幕間5:深淵を超えて
……どれだけ、この暗闇に沈んでいるのだろう。
時間の感覚はとうに消失してしまった。
ほんの数日とも思えるし、既に何百年も経過したようにも感じられる。
どの道、時間の経過なんかに意味はない。
ここは《
私の意識は、あの大食い女に呑み込まれたままだ。
「――――」
微かに、何かが聞こえた気がする。
……何が?
聞こえない、聞こえるはずがない。
ドロドロに溶け合い、煮詰めに煮詰めた魂の混沌。
大半は千年以上も前の《天の庭》の住民だった者達、その成れの果て。
自分と他人の境界を失い、誰も彼もが混ざり合う。
幸福な夢に溺れるだけの彼らは、わざわざ「誰か」に呼びかけはしない。
「――――……!」
また、何かが聞こえた気がする。
……あり得ない。
外からの刺激なんて、期待しても仕方がない。
一体誰が、この地獄の窯の中に飛び込むというのか。
地の底で戦っていたレックス達は、既に呑まれてしまった。
油断――あぁ、それはどうしようもない油断だった。
私が迂闊だったばかりに。
胸の奥を、チリチリと焼く炎がある。
あぁ、バビロン。
大喰らいで色惚けた、どうしようもない女。
お前がどれだけ望んでも、絶対に彼だけは渡さない。
それだけは認められないと、私は一人きりで闇へと沈む。
「――…ローラ……!」
……聞こえた。
聞こえた?
何が、いいえ、そんな事はあり得ない。
バビロンの血肉に呑まれてしまわぬよう、自分自身をより強く固める。
肉体の主導権は奪われ、魂だけで漂っているに近い状態。
一瞬でも気を抜いてしまったら、私もまたこの混沌に呑まれかねない。
今、この胸に抱き締めているモノごと。
それだけは、それだけは絶対に認められない。
だから、私は。
深く、もっと深く、魂を闇の底に――。
「……アウローラ!」
今度は、ハッキリと聞こえた。
アウローラ、と。
私を、今の私の名を呼ぶ声が。
彼――ではない。
彼、レックスもまた、私と似た状況だから。
自力で抜け出そうとするには、バビロンの闇は重い。
いえ、でも――本当に、そんなことがあり得る?
私も彼も、呑み込まれてしまった。
アイツ……ボレアスも、剣との繋がりが薄れて力を失ってるはず。
まったく動けない、という事はないでしょうけど。
だとしても、バビロンの中に飛び込むなんて無謀に過ぎる。
だから、そんなのはあり得ない。
あり得ないはず、だけど。
「アウローラ!」
聞こえる。
声、誰の声?
私を呼んでいるのは、イーリス?
弱々しいのに、力の限り必死で私の名を呼んでいる。
少しだけ、絡みつく闇が軽くなった気がした。
それと同時に、身体が浮き上がる感触。
これは――まさか、本当に……?
期待が胸を過るけれど、やっぱり簡単にはいかない。
意識の奥底で、私はまだバビロンに掴まれているのを感じた。
既に自身の肉体を得て、覚醒を果たそうとしてるのに。
未だに私……いえ、彼のことに未練があるらしい。
だから、絶対に渡さないわよ。
再び闇へと引き摺り込もうとする力に、私は堪えるしかない。
あと少し。
あと少しで、私自身を取り戻せる。
イーリス達が呼びかけて、私を引き戻そうとしてくれている。
けれど、最後の一線が越えられない。
バビロンは私を、彼を逃がすまいと絡みついて来る。
これは、流石に……。
「目ェ覚ませよ、この貧乳ドラゴン――!!」
どうしようもない、と。
諦めかけた私の耳に、その馬鹿デカい声が届いた。
頭のすぐ横で、大きな鐘をガンガンと鳴らしまくったみたいな。
ついでに、顔に割と洒落にならない衝撃が走った。
しかも一度じゃない。
二度、三度と、それこそ鐘を叩くみたいな。
「ちょ、痛っ、痛い! 何してッ!?」
「イーリス! やめろ! もう起きてる、起きてるから!」
暗く閉ざされていたはずの視界が、一気に開けた。
あと顔が痛い、物凄く痛い。
ちょっと待って、一体何発殴ったの。
涙で滲んだ目で見たのは、必死の形相で拳を握ったイーリスと。
それを泣きそうな顔で羽交い絞めにしているテレサ。
……あと何か笑い転げてるボレアスは、とりあえず無視しておきましょう。
いや、というか。
「なに……ホント、顔が……!」
「おう、おはよう。爽やかなお目覚めか?」
「こんな顔面が痛くなかったら最高の気分だったわね……!」
普段だったら、イーリスの細腕なんかで叩かれても痛くはないけど。
バビロンに取り込まれ、意識もなく完全に無防備な状態。
そこで思い切りガンガン殴られたら、流石に私も痛い。
いやもう、冗談でも洒落でもなく本気で痛い。
流石にちょっと、叩き返してやろうかと思った――けど。
「……そっか。
じゃあ、とりあえず何とかなったって思っていいよな?」
そう言って、イーリスは力の抜けた顔で笑った。
身体の方も脱力したところを、羽交い絞めにしていたテレサがそのまま支える。
……あぁ、そうか。
ずっとこの闇に沈んでいた私は、知る由もないけれど。
イーリス達も、必死でここまで辿り着いたのね。
「……弱いクセに、どれだけ無理したのよ。貴女」
「オレ一人じゃねぇよ。姉さんと、後はまぁボレアスもいたし。
他にも、色々あったんだよ」
「そう。お礼は言わないわよ?」
「思いっ切りその面殴れたしな。チャラで良いか?」
「誰に対して何を言ってるのか、分かってるのかしらね。この子」
ホント、思わず笑ってしまうわ。
姉のテレサが蒼い顔をしてるけど、そんな恐がらなくて良いわよ。
貸し借り無しで良いのなら、私もそれが楽だもの。
……しかし。
「刺激を与えて呼びかけるために、叩いたのまでは分かるけど。
それなら顔じゃなくて、胸とかお腹とかでも良かったんじゃないの?」
「いや、薄い胸より皮が厚そうな顔面が一番頑丈かなと」
「やっぱりお仕置きした方が良い??」
「すいません、主よ……! どうかお慈悲を……!」
冗談よ。
それよりもボレアスは、いい加減バカ笑いを止めないと冗談じゃ済まさないわよ。
「ハハハハハ……! ヒヒヒヒヒッ。
いやはや、流石の長子殿も形無しよなぁ」
「お前には遠慮も容赦もする必要がないっての分かってる?」
「おぉ、こわいこわい。
それよりも長子殿、他の者は?」
「……ヴリトラは、ちょっと分からないわ。
アイツのことだし、どっかに沈んで寝てると思うけど」
それに関しては、正直あまり心配はしていない。
腐っても寝惚けても《
バビロンに呑まれたからと言って、簡単に溶けて消える奴じゃない。
そして。
「レックスの方は――此処にいるわ」
私は、自分のお腹の辺りを軽く撫でてみせた。
まぁ実際にそこにいるワケじゃないし、ちょっとした比喩のつもりだったけど。
「お前……まさか、レックス喰ったのか……?」
「あ、主殿……いや、まさかそんな……」
「またか。またやったのか長子殿」
「ねぇ、少しぐらい冗談ってものを分かって貰えないかしら??」
そんな本気でドン引きした反応はやめて頂戴。
あとボレアスは「またか」とか言うな。
確かに前科はありますけど、今回はそういう話じゃないから。
「あの《聖櫃》を通じて、バビロンの胎内に引き摺りこまれた時。
咄嗟に私自身の内側にレックスだけは封じて避難させようとしたのよ。
結局、半端になって身体だけを封印する形になったんだけど」
「ほう、それで?」
「……レックスの魂は、鎧と剣を肉体代わりに地の底でバビロンの残骸と戦ってた。
結局、そのまま私を乗っ取っていたバビロンに呑まれてしまったけど。
私の内に封じた肉体と、呑まれてしまったレックスの魂。
二つは、か細いながらも今も繋がってる」
だから。
「貴女達が、この闇の底から私を引き上げたように。
今度は私が、彼のことを救う番」
祈りの形に手を組んで、私は己の身体に魔力を循環させる。
バビロンに取り込まれた影響で消耗が酷いけど、今は無理のし時だ。
少なくとも、イーリスやテレサはここまで良くやってくれた。
それなら私も、せめて同じぐらいはしないと。
「……来て」
呼ぶ。
それはさっきのイーリスみたいに、大きな声ではないけど。
絶対に伝わると確信している。
この身に封じた彼自身の肉体を通じた、魂との繋がり。
それに声と想いを通せば、彼は必ず応えてくれる。
だから、私は繰り返す。
「来て、レックス。私は――私達は、ここにいる」
呼ぶ。
何度も繰り返し、私は囁く言葉を重ねる。
だんだんと、身体の底から湧き上がる熱を感じる。
生きた熱を。
高鳴る心臓の鼓動を。
私のものではない、私が最も愛した熱と音。
もう、すぐそこまで来ている。
「さぁ、戻って来て。私の
熱が、愛しさと共に胸から溢れた。
施した封印は、内側から干渉すれば自然と開くようにしてある。
だから、目覚めた彼は躊躇いなくその場に現れた。
術式が解けた光を散らして。
見慣れた甲冑姿が、私の前に立っていた。
――あぁ、やっと……。
やっと、再会できた。
離れていた時間はそう長くないはずなのに。
遥かな旅を巡っていたような、そんな気さえしてくる。
「あ……」
私が何かを言うより早く。
甲冑の彼――レックスは、私の身体を抱き締めた。
必死さはないけれど、力強く。
装甲越しにでも感じられる温もりに、思わず泣きそうになってしまった。
「ただいま」
その一言も、胸に刺さるみたいに響く。
だから、私も。
「ええ、おかえりなさい。レックス」
震えそうな声で、彼の言葉に応える。
抱く腕の力がもう少しだけ強くなり、すぐにちょっとだけ離れた。
彼は私を片手で抱えながら、イーリス達の方を見て。
「悪いな、大変だったろ」
「……ホントだよ。このスケベ兜め。
マジでもう、無茶苦茶大変だったんだぞこっち」
「ホント助かったわ。ありがとうな」
片手でわしゃわしゃと。
子供にするみたいに、レックスはイーリスの頭を撫でる。
された方は顔を真っ赤にして、それこそ子供みたいにジタバタするけど。
姉のテレサにも、レックスは同じように髪を撫でた。
「そっちもな。俺一人じゃどうしようもなかったわ」
「……いえ、いえ。お役に立てたのなら、何よりの喜びです」
あぁ、そんな嬉しそうに笑っちゃって。
まぁ頑張ってくれたのは事実だから、私は何も言いませんけど。
近くで見ていたボレアスは、ニヤリと笑いながら。
「なんだ、我には何も無しか? 竜殺しよ」
「別にそういうの求めてないだろ、お前。それより、身体の方は大丈夫か?」
「貴様のせいで随分と調子が悪かったがな。
まぁ、その不始末については大目に見てやろうではないか」
尊大極まりない態度だけど、今は見逃してあげましょう。
ボレアスは言葉を交わしながら、その身を燃える炎へと変じていく。
そうして、その炎は改めてレックスの剣に宿った。
流石に、やるべき事は心得てるわね。
『さぁ、此処はいい加減居心地が悪い。
態度の悪い客人が長居するのも、家主に迷惑であろうよ』
「だな」
レックスは短く頷いて、その手に剣を掲げる。
竜王の炎を宿した、竜を殺すための剣を。
「アウローラ、イーリス達を頼めるか?」
「ええ、『隠れ家』を開いて一時避難させましょうか。
……あと、私だって返したい借りはあるのよ?」
主に、私の身体で好き勝手してくれたバビロンに対してね。
その言葉に、レックスは少し笑いながら頷いた。
片手を伸ばして、宥めるみたいに私の頭を撫でてくる。
別に、不機嫌ではないから大丈夫よ。
「……こっちはもう、やれるだけはやったからな。
後は頼んで、構わないよな?」
「ご武運を。私とイーリスのことは、どうか心配なさらずに」
「あぁ」
テレサとイーリス。
二人の姉妹に、レックスは短く応える。
私は「隠れ家」の術式を開いて、そこに姉妹を送り込む。
完全に姿が見えなくなる前に、レックスは二人に向けてハッキリと。
「
そう、力強く宣言した。
それが、この朽ち果てた《天の庭》の残骸。
その最後の戦いを告げる、
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