幕間4:歩き回る影法師
ロンデミオにとって、この世界は実に平和なものだ。
平和。平和。平和。平和。平和。
何事もない。
何事か起こっても、認識しなければ何もないのと同じ。
平和だ。老人に与えられた世界はいつだって平和でしかない。
だからその日も、ロンデミオは読書に勤しんでいた。
部下に対する指示は既に終えてある。
薄めた酒を口にしながら、古びた文字の一つ一つを追って行く。
「……昔はもっと強かったのだがな」
歳を取ったせいか、あまり強いアルコールは身体が受け付けなくなってきた。
それを寂しく思う反面、自分がそれだけ長く生きた証左でもある。
何事もなく――いや、むしろ望む通りに歳を重ねる。
それが一体どれほどの贅沢であろうか。
ロンデミオは己の成功を、これまで疑ったことはない。
全て、この限られた箱庭に等しい部屋が示している。
ここにいる限り、ロンデミオの世界は平和なのだ。
「ふむ――今回はいまひとつだったな」
独り呟き、目を通していた書物を閉じる。
この時代では貴重な紙の本。
しかもそれがかつての大バビロン時代の代物となれば、どれほどの価値か。
内容そのものは、《天の庭》がまだ健在だった頃の記録。
日常的なものを書き記しただけの本だ。
史料としては間違いなく一級品。
ただ、読み物として面白いかはまた別問題だ。
中身に対して、ロンデミオが評価する部分があるとすれば――。
「既に、滅びた者の記録か」
呟く口元は、自然と笑みの形に綻ぶ。
この書物には、消え去る以前の《天の庭》について書かれている。
本の著者も含めて、何もかもがこの世にはない。
栄華を極めたはずの文明は、この朽ち果てた残骸の都となってしまった。
そんな地に、ロンデミオは生きている。
何もかもが失われた後の場所に、平和と安寧を享受しているのだ。
その優越感は、薄めた酒のアルコールよりも美味だ。
一口、その酒でまた唇を湿らせる。
「消え去った者、敗北した者。
それが残したモノを、私が楽しむ。
あぁ、これほど文化的な娯楽はそうあるまい」
ロンデミオは笑う。
笑いながら、貴重であるはずの書物を乱雑に放り捨てた。
一通りは読んだ以上、もうこの本を開くこともない。
故に価値はなくなったと、ロンデミオはもう一瞥すらしなかった。
グラスの酒を喉に通してから、一息。
集中して本を読むのも、なかなか体力を使う作業だ。
「さて……」
次はどれを読むべきか。
そう考えながら、ロンデミオは並ぶ本棚に視線を向ける。
まだまだ、そこには読んでいない書物が幾つもある。
自分の寿命が尽きるまでに、その全てを読むことが人生の目標だ。
ロンデミオにとって、この世界は実に平和なものだ。
平和な世界で、酒を呑みながら読書を楽しむ。
素晴らしい。
この世で最も恵まれているのは、紛れもなく自分だろうと。
ロンデミオは疑うことなく信じていた。
同時に、それらは全て自らで勝ち得た功績である、と。
「次は物語的なものを読むのも悪くはないか。
少々趣味の合わないものも多いが……」
そういったものから楽しみを見出すのも、また人生の潤いだ。
どれだけ老いても、自分が枯れたなどとは思わないこと。
それがロンデミオの人生哲学だった。
――平和に浸りきっている老人は、何一つ気付かない。
拠点に常駐しているはずの部下達の気配が、すっかりない事に。
時間を考えるなら、とうに仕事を完了しているはずのシラカバネ。
そちらからも音沙汰が一切ない事にも。
ロンデミオは、何一つ気が付いていなかった。
気付かないまま、暢気に流れる時間を浪費し続ける。
部屋には窓もあったが、ロンデミオは変化を嫌う。
外の景色にもさして興味がないので、大抵は閉め切っていた。
だから、この狭い空間以外で何が起こっているのか。
ロンデミオは、何一つ気が付いていなかった。
「……ふむ、そうだな。
今日は気分も良い。
ちょっとばかり酒を増やしても良かろう」
誰に聞かせるでもない言葉。
誰も聞く意味のない言葉。
安楽椅子で揺られることだけが役割の老人。
彼はグラスに新たな酒を注ぐ。
薄めている分だけ満足感は少ないが、味は悪くない。
ついでに少々小腹も空いたな、と。
常備してある、赤い果実も手に取った。
手のひらサイズのそれを、ロンデミオは直接口にした。
行儀は悪いと思っているが、彼はそういう食べ方を好んだ。
血肉のように甘く、濃い味わい。
《商団》から特別に取り寄せた、上質な「バビロンの杯」。
「カーライルの若造は気に入らんが、審美眼は確かだな」
優男の顔を思い出しながら、ロンデミオは満足げに頷いた。
酒を呑み、新しい本も手に取る。
内容は――さて、何だったか。
「ふむ?」
ロンデミオは首を傾げた。
何故だか、少し意識が曖昧だった気がする。
調子に乗ってアルコールを増やし過ぎたかと、今さらながらに思う。
――いやいや、流石にまだまだ。
若い頃は酒豪で知られた自分が、この程度で酔うはずがない。
何の根拠もない自信だが、ロンデミオの中ではそれが真理だった。
真っ赤な果実を、また一口齧る。
深い色合いの果汁が手を汚すが、ロンデミオは気にも留めない。
酒を呑む。
血肉の味わいを舌が感じている。
ロンデミオは、何一つ気が付いていなかった。
気付いたところで、もう何もかもが手遅れだった。
「はて――」
手に取った本を開いてから、ロンデミオは眉を潜めた。
先ほど放り投げたはずの、《天の庭》の記録。
偉大なるバビロンへの感謝と共に、栄光と幸福の日々を過ごした者の記述。
つまらない、退屈な日常的な記録だけが綴られている。
もう読み終わったはずのソレに、ロンデミオはまた目を通していた。
何故だろう――何故、何故、何故?
この世界は平和だ。
恐れることなど何もない。
ロンデミオは酒を呑み、果実を口にした。
「…………」
読み進める内容は、先程と変わり映えはない。
それは当然だ。
文章の内容が、いきなり変わったりするはずはないのだから。
変わるとしたら、それは読んでいる側。
綴られているのは、かつてあったはずの繁栄の名残り。
《天の庭》が花開いていた、誰もがそれを永遠だと信じていた頃。
大いなる母、竜王バビロン。
誰もがその愛に包まれていた時代。
「いや――違う、違う。失われてなどいない、全て、何もかも」
ロンデミオは呟く。
その声は熱病に浮かされているかのようで。
酒を呑み、果実を口にしながら。
先ほどまでは退屈だった記録を、食い入るように読み続ける。
そこには、老人の理想とする世界があった。
大きな変化はなく、誰もが幸福を享受し続けられる。
万人が望む理想郷――《
ロンデミオは気付かない。
《
そこから染み出して来た黒い「何か」が、この廃墟の中心を呑みつつある事に。
そして、それが既に足下まで来てる事にさえも。
気付かない、気付く必要がない。
何故ならロンデミオの世界は、何一つ変わらず平和なのだから。
「そうだ――あぁ、そうだ。そうだった。
私は何を勘違いしていたんだ。
こんな場所で、愚かな生業を続ける意味などない。
本当の平和は、本当の幸福はすぐそこにあった。
私は……私達は、それに気が付いていなかっただけじゃないか」
笑う。ロンデミオは笑っている。
それは満ち足りた笑みだった。
これから満たされる笑みだった。
書物を閉じる。
かつていた誰かが残した、《天の庭》の記録を。
それを読む意味も、最早ない。
母たるバビロンの血肉を口にしたロンデミオは、既に「一つ」だった。
本来ならば恐れて然るべき、黒い汚泥。
今も地の底に横たわる大バビロンの亡骸。
そこから溢れ出したバビロンの一部。
椅子に深く身を沈めたまま、ロンデミオは動かない。
酷く穏やかな表情で、ほっと息を吐き出した。
「嗚呼――なんだ。
最初から、こうしていれば良かったのだな」
誰も得することのない箱庭。
大真竜達の都合によって、閉ざされていただけの《天の庭》。
それが、もう間もなく花開く。
ロンデミオは満足げな顔をしていた。
それが最早、個人としての尊厳を失った末の幸福だとしても。
哀れな老人は、大いなる者の愛に満たされていた。
融けかけた自我で、それで良いと笑うだけ。
「咲き誇れ、《
永遠に、この大陸を余すことなく呑み込むほどに。
生きることは苦しい。
死ぬことは恐ろしい。
ならば――繁栄のための生を、不滅たる生を。
死の
熱に浮かされた病人のように。
信仰に生きる賢者のように。
結局、自分では何も成すことのなかった愚かで哀れな老人。
ロンデミオにとって、この世界は実に平和なものだ。
ゆっくりと、身体は黒い汚泥に沈んで行く。
必要なくなった自我の境界は薄れ、全てが曖昧になる。
拠点に詰めていた他の部下達も、同様に残らず呑み込まれた。
彼らもまた幸福だったろうと、ロンデミオは思考の切れ端で確信する。
「嗚呼、どうか――」
《天の庭》よ、久遠の繁栄と共に咲き誇れ。
最早、誰の祈りかさえも定かではない願いの言葉。
それを声として口に出す前に、ロンデミオの肉体は消失した。
魂は解けて、バビロンの一部へと変わる。
――とめどなく溢れ出る。
範囲としては、まだ大穴の周りだけで微々たるもの。
「本体」は未だ地の底であり、嵐の前の静けさに等しい。
故にこそ、本命の嵐はもう間もなく。
死せるバビロンの覚醒。
そして、かつて滅んだはずの《天の庭》の開花。
全ての終わりは、すぐそこまで迫っていた。
『――――さぁ、即興劇だ』
監視を続ける、二柱の大真竜。
彼女らすらも気付いていない、僅かな影。
真に状況を理解している、ただ一人の「何者」か。
何もかもは操れず、けれど何もかもを俯瞰している儚い影。
『舞台の幕を上げよう。
予定外の予定通り、想定なんて星の果てだ。
思惑通りに行くかどうかは――さて、誰に祈るべきかな』
笑う。
汚泥が廃墟を呑み込んで行く様を見ながら、影は笑っていた。
祈るべき神などいないと、そう知っていながら。
誰にも気取られることなく気配は遠のく。
後には、地の底から溢れ続ける《天の庭》の汚泥だけが渦巻いていた。
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