256話:夢の終わり


 夢は脆くも消え去った。

 俺の意識が再び浮かび上がったのは、全てを呑み込む闇の中。

 あらゆるものを過ぎ去った《天の庭》へと導く、バビロンの血肉。

 その強大さは変わらずだが、さっきほどの圧は感じない。

 手にした剣に、切り開いた黄昏の残照があった。

 それは多分、共に地の底を旅した彼女――その魂の断片か。

 

「よし」

 

 戦える。

 勝ち目の見えない戦いだったが、今は勝機が見える。

 暗闇の底で、ほんの僅かに差した一筋の光明程度だとしても。

 先ずは片手を伸ばす。

 すぐ傍でぐったりとしているアウローラ。

 彼女もまたバビロンに呑まれ、魂か精神を血肉に引っ張られたか。

 そんなアウローラを抱き寄せて、俺は上を見る。

 変わらず、闇は分厚く全てを塞いでいた。

 

「無事か、ボレアス」

『……あぁ、何とか目が覚めたか』

「だったらちょっとがんばるぞ」

『いつもの事、という奴だな』

 

 笑う。

 笑って、俺は剣の柄を強く握り締めた。

 伝わって来る竜の炎。

 全身を薪のように燃やす感覚。

 足場がないはずの闇の中を、俺は一気に駆け上がった。

 高く、高く。

 それこそ、天の果てを目指すみたいに。

 光のない闇。

 今はもう存在しない、《天の庭》の残骸。

 俺は躊躇いなく、頭上を塞ぐ暗闇に剣を振るった。

 斬り裂く。

 重い何かを切断した時の手応えを、切っ先に感じながら。

 俺は――俺達は再度、バビロンの胎内からの脱出に成功した。

 変わらず、暗雲に閉ざされた空が見える。

 背後では黒い汚泥の海が、激しく渦を巻いている。

 

「っ……レックス……?」

「おはよう。大丈夫か?」

「大丈夫――って、一体どういう状況……」

「そうだな」

 

 目覚めたアウローラは、殆ど意識せずに魔力を展開する。

 おかげで自由落下に身を任せず、何もない空を足場として踏むことができた。

 言葉を交わしながら、俺は視線を下に向ける。

 黒い海は再び、巨大な女の姿を形作ろうとしていた。

 

「こっからが本番、って奴だな」

『あああぁあああ――――ッ!!』

 

 俺の言葉に応える形で、バビロンが咆哮する。

 過ぎ去ったモノを求めて、黒い女は狂ったように吼え猛る。

 

『逃がさない、逃がさない、逃がさない……!!

 私、は――私の、愛を、手放したりはしない……!』

「…………」

 

 何かを言おうとしたが、やめた。

 きっともう、何を言ったところであのバビロンには届かない。

 別れは、あの夢の中で済ませた。

 ならばやるべきことは、言葉を語ることじゃない。

 

「行くぞ」

 

 アウローラとボレアス、二人の声は待たずに。

 俺は躊躇なく、荒れ狂うバビロンへ向かって身を投げる。

 身体に吹きつける暴風の如き魔力の密度。

 無謀であることは百も承知だった。

 

「ちょっと、レックス……!?」

「いや、悪い。ちょっと付き合ってくれ」

「それは構わないですけど……!」

 

 まぁ目が覚めたばっかでコレだもんな。

 微妙に混乱しながらも、アウローラは望む通りに役目を果たしてくれる。

 《力ある言葉》も無しに魔力を操り、ただ落下するだけの俺の身体を支える。

 轟くバビロンの咆哮と、無数に伸びてくる黒い竜のあぎと

 空間を打ち砕く衝撃波の中を、俺は躊躇わずに進む。

 

「バビロン――!!」

『どうして、どうして、どうして……!

 私は、ただ、私の愛が失われることが、恐かっただけ――!!』

 

 バビロンは叫ぶ。

 そこに正気はなく、ただ狂気に冒された過去の残滓だけがあった。

 不滅である《巨人》の血肉。

 今のバビロンは、例え身体の大半を砕こうが関係がない。

 肉体が滅びない以上、どんな傷もダメージにはなり得ない。

 だから、狙うべきは一つだけ。

 あの巨大な血肉の何処かにある、バビロン自身の魂。

 砂漠で一粒の砂金を探すに等しい話だ。

 普通ならば、どう考えても不可能。

 けど、俺にとってそれはさっきまでの話だ。

 

「っ……レックス、大丈夫なの……!?」

「あぁ、大丈夫だ」

 

 立て続けに爆ぜる空間。

 その衝撃を防ぎながら、アウローラは不安げな声を上げる。

 俺はそれに、確信を込めて頷いた。

 手にした剣の切っ先には、あの夢の黄昏が残っている。

 短い旅を共にした彼女。

 バビロンであった、少女の魂。

 刃に取り込んだその欠片が、闇の底に隠れた魂の在り処を示していた。

 俺はただ、その導きに従うだけ。

 

「……分かった。

 貴方がそう言うなら、信じるから」

『どの道、やって貰わねばどうしようもないからな』

「おう」

 

 二人の言葉に、俺は短く頷く。

 襲って来る竜の首を斬り裂き、衝撃波を耐え切って。

 俺達は再度、巨大な女のもとに辿り着く。

 定かな形を持たぬバビロンにとって、その姿は単なる仮初。

 故にまた、バビロンはその身を黒い海へと解いた。

 さっきはこれを不意打ちでやられて、まんまとしてやられたが。

 

「アウローラ!」

「ええ、同じ手が二度も通じると思わないで欲しいわ……!」

 

 呑み込もうとする波濤。

 これをアウローラが巧みに飛び、隙間を縫うように回避する。

 バビロンである黒い汚泥は、巨大な粘体生物スライムじみた動きで触腕を伸ばしてくる。

 そこに宿る狂気じみた妄執。

 俺達を――いや、全てを呑み込むために、バビロンは荒れ狂う。

 

『逃げないで、離さないで……! 私は……!』

『……哀れなものよな、バビロン。

 何ゆえそのような有様となったか、我には想像もつかぬが』

 

 ほんの僅かな憐憫を込めて、ボレアスは呟く。

 剣から引き出した炎が、黒い波濤の一部を焼き払った。

 刃で斬る形がなかったとしても、竜の炎ならば問題ない。

 

『お前の語る永遠とやらも、そろそろ終わる時のようだぞ』

『違う……違う、違う、違う……!

 認めない、私の《天の庭》は、永遠に咲き誇る――!!』

 

 叫ぶ。バビロンは叫び続ける。

 その声に力が宿り、空間を粉砕する嵐となる。

 最早狙いも何もあったもんじゃない。

 《天の庭》と呼ばれた都市の残骸すらも、激しく揺さぶりながら。

 バビロンはもう、無秩序に暴れ回る災厄そのものだった。

 余波を浴び続けるだけでも身体はガタガタだった。

 俺だけでなく、アウローラの方も限界近い。

 最初っから、デカい魔法を一つも使う余裕がなかったしな。

 

「そっちこそ、大丈夫か?」

「平気よ。貴方がいてくれるんだもの」

 

 苦痛を隠すように微笑むアウローラ。

 俺は片手で、その髪を軽く撫でた。

 

「あっちだ。あの何処かに、バビロンがいる」

「……ちょっと言いたいことはあるけど」

 

 指し示したのは、黒い海の一点。

 目印なんて何もない。

 ただ、手にした剣はその奥底にバビロンの魂を感じている。

 アウローラは、一瞬だけ拗ねた顔をしたけれど。

 

「今は良いわ、貴方のためだもの。

 ――決着を付けましょうか」

「あぁ。そのつもりだ」

 

 頷く。

 剣から限界まで引き出した炎で、身体の内側を燃やす。

 灰となっているはずの、自分の魂さえも燃焼させるつもりで。

 文字通り全霊を燃やしながら、俺達は宙を駆ける。

 これまでに二度、呑み込まれてしまった闇色をした海。

 今度はこちらから、その深淵へと突っ込んだ。

 

「ッ――――!!」

 

 重い。

 今までの二度は、向こうから取り込んで来た結果だ。

 しかし今回は、こっちが意図を持っての突入だ。

 攻撃的な拒絶の意思。

 俺達という異物を噛み砕かんと、全ての闇が圧力を掛けてくる。

 コイツはなかなか厳しいな……!

 鎧の上からでも余裕で肉体が軋みを上げる。

 

『悪足掻きが過ぎるな、バビロン……!!』

 

 ボレアスもまた、剣に燃える炎の中から叫ぶ。

 全身から吹き上げた竜炎が、押し寄せる闇の一部を焼く。

 ほんの僅かだが、四方からの重圧が弱まった。

 

「ええ。意見が合うのは癪だけど、いい加減に大人しくしなさい……!」

 

 アウローラもまた、残る魔力を振り絞る。

 拒絶しようとするバビロンの力を押し退けて。

 奥へ、更に奥へと。

 誰も届かないはずの場所へと、俺達を押し進める。

 そして。

 

「――――」

 

 唇から漏れた声は、音もなく掻き消えた。

 時間の流れさえ凍り付いてしまったような、途方もない闇の奥底。

 ただ冷たく、温もりの断片すら感じられない。

 物理的にはどれだけ深くを潜ったのか。

 その場所では、あらゆる感覚が意味を為さない。

 本来なら、視覚も役に立たないはずだ。

 けど、俺達は確かにそれを見ていた。

 虚無が横たわるだけのはずの其処にある、僅かな光を。

 まるで、黄昏に消えようとする陽光の残滓。

 それこそがバビロンの魂だと、俺は一目で理解できた。

 

「――バビロン」

 

 呼びかける。

 声さえも、虚無である闇の底では届かないはずだった。

 今口にした言葉も、音としては聞こえていない。

 けれど、届くべき相手には届いたようだった。

 微かにだが、沈んでいる光が瞬くのを感じ取れた。

 聞こえている。

 届いている。

 やっぱり、あの光こそがバビロンの魂だ。

 

『――ダメ、ダメよ。そんなのは許さない』

 

 物理的な声ではなく、頭に直接響く強烈な意思。

 それもまた、バビロンの声だった。

 失われた愛にもがいている、狂った女の哀れな懇願。

 

『どうして、どうして理解してくれないの……!

 私の《天の庭》は永遠で、その繁栄と幸福は確かなのに……!

 何故、自らの手で楽園を放棄しようとするの?

 何故、敢えて苦しみの中で生きようとするの?

 ダメ、ダメよ、そんなのは――』

 

 愛を語る拒絶の意思。

 それはもう、応える意味のない戯言だった。

 狂い果ててしまった、女の哀れな繰り言に過ぎなかった。

 

「アウローラ」

「ええ、分かってる」

 

 音にならない声。

 けど、意思は互いに通じ合っている。

 俺とアウローラは互いに頷き合う。

 そして、剣を構えた。

 哀れな懇願とは裏腹に、相変わらず殺人的な重圧が俺達を襲っている。

 これはボレアスの方が抑えてくれていた。

 

『長くは持たせられんぞ』

「ありがとうな。もうすぐだ」

 

 ボレアスに礼を言って。

 アウローラが操る魔力に乗って、俺は其処に辿り着く。

 死せるバビロンが眠る、《天の柩》に。

 

『嫌……! 嫌、やめて、お願い……!!』

「――別れはもう、済ませたからな」

 

 間近に迫る終焉を予感したか、バビロンの――いや。

 バビロンであったはずの女の声は、強い焦りを帯びていた。

 恐怖と動揺が、全てを呑み込むはずの闇全体を震わせる。

 その中で、ただ一つ。

 闇の底に横たわる光だけが、どこまでも穏やかだった。

 まるで、その時の訪れを静かに待っているようで。

 

「おやすみ、バビロン」

 

 当然、返事はなかった。

 それでも俺は、あの少女が微笑んだように思えた。

 躊躇う理由は欠片もなかった。

 振り下ろす。

 刃に残ったのは、微かな手応えだけだった。

 

『あ―――あ、あぁぁああぁああああああ――――ッ!!』

 

 響くのは、闇そのものの断末魔だった。

 バビロンを蝕んでいた狂気。

 その終わりが訪れたことを告げる、それは鐘の音色に等しかった。

 叫ぶ。闇が叫んでいる。

 中心であるバビロンの魂は、断ち斬った刃に呑まれて消えた。

 最早、《天の庭》は失墜したのだ。

 崩れる。崩れ落ちる。

 あれだけ分厚かったはずの闇が、脆く乾いた泥のように。

 

「…………」

 

 別れを終えた相手に、語るべき言葉はなかった。

 アウローラもボレアスも、何も言わずに消え去る闇を見送っていた。

 だから俺も、黙ってその様を見ていた。

 それは直前に見た、夢の終わりそのものの光景だった。

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