229話:変わらぬ愛などあるのか
私は、とうとう「私」の名を明かした。
森人の男は、それ自体は予想していたようだった。
甲冑の彼は――残念だけど、顔が見えないから表情は分からない。
ただ、あまり驚いた様子はなかった。
もしかしたら、薄々と気付いてはいたのかもしれない。
自分の知らない「何か」が、この器の中に混じっていることを。
まぁ、何を思ったところで全ては後の祭り。
地の底、古い私の亡骸が横たわるこの場所で。
「……バビロンか。
かつての大陸の支配者と
黒い汚泥に、手足を縛られた状態で。
森人の男は変わらず皮肉げに笑って、そんなことを言ってきた。
この状況からでも、まだ逆転の目はある。
そう確信しているような態度だった。
――あり得ない、と言い切れないのが怖いところね。
きっと、直ぐに殺してしまうのがこの森人に対する正しい対処でしょうけど。
私は、それをしようとは思わなかった。
それがどれほど愚かな選択でも、そうするのは私の意に反する。
「それで、間抜けな竜の長子の器と魂をまんまと乗っ取って。
とっくの昔に死んだはずのお前が、何をするつもりだ?」
「少しでも情報を引き出そうとする姿勢は、私は嫌いじゃないわよ?」
笑う。
信じがたいことだけど、この森人は誠実で正直な男だ。
元々、この地に降りて来たのも調査が目的だと言っていたはず。
危機的な状況――いえ、そんな状況に陥っているからこそ。
自分の役目を、どこまでも忠実に果たすつもりらしい。
「けど、私の目的なんて考えるまでもないでしょう?」
「分からんな。死人が墓から起き上がって、それで何ができる?」
「できるわ。何もかもを」
この約束の地まで、私を連れて来てくれた感謝を込めて。
私は森人の問いには素直に応えた。
同時に、滲み出す黒い汚泥を指先で操って見せる。
「千年前は、失敗してしまった。
私も衰弱し切っていたせいで、判断を誤ってしまった。
――けど、今は違うわ。
かつては《最強最古》と呼ばれた竜の、魂と器。
今の私はコレを掌握している」
全盛期、とまでは行かないけれど。
《五大》すら及ばなかったはずの、かつての《最強最古》。
彼女も昔と比べれば、随分と弱っていた。
それでも、事を起こすには十分過ぎる力がある。
「《
それをもう一度、《
かつて地上で咲き誇った《
この竜在りし地に、再び取り戻すの」
人にとっては遠い昔、竜にとってはほんの少し前。
大陸に生きる全ての者達が、幸福の中で暮らしていた理想郷。
《
かつての過ちで失われてしまった、私の全て。
――何もかもが偶然だった。
苦肉の策にも失敗し、私は私自身を含めた何もかもを失ってしまった。
残ったのは、地の底に沈んだ私の亡骸と。
砕けてバラバラに散ってしまった、私の魂の断片。
大半は正気を失い、「愛するモノと一つになる」妄執の塊に成り果てた。
その中でもまだ、僅かに「生前」の意識を残していた欠片。
亡骸と繋がった《聖櫃》に、《最強最古》が触れた事。
これを取り込もうと、地の亡骸が汚泥を溢れさせて。
長子が汚泥に囚われた時、今の「私」である欠片が入り込んだ。
考えられない偶然で、私にとっては望外の奇跡だった。
再び私は、私の意思で望みを叶えられる。
残骸に残っていた「狂った私」は、旅の過程で多くを排除できた。
力があり、それを行使するための器も揃っている。
――本当に、何もかもが夢のような奇跡ね。
「……《王国》の再興か。
そんなものは、今の大陸を支配する大真竜達が認めんだろう」
「大真竜、というのは良く知らないけど。
認めないなら、それはそれで別に構わないわ。
私は私の望みを果たす。
受け入れるなら愛してあげるし、邪魔をするなら容赦はしない。
隣人は愛するけど、隣に立たない者は敵でしかないの」
森人の言葉に、私は微笑みを返した。
今の地上の状態とか、そういうのは良く分からない。
器である長子も、記憶や意識に
現状、主導権を奪うことはできたけど、そこまで踏み込むのは難しい。
まぁ、こればかりは仕方ないわね。
「なぁ」
「?」
ここまで黙っていた、甲冑の彼。
私に手を掴まれ、動くに動けないままの姿で。
不意に声を掛けて来た。
ちょっとビックリして、私は首を傾げながらそちらを見る。
……やっぱり、中身のない兜から感情は読み取れない。
「■■■■■は無事なのか?」
ズキリ、と。
また胸の奥が痛んだ。
……ここは、古い私の亡骸。
かつては《王国》と呼ばれた大半を呑み込んだ、《天の庭》の残骸。
ここでは全てが「私」であり、「私」こそが全て。
だから「名前」という概念は、ここでは阻害される。
個と個を分けるモノは、必要ないから。
とは言っても弱い認識阻害だから、音として認識できないだけで。
言葉の意味そのものは、《
甲冑の彼が口にした名前。
昔は《最強最古》と恐れられた、あの長子が認めた新たな名。
温かく、確かな愛の宿ったその言葉に。
私はどうしようもない苦しさを感じていた。
……それは、極力表に出すことなく。
あくまで、私は平静を装って。
「無事――と言うと、語弊があるかもしれないけど。
少なくとも、消えたりはしてないわ。
彼女は《最強最古》、本来なら《五大》の私でも及ばない存在。
器の主導権を得て、魂は意識の奥底に沈めてあるけど。
変わらず、ここにいる。そこは安心して貰って構わないわ」
「そうか」
薄い胸の辺りを片手で示す。
それを聞いた彼は、ほんの少しだけ安堵したようだった。
……愛されてるわね。
冗談で言ったつもりだけど、本当に妬いちゃいそう。
『…………な、ぁ。バビロン』
「あら」
小脇に抱えた状態の、小さな身体。
それが微かに震えたかと思うと、絞り出すような声を漏らした。
ヴリトラ。古き竜の一柱で、私の弟。
首の骨を折って、器は物理的に封じたつもりだったのに。
「貴方、まだ動けたのね?」
『っ……お優しい、姉上だから……な。
加減してくれたの、かと、思ってたわ……』
「そうかもしれないわね」
ヴリトラの言葉に、私は笑って応えた。
同じ兄弟と話をするのも、随分と久しぶりだし。
これはこれで、ほんの少しぐらいは楽しい。
まぁ、ヴリトラの方はそんな事を考える余裕もないでしょうけど。
首をだらりと垂れさせたままで、猫は呻くように呟く。
『なぁ、同じ竜の
何かを言いかけて。
猫は言葉をいきなり切ると、力の入らない首を横に振る。
そうしてから、改めて。
『……そっちの、彼氏殿だけでも、見逃しちゃ貰えないか?』
「待て、何故今言い直した?」
『いや、よく考えたら、お前にそこまで言ってやる義理ないかなって……』
森人の抗議に、ヴリトラはゴニョゴニョと呟いた。
まぁ、それは確かにそうでしょうね。
どうあれ、私はその懇願には首を横に振るしかない。
「ダメよ、それは認められないの」
『いや、何でだよ……《王国》の、再興とか。
そういうのに、コイツは関係……ないだろ……?』
「いいえ、そんなことはないわ」
まだ何も理解していないヴリトラ。
でも、そうよね。
私はあの日、過ちを犯してしまった。
そのせいで《王国》が滅び、大陸を荒廃させてしまったこと。
今思い出しても罪を感じる。
だから、そう。
「今度はちゃんと、狂いなく全てを一つにするの。
私の愛、私の《王国》。
今もあの日に呑み込んだ仔らの魂は、私の血肉に溶け合っている。
私は正しい意思の下に、再び私の中の《王国》を蘇らせる」
そして、かつての理想郷が地上に復活する。
今度は錯覚ではなく、永遠に繁栄する《天の庭》として。
勿論、それだけでは終わらない。終わらせない。
「今も、この地に生きる数多の人々。
私の愛を知らぬ、哀れな子供達。
彼らもまた、私の《王国》に招いてあげないと」
『…………本気で、言ってるのか?』
「ええ、当然よ」
むしろ、何かおかしなことを言ったかしら。
「例外はないわ。そちらの森人も、目の前の彼も。
まだ見ぬ多くの人達も、余さず全て。
私の《王国》で一つになり、永遠に繁栄する《天の庭》で生きるの。
苦しみはない、悲しみもない。
死からも解放された、完璧な楽園。
――私は今度こそ、それを実現させる」
そのために、この《天の柩》に辿り着いた。
もう決して失敗はしない。
私は、私の望んだ愛を証明する。
そこには、どんな間違いもありは――。
『……違うだろ、バビロン』
ぽつりと。
嘆く声で、ヴリトラはそんなことを言った。
言葉の意図が分からず、私はつい首を傾げてしまう。
「違う? 何が?」
『何もかも、だ。我が優しき姉上様。
……そうだ。
オレの知ってるバビロンは、流石にそこまでイカれちゃいなかった』
折れた首を、無理やり動かして。
猫の姿のまま、ヴリトラは私を睨みつけた。
『アンタは、我儘で傲慢だったが……人間を愛してる、ってのは、本当だった』
それは今も変わらない。
人間を愛している――変わらない、何も。
同じはずで、おかしなことなんて一つもない。
なのに。
『けど、今のアンタはどうだ。
どいつも、こいつも、食い散らかして腹の中に収めようって?
無茶苦茶だろ、そんなの。理屈に合わねェよ』
少しずつ、猫の言葉も流暢になっていく。
再生を封じたつもりだったけど、流石は古い竜の王。
まぁ、多少傷が治ったところで足掻くのは無駄だけれど。
それはヴリトラ自身も分かっているでしょうに。
行動ではなく、聞き逃せない言葉で猫は私に迫っていた。
『昔のアンタなら、絶対に言わなかったはずだ。
……“大勢の為に動くのも良いし、苦に思ったことは無いけど。
マレウスみたいに、一人一人と向き合うやり方も、羨ましい”って。
そんな話を、寝てるオレにわざわざしに来た。
それがアンタだったはずだろ、バビロン』
「……貴方の言うことは、一つも分からないわ。ヴリトラ」
そうだ。
私は変わらない、変わっていない。
そのためにここまで来た。
そうすることだけが望みで、私の愛の証明。
だから。
――だから?
「ッ……!?」
痛み。
恐らく、これまでで一番の。
頭蓋の奥を抉られるみたいな激痛に、私は顔を顰める。
加えて、痛みに気を取られてしまったせいで。
抑えつけていたはずの手が、僅かに緩んでしまった。
彼は、その一瞬の隙を見逃さない。
「――――あぁ」
唇から、吐息混じりの声がこぼれ落ちた。
彼は、掴む私の手を振り払う。
閃くのは銀色の刀身。
それは真っ直ぐに、最短距離を走る。
狙うのは、私の胸――人間なら心臓がある位置。
確実に、この器の命脈を断ち斬ろうと。
顔の無い女――地の骸に残っていた、かつての「私」の断片。
先ほど葬ったソレと同様に。
私の胸に、刃の切っ先が突き刺さった。
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