230話:花開く時
剣は、私を貫くはずだった。
けれど、そうはならなかった。
「本当に、優しいのね。貴方」
「……かもな」
一瞬。
本当に、瞬き以下の刹那。
必殺であるはずの彼の剣が、ほんの僅かに鈍った。
理由は――考えたら、また妬けてしまいそうだから蓋をしておく。
どうあれ、その僅かな差が明暗を分けた。
私の心臓を貫く前に、黒い泥が剣と彼の腕を固める。
これでもう、決して離さない。
「さぁ、終わりにしましょうか」
『っ、止せ、バビロン……!』
そう言う方も、限界に近いでしょうに。
壊れた器を、ヴリトラは無理やり動かそうとする。
普段は怠惰な割に、そういう情が深いところは嫌いじゃないわ。
けれど。
「貴方も、足掻くのはお止めなさい。
大人しくすれば、好きなだけ眠らせてあげるから」
『その話自体は魅力的だけどさぁ!』
自分に正直で大変宜しい。
ご褒美に、私は猫を近くの泥へと沈めることにした。
数多の魂が溶け合う、始原の生命。
例え竜であれ、ここに落ちれば身動きは取れない。
他の魂と同様に、私と一つになる。
「それじゃあ、おやすみなさい。ヴリトラ」
『バビロン……!!』
まだ何か言おうとしていたけど。
それは聞かずに、私は容赦なく泥の海に落とす。
小さい猫の姿は直ぐ泥に呑まれて、そのまま見えなくなった。
残るは、二人。
「……勝利を確信しているようだが」
拘束して、身動き一つも取れない状態。
にも拘らず、森人は相変わらず揺るぎない。
そちらを見れば、予想通り皮肉げな笑みが目に入る。
「本当に何もかも上手く行くと。
もしそう考えているのなら、浅はかと言わざるを得んな」
「それは忠告?」
「好きに受け取れ」
笑う森人を見ながら、私は少し悩んでしまった。
この男は猛毒だ。
生かしておけばきっと害になる。
けれど、それを理由で殺すのは私の愛に反する。
……それとは別に、呑んだらお腹を壊しそうだなと危惧もした。
私は、私の一部である黒泥を慎重に操る。
抵抗を許さぬよう、少しずつ。
厄介な獣を封じる心持ちで、森人を泥の淵に取り込んでいく。
「バビロン、お前は狂っている。自覚はないようだがな」
「……私は何も変わらないわ」
ヴリトラが言ったのと、似たようなことを言う。
手足から徐々に喰われているにも等しい状態なのに。
森人の男は、欠片も動揺した様子を見せない。
大地に深く根を張る大樹のように不動。
「このまま本当に、《王国》の再興とやらを成し遂げたとして。
ほぼ確実に、上位の大真竜どもに潰されるだろう」
「負けるつもりはないわ。
私は、私の愛のために――」
「そうだな。
或いは大真竜どもでさえ、お前を容易く阻むことは出来ないやもしれん」
……てっきり、そのまま負けると言われると思ったのに。
想像とは逆なことを森人は言ってきた。
私は、私の勝利を疑っていない。
私は必ず、私の愛を証明する。
その事実に揺るぎはない――はず、なのに。
何故、私は不安を感じているの?
森人は、やっぱり変わらず笑っている。
「お前は負けるぞ、バビロン。
いや、狂い果てたかつてのバビロンよ」
「その大真竜とやらが、私を打ち負かすと?」
「大真竜とお前が戦えば、大真竜が勝つだろう。
犠牲は多く払う事になるだろうがな」
だが、と。
既に身体の大半を黒泥に覆われながら、森人は告げる。
「お前を打ち負かすのは、大真竜ではない。
これは予言だ。当たれば儲けモノぐらいのだがな」
「…………」
私を打ち負かすもの。
そんなものは、ありはしないと。
そう否定するのは簡単。
けど、未だに私の中には痛みがある。
哀れな長子が、内側で健気に足掻いているだけだと。
そう、思っていたけど。
「……私は負けない。
私の愛は、《天の庭》は今度こそ永遠に咲き誇る。
誰にも邪魔させないわ。誰にも」
「そうか。二度目の失墜を、せめて心穏やかに迎えられる事を祈る」
それが、私の聞いた男の最後の言葉になった。
完全に黒泥に包み込まれ、その闇の底へと森人は沈む。
……何か、抵抗の一つもするかと思ったけど。
そういう意味では、少し肩透かしを食らった気分ではある。
まぁ、今となってはどうでも良い。
男もまた、私の《天の庭》に溶けたのだから。
さぁ、残ったのは一人だけ。
「待たせてしまって、ごめんなさいね」
「そりゃ別に良いけどな」
森人とほぼ変わらない、黒泥に拘束した状態の彼。
甲冑だけのその姿に、私は微笑みかける。
……私は人間を愛している。
人間という種を、そこから枝分かれした亜人種も含めて。
愛している、一人の例外もなく。
あの森人だけは、ちょっと例外かもしれないけど。
私の全てとも言うべき愛に、偽りはない。
けど。けれど。
彼と言葉を交わし、触れ合う時に感じるモノ。
胸を締め付けられるような感覚。
きっと、それは器である長子の感情だと思っていた。
思っていたけど――今は、その区別が曖昧になっている。
動けないままの彼を、その甲冑の表面を指で触れる。
冷たい、やっぱり熱は感じない。
……長子は、本当に上手くやったと思う。
消えた彼の身体がどこなのか、それは私にも分からないのだから。
「俺も取り込むんだろう? やらないのか?」
「ええ、勿論そのつもりよ。
……元の肉体が無いのは、ちょっと困るけど」
「それは俺も良く分からんからなぁ」
あと少しで、私に呑まれるというのに。
森人の男と同じかそれ以上に、彼もブレなかった。
危機感が薄い、というわけではなく。
彼にとってこのぐらいの窮地は、そう珍しくないのだろう。
流石と言うべきか、それとも呆れるべきか。
「……なぁ」
「? なに?」
「ちょっと聞きたいことがあるんだが、良いか?」
……多分、時間稼ぎとか。
そういうのを考えている様子はなかった。
そもそも、この状況で時間を稼いだところで意味がない。
結末が訪れる時が、少し伸びるぐらい。
「ええ。良いけど、何を聞きたいの?」
「いや、地上のことだけどな。
そっちの状況とかって、把握できてるのか?」
良く分からない疑問だった。
私は少しだけ首を傾げて。
「いえ。今の私は、少し前まではこの残骸を漂う意識の断片だったから。
残念だけど、地上がどうなってるかまでは分からないわ」
「そっかー。いや、そっちでも何かしてんのかと思って」
「……意識的に何かしたつもりはないけど。
何かしらの影響はあるんじゃないかしらね?
地上もまた、《天の庭》の一部には変わりないから」
この古い私の内側が、過去に呑み込んだ魂の檻ならば。
地上は新たな仔らを迎えるための肉の箱庭。
細かい部分までは把握していないけれど。
あちらもまた、私の《天の庭》である事は間違いない。
全ての準備が整ったら、先ずはそこから呑み込む予定だった。
「成る程なぁ」
「答えは、今ので満足した?」
「あぁ。まぁ、それぐらいなら何とかなるだろ。多分」
「……?」
良く分からない。
良く分からないけど、きっとこれ以上は無意味ね。
私は渦巻く黒泥に意識を通し、最後の仕上げに取り掛かる。
「――さぁ、名残惜しくはあるけど。
一度、終わりにしましょうか」
本心から、その瞬間を哀しく思いながら。
私は泥に呑まれつつある彼を見た。
もう無駄だと悟っているのか。
特に抵抗する素振りもなく、彼は身を任せていた。
潔い……というのとは、少し違う気がする。
むしろ彼は、諦めの悪い方だから。
訝しむ私の様子に気付いたようで、彼は軽く笑ってみせた。
「そんな不安そうにしなくても、これは俺じゃどうしようもない。
さっきのは、まぁワンチャンあったんだけどなぁ」
失敗した、と。
彼は本当に軽い調子で言ってのける。
「……そうね、さっきのは少し危なかった。
貴方の言う通り、これ以上はもうどうしようもない。
けど大丈夫よ、別れは一時だけ。
すぐに私の《天の庭》で、他の皆とも会えるわ」
「そうか」
怒りとか、憎しみとか。
悲しみも哀しみもなく。
彼は――甲冑だけで、まだ顔も知らない彼は。
ただあるがままに応えるだけ。
私はその声に、何を思っただろう。
答えを見つけるよりも早く、黒い泥は彼を呑み込んで行く。
……再会は、約束されているはず。
誰もが私の《天の庭》で一つになる。
だから。
「…………あ」
一つ、忘れていたことがある。
私は結局、彼の名前を知らないままなのだ。
器が持つ記憶は、相変わらず封じている長子が抱え込んだまま。
主導権を奪った今でも手が出せていない。
だから、知らない。
彼の名前も顔も、私は何も。
「貴方は――――」
それを直接言葉にする前に。
甲冑の彼は、黒い泥の底に沈んでしまった。
数多の魂が溶け合う、血肉の海。
この一時だけは、完全に彼の存在を見失ってしまった。
「…………」
暫し佇む。
言葉は出て来ない。
望んで行ったはずなのに。
私は何かを、間違えてしまったのではないか。
そんな思考が、ジワジワと胸の内を蝕んで行く。
……私は、何を間違えた?
私は何を誤った?
私は――。
「……いえ、いいえ。違う、違わない、私は何も、間違えては――」
汚泥が沸き立つ。
死せる竜の心臓、かつての私の中枢で。
――父たる《造物主》が海を鎖した故に、永遠に届かぬはずの外界。
その大陸の外側より流れ着いたモノ。
《
「永久物質」である不滅の血肉。
死に瀕したかつての私は、その一部を取り込んだ。
その永劫の生命力で、死に逝く肉体を繋ぎ止めようとした。
けれど、私は失敗した。
弱り切った私の魂では、《巨人》の肉を制御できなかった。
結果は《王国》の滅亡。
臣民の多くを呑み込んだ時点で、私の魂は力尽きた。
そして死した屍として、この地の底に沈んだ。
けれど、今は違う。
私は《最強最古》の器と魂を、依代として手に入れた。
永劫不死の肉体も、今や完全に制御下に置いている。
「――そう、そうよ。やり直せる。過ちは正せる。
だから、私は、今度こそ」
笑う。
私は自然と笑っていた。
もう、私以外に誰もいない世界で。
笑いながら、全ての準備を整えていく。
地の底に横たわる、私の屍。
その血肉に余すところなく、私の意思と力を伝達する。
――さぁ、花開く時が来た。
過ちで枯らしてしまった永遠の大輪。
《天の庭》は再び、太陽の下で咲き誇る。
そうすれば。
「死も苦しみもない――
そう。
そうだ。
それこそが、私の願い。
私が心から望んだ事。
不滅の魂と不滅の血肉。
二つが合わされば、死のない無限の楽土を築ける。
そうすれば――そうすれば、そうすれば。
「…………あ、れ?」
それは、本当に私の願いだったの?
僅かに芽生えた疑問は、黒い濁流が押し流していく。
《天の庭》の開花はもう間もなく。
この暗い地の底から、太陽が照らす地上へと。
あらゆる愛を抱き締めて。
中身のない愛を抱え込んで。
私はただ、手を伸ばす。
地の底に横たわる暗闇から、空へ――。
「――――!!」
闇を切り開くような、一筋の光。
頭上から降り注ぐその眩い輝きは、太陽に似ていた。
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