が失われてしまっている。

 これじゃあ流石に私もどうしようもないわ」

「ッ……イーリス……」

「聞きなさい。

 私はね、

 

 その言葉に、テレサは泣きはらした顔を上げた。

 それを見下ろしながら、アウローラは更に続ける。

 

「そう、このぐらいだったら私は問題なく生き返らせられる。

 レックスの時みたいに、魂が灰になってるとかだと流石に無理だけど。

 ただちょっと心臓を潰されて死んだぐらいなら。

 私にとっては転んで足を擦りむいたのと、状況的に大差ないわ」

「うーん、流石だなぁ」

 

 いや、本当に凄まじい。

 心臓潰されたとか、致命傷云々以前に即死だと思うが。

 と、その話を聞いていたボレアスが首を傾げて。

 

「であれば、蘇生が不可能なのはどういう理屈だ?

 イーリスが殺されて、まだそう時間は経っていないはずだが」

「言ったでしょう? 魂が肉体に残ってないのよ。

 魂が灰になっただとか、正しい《摂理》の輪に戻った後だとか。

 理由はどうあれ、魂がなければ蘇生はできない。

 そんな事は道理よね」

「つまり、彼女の魂は《摂理》に還った後だと?」

「違うわよ、ポンコツ男。

 魂が自然と死んだ肉体から剥離するまで、多少の時間がある。

 個人差はあるけど、そうすぐには引っ張られないわ」

 

 アカツキの疑問に、アウローラは不機嫌そうな声で応じた。

 

『……つまり、殺した相手――ヘカーティアが魂を奪い取ったと?』

「そういう事でしょうね」

 

 瓦礫の上で丸まった猫。

 ヴリトラは、尻尾を揺らしながら小さく唸った。

 あの大真竜がイーリスを殺して、魂を奪った。

 なら彼女は今、あの飛び去った鋼の竜の内にいるのか?

 

「では……」

「死体は傷を塞いで、痛まないよう保存の術式も施した。

 魂を取り返せば、まだ可能性はある。

 けど私も、長く肉体から離れた魂を戻して蘇生した経験なんて無いわ。

 上手く行く保証はない。それでも可能性は残ってる。

 テレサ、貴女は膝を折って泣いてる暇はあるの?」

 

 顔を上げたテレサの顔に、アウローラの細い指が触れた。

 軽く顎を掴んで、その眼を間近から覗き込む。

 涙に湿った瞳には、ようやく強い光が戻り始めていた。

 

「そうよ。それで良い。

 ……私も、正直大分頭に来てるのよ。

 人の所有物に手を出すなんて、あの死にたがりも良い度胸じゃない」

 

 笑うアウローラの顔は、牙をむく獣と同じだ。

 身内に手を出された――それは文字通り彼女の逆鱗だったようだ。

 滲み出るような深い怒りに、ブリーデが小さく身震いする。

 

「アレ、割と本気でキレてるわね……」

「《最強最古》の怒りとは、これほど恐ろしい物もそうはなかろうな」

「アイツは気が短いけど、『怒る』まで行くのは滅多にないから。

 ……その分、本当にヤバいんだけどね」

 

 まったく恐ろしいと、ウィリアムは笑っている。

 まぁ、糞エルフのリアクションは良いとして。

 

「立てるか?」

「……はい。申し訳ありません、レックス殿」

 

 膝を付いたままのテレサに、とりあえず手を貸す。

 ショックが抜け切っていない様子で、少し足下がふらついていた。

 軽く支えてやると、彼女は少し顔を伏せて。

 

「……不甲斐ない。

 イーリスを、妹を守るのは、自分の役目だと言っておきながら……」

「相手が上手だっただけだろ。

 今さら悔やんでも、それは仕方がない」

 

 戦って死ぬ。

 幾ら抗ってみても、時にはどうしようもない事もある。

 今回は、イーリスにとって偶々そうだった。

 きっとそれだけの事なのだ。

 

「テレサが無事で良かった。

 流石に二人ともだと、俺も泣いたかもしれん」

「……それは、本当ですか?」

「イーリスだけでも、悲しいのは間違いないけどな。

 でも、助けられる可能性はあるんだろ?」

 

 また少し泣きそうなテレサの頭を、軽く撫でながら。

 アウローラに確認の言葉を投げかける。

 彼女は軽く肩を竦めてみせて。

 

「繰り返しになるけど、絶対の保証はないからね?

 《摂理》に還った後じゃ、流石に私もどうしようもないけど。

 竜の腹に呑まれたぐらいなら、十分望みはあるわ」

「よし、だったらやる事は決まりだな」

 

 迷う事も、躊躇う事も何もない。

 やるべき事は明白だ。

 

「飛んでったあの竜を追いかけて、それでイーリスの魂を引っ張り出す。

 後はアウローラに頑張って貰えば、まぁ何とかなるだろ」

「気軽に言ってくれるんだから……。まぁ、勿論頑張りますけど。

 私だって、イーリスに死なれるのは損失だもの」

「だよなぁ」

 

 ここまでの旅路。

 一番最初にイーリスと出会ってから、まぁ本当に色々あった。

 その中で彼女に助けられた事は実際多い。

 本人が嫌でないなら、もう暫くは付き合って貰いたいのが本音だ。

 であれば、先ずはイーリス自身を取り返さねば。

 

『……しっかし。

 何でまたヘカーティアは、イーリスの魂だけ奪ってったんだ?』

 

 ぽつりと。

 丸くなっていた猫――ヴリトラは、そんな疑問を口にした。

 

『正直、理由が良く分からんのよな。

 そっちの彼氏は心当たりはないのか?』

「……正直、断言はしづらい。

 ただ、意味もなくそんな真似をするとも思えない。

 何かしらの目的の上で事に及んだはずだ」

「なんであれ、『良からぬ事』であるのは間違いないだろうがな」

 

 いつも良からぬ事を考えてそうな糞エルフが言うと重いなぁ。

 まぁ向こうの目的がなんであろうと、こっちのやる事は変わらない。

 ただ、問題があるとすれば――。

 

「……どうやって追いつくの?」

 

 ブリーデの言葉に、すぐ答えられる者はいなかった。

 《竜体》と化した大真竜コッペリア――ヘカーティアの姿は、もうどこにもない。

 彼方の空へと飛び去ってしまった後だ。

 嵐を纏って移動する巨竜。

 これは追いつくだけでも相当な難事だ。

 

「魔法で飛んで――は、流石に悠長すぎるわね。

 そもそも速度が違い過ぎる。

 飛竜を出して足に使う手もあるけど、嵐で吹き飛ばされかねない。

 貴女、御大層な力を身に付けたんだから何とかならないの?」

「悪かったわね、自力で飛行できないナメクジで!」

「まぁまぁ」

 

 一瞬で喧嘩になりそうなドラゴン姉妹を、とりあえず宥める。

 ホント、剣が届かない問題に関しては俺はどうしようもないな。

 

「この有様では、飛行用の機体も使える物は残っていなさそうだな」

「あぁ。高速艇があればまだ可能性もあったが……」

 

 ウィリアムとアカツキ。

 二人も難しそうな様子で唸っていた。

 テレサは焦りと不安を隠しきれない顔で、何かないかと考え込んでいる。

 さて、本当にどうしたもんか。

 

「……やれやれ、仕方あるまいな」

 

 そう口を開いたのはボレアスだった。

 背に広げた翼を軽く揺らしながら、大げさに肩を竦めて。

 

「長子殿は姉上との喧嘩で随分と消耗なさっている様子。

 空を飛ぶ事すら手段を考えねばならぬほどだ。

 であれば、ここは我がひと肌脱ぐしかないようだな?」

「……随分エラそうに言ってるけど。

 アンタ一人が抱えて飛べる人数なんて、それこそたかが知れてるでしょ」

「この状態であればな?」

 

 不機嫌そうなアウローラに対し、ボレアスはニヤリと笑ってみせた。

 

「竜の身となれば、この場の全員を運んで飛ぶぐらい容易い事。

 これより上等な案など他にあるまい?」

『……竜になるって簡単に言うけどよ。

 《竜体》になるだけの力なんて戻ってたか、お前?』

「良い質問だな、兄弟」

 

 欠伸混じりに指摘する猫。

 それを待ってましたと言わんばかりに、ボレアスはその首根っこをひっ捕まえた。

 

「手助けが必要だ。

 我だけでは難しいのは確か。

 しかし猫の手も借りれば、限定的に《竜体》を構築する事もできよう」

『チクショウ! 藪蛇だったのかよ!!』

 

 猫はジタバタ暴れるが、今さら手遅れだった。

 片手で兄弟をぶら下げながら、ボレアスは俺の方にも視線を向ける。

 口元は笑みの形にしたまま。

 

「そちらもだぞ、竜殺し。

 剣と、後はお前自身の魔力。

 それも加えたなら、嵐の中を飛ぶぐらいは問題あるまい」

「おう、良いぞ」

「ちょっと??」

 

 特に問題無いので了承したら、横からアウローラが突っ込んで来た。

 

「私は良いなんて一言も……!

 大体、それなら別にボレアスじゃなくて私がやれば」

「アウローラはまだ大分疲れてるだろ?」

 

 傷は大分良いようだけど、消耗してるのは明らかだった。

 それを指摘すると、彼女はぐぅっと唸り声を上げる。

 二の句が継げなくなってしまったその頭を、ぐりぐりと撫でてやった。

 

「後は魔法とか、アウローラはやれる事も多いしな。

 移動に関してはボレアスに任せておくのが一番だろう」

「……そういう貴方だって、相当疲れてるはずでしょう?」

「俺はがんばれば良いからヘーキヘーキ」

 

 大体いつもの事だし、問題は何もなかった。

 呆れた顔のアウローラは、仕方ないとばかりに一つ頷く。

 と、俺の手を傍にいたテレサがぎゅっと握った。

 

「申し訳ありません、レックス殿……」

「いやいや、俺が好きでやってる事だしな。

 テレサこそ、イーリスを助けるんだから気合い入れてくれよ」

「――ええ。それは言われるまでもありません」

「良し」

 

 とりあえず、これで概ね問題はなさそうだ。

 俺は改めてボレアスの方を見た。

 

「悪いが、頼めるか?」

「あぁ。お前の頼みとあれば、まぁ仕方あるまいなぁ」

 

 実際に言い出したのは、ボレアスの方からではあるんだが。

 そんな事は知らぬとばかりに、《北の王》は機嫌良さげに笑ってみせた。

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