第六章:たとえ、天の庭が枯れ落ちても

253話:お前のそれは愛じゃない


 ――随分と長らく、窮屈な思いをして来た気がする。

 剣の柄を握り、身に帯びた甲冑の重さを確かめる。

 ついでに、自分の五体の感覚も。

 うん、やっぱり身体があるってのは良いモンだな。

 

「レックス? 大丈夫?」

「あぁ、平気だ」

 

 気遣って声を掛けるアウローラ。

 その頭を軽く撫でる。

 柔らかい髪や肌の感触。

 生身の五感で感じるのも、随分と久々だ。

 ……少しばかり、地下でのことを思い出す。

 記憶を無くし、短い旅路を共にした少女のことを。

 バビロン、《古き王》の一柱。

 そして、かつての《天の庭》の支配者。

 これから、俺達が戦うべき相手だ。

 

『――地の底で何があったかは知らんし、問う気もないがな』

 

 剣から、直接頭に響いて来る思念。

 ボレアスは、剣の深淵で力強く燃える炎そのもの。

 その熱で、呑み込もうとする暗闇を容易く焼き切る。

 

『ここでバビロンを止めねば、何もかもが奴の胎の中だ。

 当然、分かっているだろうがな』

「あぁ、分かってる」

 

 頷く。

 どうあれ、バビロンを止めなければこっちが死ぬ。

 いや、死にはしないかもしれないか。

 バビロンに呑まれ、花開く《天の庭》で全てが一つになる。

 想像するだけで、なかなかぞっとする話だ。

 

「とりあえず、一度脱出するか」

「ええ。上がるのは任せて頂戴?」

 

 そう言って、アウローラは俺の腕に抱き着いて来る。

 同時に魔力の層が俺達を包み込んだ。

 

「一気に行くけど、問題ないわよね」

「頼んだ」

 

 短く頷くと、アウローラは嬉しそうに微笑んだ。

 直後に、全身を思いっ切り引っ張られる感覚が襲って来る。

 呑み込もうとする闇を蹴散らして。

 まるで夜空を裂く流れ星のように、上へと。

 

『――――って』

 

 不意に、頭に響く声があった。

 アウローラや、ボレアスの声ではない。

 聞き覚えはないのに、聞き覚えのあるその声は。

 

『――待って――』

 

 誰のものなのかは、すぐに分かった。

 弱々しく、けれど空間を満たすような膨大な少女の声。

 

『待って――行かないで――私、は――』

「……悪いな」

 

 恐らく、何を言ってもまともに伝わりはしないだろう。

 地下で最後に見た時点よりも、明らかに様子がおかしくなっている。

 何故、そんな狂気に陥ってしまったのか。

 理由も原因も、今の俺には分からない。

 だから、俺は俺のやるべきことをやるだけだ。

 

「ッ………!」

 

 闇を抜ける。

 重い暗闇を置き去りに、俺達は空に出た。

 青い空を期待したが、残念ながら見えたのは分厚い暗雲だ。

 空を呑み込み、地を押し流そうとするような。

 同じ物を見上げながら、アウローラは不快そうに顔を歪めた。

 

「? どうした?」

「……いえ、何でもないわ。

 少し、覚えのある気配がしただけ」

『確かに、あの雲からは知っている気配がするな。

 あの死にたがりは、この時代でもまだ生存していたのか?』

 

 良く分からない話をされた。

 どうも、あの雲からはアウローラ達の知ってる相手の気配がするらしい。

 となると、やっぱり《古き王オールドキング》の誰かが関わっているのか?

 気にはなるが、今はそれより目の前のことだ。

 

『さて、出てくるぞ』

 

 囁くボレアスの声には、どうしようもなく張り詰めたものがあった。

 常に尊大な態度を崩さない竜の王であっても。

 これから現れるモノに対しては、戦慄を隠し切れないらしい。

 かくいう俺も、さっきから全身に悪寒が走りっぱなしだ。

 見る。それでも、目をそらさずに。

 オレ達が出て来たばかりの、地の底まで通じる黒い大穴を。

 

『――――あ……あ、ああぁああ――――』

 

 歌うような声。

 嘆くような声。

 ただ一人の声のはずが、何千何万と折り重なった声。

 真っ黒い泥が溢れ、廃墟の都を黒い海へと塗り替えていく。

 莫大な魔力が空間を呑み込み、空を鎖している暗雲さえ押し退ける。

 ……ここまで、真竜とは何度も戦って来た。

 ある程度の差はあれ、どれもこれもヤバい相手だった。

 それらの経験と比較しても、今回は突きぬけている。

 少し前に戦ったばかりの、大真竜ゲマトリア。

 その《竜体》を前にした時と同じか――下手をしたら、それ以上の。

 

『アアァアアアアアぁ嗚呼ああああァぁああ――――――ッ!!』

 

 嘆きに満ちた叫びが、世界を震わせる。

 黒い大穴から姿を現したのは、一人の女だった。

 但し、サイズが尋常ではない。

 見ているだけで遠近感が狂う、全てが黒く染まった巨大な女。

 あまりにデカ過ぎて、周りにある廃墟の街並みが玩具の模型に見えてくる。

 まだ穴から見えているのは、腰から上の上半身だけ。

 それだけでも大概なデカさだが、恐らくその下にはまだ肉体がある。

 下手をすると、今見えている範囲の何倍もの質量で。

 長く伸びた黒い髪。

 それらの先端が蛇にも似た数多の竜の首に変じている。

 赤く燃える瞳を見開き、ようやく辿り着いた地上をギョロリと見渡している。

 ……いやしかし、ホントにデカいなコレ。

 

「……まぁ、随分と醜くなったものね。バビロン」

 

 呟くアウローラの顔は笑っていた。

 笑ってはいたが、その表情には苦いモノが多分に混ざっている。

 身体を乗っ取られたことにたいする、怒りや敵意。

 多分、それだけの感情ではないはずだ。

 根拠はないが、何となくそんな風に感じた。

 

『あ、あぁあ――愛し、てる……愛してる、愛し、てる。

 私――は……私、だけ……は、あなた達を、愛して、る――』

 

 苦しむように。

 悲しむように。

 黒い女は――目覚めたバビロンは、大きく身もだえていた。

 その口から、壊れた愛を囁き続けながら。

 それが狂気ゆえのものか、或いは彼女の中では揺るがない真実なのか。

 俺にはハッキリとしたことは言えない。

 

『こんな、世界で……苦しみに、満ちた、この地で……。

 私、私だけは、あなた達を――愛して……愛して、る、愛して――』

「……お前の愛は、それは素晴らしいものでしょうね」

 

 ぽつりと。

 相手に届くと思っていない、独白に近い言葉。

 アウローラはバビロンから目をそらさず、穏やかな声で呟く。

 

「人間を、人間という種を愛した愚かな竜。

 お前の愛は素晴らしいものでしょう。

 見返りを求めず、ただ与え続けることを良しとした愛。

 ……いえ、それで人という種が幸福の中で繁栄することこそ。

 お前にとっては何よりの報酬だったんでしょうね」

 

 口元が、僅かに皮肉の形に釣り上がる。

 ほんの少しだけ、学園に残った水辺の魔女を思い出した。

 人を愛し、人と共に歩むことを選んだ竜。

 かつてのバビロンも、あの優しい魔女と同じ気持ちだったのか。

 それが、今は。

 

「認めましょうか、バビロン。

 お前は愚かだったけど、その在り方そのものは美しかった。

 誰かを愛することを知った今なら、少しは理解できる。

 お前は本当に愚か者だったけど。

 人間を愛していたという一点だけは、疑いようもなく真実だったわ」

『あ――あぁぁあぁ――私、は――』

「……だというのに、その様はなに?」

 

 語る声に、どうしようもなく不快感が混ざる。

 アウローラは怒っていた。

 自分がバビロンにされた仕打ちに対して、ではない。

 恐らくは、本来とは歪んでしまったバビロンの在り方そのものに。

 これ以上なく、アウローラは憤りを感じているようだった。

 

「人間を愛すると言ったその口で、人間を食って肥え太る。

 ――ハッ! 何が《天の庭》よ、永遠に咲き誇る理想郷!?

 こんなもの、人間が妄想するどんな地獄にも劣る最低な代物じゃない!」

 

 笑う。

 アウローラは嘲笑う。

 愚かに過ぎた女の末路を。

 一時は、一つの器を共有した古き姉妹の末路を。

 ……少なくとも、地の底で出会った彼女にはまだ理性があった。

 今は、大分精神が混濁しているようだが。

 果たして、アウローラの言葉はバビロンには届かないのか。

 

『――――――』

 

 答えはない。

 少なくとも、声の形では。

 けれど、定かではなかった意識が。

 無数に並ぶ竜の燃える瞳が、一斉に俺達の方を向いた。

 正確には、笑うアウローラへと。

 剣に宿る炎の中で、ボレアスもまた笑っていた。

 

『流石、相手を煽ることにかけても並ぶ者無しだな。長子殿は』

「それ誉め言葉じゃなくない?」

『褒めているとも。流石は竜の長子とな』

「外野は黙ってて貰える? あ、レックスは良いのよ?」

 

 許された。

 まぁ、それは兎も角だ。

 

『――――違、う』

 

 声。

 嘆きでも、悲しみでもない。

 まだ濁ってはいても、意思の一端を感じさせる声。

 それを耳にして、アウローラは笑みを深める。

 

「……あら、もしかして聞こえてたの?

 だったら良かったわ。

 私も壁に文句を垂れてるだけじゃないかと、少し心配したのよ」

『違、う……私、は――私の、《天の庭》、を――』

「違うと、どれだけ口で否定したところで。

 起こった事実は変わらない。

 お前の《天の庭》は失墜した」

 

 黒く空を閉ざす暗雲と。

 黒く地を呑み込む暗黒の狭間で。

 歌うように語りながら、アウローラはその手を広げた。

 既に朽ち果て、墓標の如くに横たわるだけの、永遠だったはずの都を。

 バビロンの目に、それが見えていないはずはない。

 見て見ぬフリは許さないと、そう示すように。

 

「――これが全てよ、バビロン。

 全て滅んだ、何もかもが過去になった。

 何度でも言ってあげましょう――お前の《天の庭》はとうの昔に失墜したの」

『……っ、違う……違う、違う違う違う――――!!』

 

 叫ぶ声が大気を揺らす。

 声を出すという行為だけで、莫大な魔力が嵐の如くに吹き荒れる。

 天変地異の具現という表現が、大げさでも何でもない。

 バビロンの力は、まったく底が見えなかった。

 

『私の、《天の庭》は、まだ終わっていない……!!

 私は――私は、彼らを、愛してる!!

 だから絶対に、終わらせない――終わらせなんて、しない……!

 皆が信じた永遠を、私は、私が今度こそ……!』

「……永遠なんて無いのよ、哀れなバビロン」

 

 怒り、嘆き、己自身を吐き出すようにバビロンは叫ぶ。

 それに応じるアウローラの声に混ざるのは、微かな憐憫だった。

 

「永遠はない。父なる《造物主》さえ、それを夢見て半ばで散ったの。

 不死であるはずの私達ですら、永遠ではいられなかった。

 そんな不完全な私達がどうして、永遠なんて作れると思うの?」

『ッ――――それ、を……私が、成し遂げるの……!

 絶対に、絶対に――――!!』

「……分かっていたけど、言葉じゃどう重ねても無駄ね」

 

 そう、それは分かり切っていた結論だった。

 アウローラは笑って、すぐ傍にいた俺の方に身を寄せる。

 片手で、その髪を軽く撫でておいた。

 

『言いたいことを言ってスッキリしたか?』

「ま、多少その意図があったのも否定はしないわ」

「満足したなら何よりだな」

 

 頷く。

 改めて剣の柄を握れば、熱い炎が身体の芯を満たしていく。

 目覚めたバビロンは強大だ。

 大真竜であるゲマトリアすら超えるかもしれない。

 放つ魔力は空間を満たし、渦巻く嵐そのもの。

 これに挑むことが、どれほど無謀なのかは馬鹿でも分かる。

 

『だが、行くのだろう?』

「そりゃな」

 

 笑うボレアスの声に、軽く応えて。

 俺は真っ直ぐに、荒れ狂うバビロンを見た。

 ……憐れみはない。

 ただ、ほんの少しだけ哀しくはあった。

 僅かな時だったが、何もない旅路を共にした記憶はこの胸に残っている。

 だが――いや、だからこそ。

 

「さぁ、言いたい事は言ったし。

 始めましょうか、レックス」

「あぁ」

 

 アウローラが操作する魔力に乗って、俺は宙を駆ける。

 真正面から一直線に、巨大なバビロンに向かって。

 

『私は――私は、今度こそ、私の愛を永遠にする――!!』

「ぶっ殺す」

 

 今は届かない言葉を、俺は敢えて口にした。

 それが名も知らなかった彼女バビロンにしてやれる、唯一のことだと信じて。

 

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