間章:敗北と、もう一つの旅路
231話:一方、その頃
……斯くして、地の底での旅路は終わりを迎える。
死したるバビロンは目覚め、滅びたはずの《王国》が開花する。
盟約の礎たる大真竜達が、最も恐れた事態。
万が一でも刺激せぬようにと、干渉は避け監視に留めて来た。
眠ったモノは眠ったままに。
けれど、その努力もこの瞬間に水泡に帰した。
間もなく全てが終わる。
「……これは失敗したかな?」
霧に閉ざされた《
その遥か上空。
朽ち果てた都を見下ろす一匹の竜がいた。
全体的に、鋭角な印象を見る者に与える銀色の竜。
装甲めいた鱗を纏うその竜の背に、二人分の影が佇んでいた。
一人は、丈の短い男物の服装をした少女。
常はフードで表情を隠しているが、今はその素顔を晒している。
少年の硬さと、少女の柔らかさを併せ持つ中性的な容貌。
緋色の髪を何本か尻尾のように垂らし、先端が風が吹く度に揺らめく。
何よりも特徴的なのは、その眼だった。
右の眼は金色に輝く陽光の瞳。
そして左は、青白い光を瞬かせる奇妙な眼。
良く見たならば、左眼は機械で出来ていることが分かるだろう。
極めて高度な技術で造られた、青い光を灯す銀の眼。
その機械の眼差しを、彼女――大真竜コッペリアは地上へと向けていた。
「相変わらず観測し辛いけど。
地下の魔力反応が急激に増大してる。
……あぁ、これは少し拙いかもしれないね」
「……バビロンが、目覚めた」
呟くコッペリアの傍ら。
銀の竜の背で、同じように地上を覗き込む白い少女。
古き鍛冶師にして、竜ならざる竜。
コッペリアと並ぶ、盟約の礎たる大真竜ブリーデ。
彼女は酷く複雑そうな表情を浮かべていた。
「ウィリアムは、結局ダメだったのね。
アイツなら最悪の事態でも、何とかしてくれるかと期待してたけど……」
「それはちょっと酷って奴だろうさ。
僕らにとっても、地の底で眠っていたバビロンの状況は未知数だった。
不確かな情報を必要以上に与えても害でしかない。
今だって、僕らに分かるのは『目覚めた』って事実だけだ。
実際に何が起きたのかまでは不明なんだ」
無茶振りであることは、ブリーデ自身も分かってはいた。
ただ、概ねはコッペリアが言った通り。
彼女らが把握しているのは、バビロンが《巨人》の血肉を取り込み暴走した事。
それで《王国》の大半を呑み込んだ後、地の底に沈んで眠りについた。
以後、バビロンは「死んだまま」都市の地下に在り続けた。
迂闊な手出しは、文字通り眠れる竜を起こしかねない。
状態を正確に知る事も出来ぬまま、何事もないよう監視する他なかった。
《聖櫃》が起動し、《最強最古》が取り込まれたという緊急事態を観測しても。
ウィリアムのみを送り込んだのは、影響を最小限に留めるためだったが……。
「まぁ、それも全て無意味になったワケだけどね」
「……分かってるけど、言葉にされると気が滅入るから止めて頂戴」
普段と変わらぬ調子のコッペリア。
それを見て、ブリーデは重い息を吐いた。
そうしている間も、状況は留まることなく進行している。
やがて隔離の霧は晴れて、地表に《
無限に増殖し、無限に魂を喰らう不滅の竜。
今度こそ、この大陸そのものを破滅させかねない爆弾だ。
盟約の大真竜として、これを見過ごすことはできない。
できないが――。
「――大陸の全てか、その半分か。
天秤の傾きなんて、考えるまでもないよね」
犠牲は、どうあっても避けられない。
銀鱗の竜の背で、コッペリアが一歩踏み出す。
――《大竜盟約》の序列五位。
大嵐の王たる大真竜が、その力を行使しようとしていた。
「……ねぇ、他に方法はないの?」
「無いよ、残念ながらね。
ブリーデ、君じゃあアレとは相性が悪い。
必要なのは不滅の巨体を、一瞬で粉砕するだけの大火力だ」
魂が不滅である古竜とは逆に、巨人はその肉体が不滅。
故に物理的には死なないが、粉々に砕くことで活動の抑制はできる。
完璧に塵にしてしまえば、復活までは多くの年月が必要となる。
だが、それの意味するところは。
「霧が晴れて、《
ブリーデ、君は少し下がった方がいい」
同胞にそう警告を発しながら。
大真竜たるコッペリアは、空に向けて片手を掲げる。
この大陸の上空全てを覆い尽くすほどの魔力。
風が渦巻き、分厚い黒雲が一瞬にして天に蓋をする。
「天候支配……」
久方ぶりに見るその光景に、ブリーデは小さく呟いた。
コッペリアが有する竜としての権能。
彼女はその気になれば、この大陸全土を巨大な嵐で包み込める。
それを可能とする強大な魔力を、今は一点に凝縮していく。
膨れ上がる黒雲の内に、無数の青い稲妻が走った。
「この一発で足りてくれれば、被害は抑えられるんだけどね」
軽い調子で、極めて深刻な事実をコッペリアは口にする。
――目覚めたバビロンを放置すれば、大陸のほぼ全てが呑み込まれる。
それを阻止するには、現れた《天の庭》の器を砕くしかない。
だが、そうした場合に払われる犠牲。
不滅と化した竜を打ち砕くために、大陸の半分は巻き添えになる。
それがコッペリアが試算した「最小限の代償」。
最悪の場合は、全滅よりはマシ程度の結果も考えられる。
「ッ、ホントにやるの……!?」
「それ以外にないからね。
僕としても、流石にこれは不本意だけどさ」
地の底から感じられる、魔力の増大。
一向に歯止めが利かないソレは、間もなく臨界に達する。
故にコッペリアは手心を加えない。
どれだけの者が、巻き込まれて命を落とすとしても。
愚かな過ちを焼き滅ぼすために、暗く閉ざした天に雷霆の槍を形作る。
未だ放つことはしない。
狙うべき標的を、完全に確認できてから。
コッペリアは自らにそう定め、来るべき時を待つ。
ブリーデももう、止める事はしなかった。
ただ無力な己を恥じるように、強く奥歯を噛み締める。
「…………?」
だからこそ。
その結末だけは見逃さぬようにと、ブリーデは顔を背けず。
故にこそ、その微かな光を目に映していた。
微かな――それこそ、暗闇に揺れる頼りない蝋燭よりも弱々しい。
今まさに千年分の闇が噴き出そうとする、都市の中心。
そこに躊躇わず落ちていく灯火を、ブリーデは見ていた。
「……待って、コッペリア!」
「っと……! 急に飛び出すのは危ないだろ?」
放たれる寸前だった雷霆の大槍。
そちらに意識を向けていたコッペリアは、その瞬間を見ていなかった。
そのため、いきなり目の前に出て来たブリーデにも大層驚く。
コッペリアもまた、その意思に狂気を患っていた。
が、それでも彼女が哀れな白子の長女を傷つけることはない。
半ば飛び出して来たブリーデに、コッペリアは攻撃を中断する。
「急にどうしたんだ、ブリーデ。
さぁ、もう猶予は殆ど残っていないんだ。
《天の庭》が地表の生命を貪り始めたら、本当に手に負えなくなる。
すぐにそこを退いて――」
「……まだよ」
「なんだって?」
弱々しくも、堅い意思を持って。
大真竜としての役目を遂行せんとするコッペリアを、ブリーデは掣肘する。
「きっとまだ、状況は終わってない。
《天の庭》を、バビロンを止めようとしてる者がいる」
「……それはウィリアム……いや、例の竜殺しの彼かな?
けど、そっちはもう《聖櫃》を通して《地の獄》に呑まれたはず。
既にバビロンの亡骸が蘇生した以上、そっちを期待するのは……」
「分かってる。多分だけど、そっちは失敗したんだと思うわ」
コッペリアの指摘を、ブリーデは否定しなかった。
「あの甲冑バカも、性悪エルフも。
ついでに、イマイチ脇の甘い《最強最古》も。
間違っても無敵の存在じゃないし、負ける時は負ける。
バビロンが目覚めたのも、その結果でしょう」
「だったら――」
「でも今、あの全てを呑み込む闇の中に、光が飛び込んで行った。
私は、それを見たの」
それが誰かは――ブリーデには想像が付いた。
一匹を除いて、詳しくは知らない。
何せ言葉を交わしたのは、本当に少しだけだ。
確実なのは、彼らはまだ諦めていないということだけ。
そして、諦めずにあの闇に身を投じたということは――。
「まだ、全部は終わってない」
まるで祈りの言葉だと、ブリーデは思った。
祈る神なんて、この大陸にはいない。
偽物の神様は死んで、本物の神様は海の向こう。
この地には、怒れる焔だけが残された。
だから祈ったところで、何処にも届かないかもしれない。
それでも、ブリーデは祈った。
自分の本心には、蓋をしたままで。
「だから、コッペリア――」
「……もう少しだけ、待って欲しいって?
君は本当に仕方のない奴だね、ブリーデ」
懇願に近い声に、コッペリアは困った風に笑う。
天から落ちれば容易く地を砕くであろう、雷霆の大槍。
それは維持したままで、コッペリアは一つ頷いた。
「分かったよ。他ならぬ君の頼みだ、聞かないワケには行かないね。
けど、君も分かってると思うけど」
「限界が来たなら、躊躇うつもりはない。
それは分かってるし、限界かどうかの判断も貴女に任せる。
……私も、そこまでワガママは言わないから」
「それが分かってるなら、他に文句はないよ」
ブリーデの答えに、コッペリアは満足そうに一つ頷いた。
そうしてから改めて、視線を地上へと向ける。
魔力の反応は、先程から変わらず増大し続けている。
間もなく地の底から、死したる竜の王が蘇る――はずだ。
そう、はずなのに。
「……動きが無い、ね」
千年分の闇が渦巻いているはずの、都市の中心。
ブリーデが見た僅かな光。
――アレが飛び込んでから、バビロンの動きが鈍った?
コッペリアが漏らした呟きを聞きながら、ブリーデは考える。
やっぱり、彼らはまだ足掻いているのだと。
「コッペリア」
「そう念押ししなくても、大丈夫だよ。
僕だって、すき好んで大陸の地盤を叩き割りたいワケじゃないんだ」
二柱の大真竜は、今も闇が渦巻く都市を見下ろす。
果たして、あの微かな光は望む場所まで辿り着いたのだろうか。
ブリーデは言葉にせず、届くかも分からない祈りを胸に抱き締めた。
……斯くして。
地の底での旅路は、敗北という終わりを迎える。
竜殺しの男も何もかも、永遠を騙る血肉の海に呑まれてしまった。
故にここから始まるは、地表を辿る旅路。
小さな灯火が、底無しの闇に辿り着くまでの物語。
時は、《天の庭》が花開くよりも前に遡る――。
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