228話:真実
『ぎ――ィ、ぁ……!?』
剣に胴体を刺し貫かれて。
顔の無い女は、擦り切れた悲鳴を上げる。
真っ当な生物であるならば、心臓がある位置。
そこを剣の切っ先に抉られて。
狂気に囚われていた怪物は、激しく身悶え始めた。
『ギィィアアァアアアア――――!!』
叫ぶ。
纏っていた魔力が大気を震わせ、激しく爆ぜる。
黒い汚泥が飛び散り、無数の獣達を巻き込んで荒れ狂う。
嵐も同然な状況で、甲冑の彼は堪えていた。
貫いた剣を手放すことなく。
怪物の命脈を断つべく、更にその肉と骨を断っていく。
『嗚呼、アァアアアアア……!?』
「大人しくしろよ……!」
女の手に掴まれ、その圧力で装甲の一部が
中身のない彼にとって、甲冑は肉体も同然。
それを潰されかけながらも、彼はまったく怯まない。
ここで諦めれば、討ち取る手立てがないと。
それを分かっているから。
本当に少しずつ、けれど確実に。
彼の剣は、女の身体を斬り裂き続けた。
心臓のあるべき場所を断ち割り、更にかき混ぜるみたいに。
大半を黒い汚泥で造られた肉体を破壊していく。
『ちょい、流石に無茶し過ぎだろ!』
「…………」
抱き締めている猫が、弱気の声を上げた。
無理もない、「私」も無言のまま息を呑むぐらいだから。
壮絶なんて言葉では、とても軽いぐらいに。
顔の無い女と、甲冑の彼。
両者の戦いは泥臭くて醜いけれど、凄まじかった。
「……これでは、こちらからは手が出せんな」
渾身の一矢を放った直後であるせいか。
明らかに消耗した様子で、森人の男は呟く。
荒れる魔力と、逆巻く黒い汚泥。
災禍の中心である戦いの様子を、森人は見ていた。
決して見逃すまいと集中しながら。
未だに溢れ出す狂った獣の群れを、手にした白刃で蹴散らし続ける。
疲労は隠し切れていないけど、動きはそう衰えてはいない。
こっちもこっちで、本当に凄まじい。
「――がんばる、などと言ったんだ。
やってみせろよ、竜殺し」
声は届かない。
構わず、森人の男は笑いながら言った。
「私」もまた、それを見ている。
互いの血肉を食むような、彼と怪物の殺し合いを。
『嫌、嫌嫌嫌嫌嫌……!』
抗う。
抗いながら、顔の無い女は叫び続ける。
変わらず、理性など欠片も存在しない声で。
どうしようもない狂気のまま、支離滅裂な言葉を垂れ流す。
それを聞いているのかいないのか。
どちらにせよ、彼のやるべき事もまた変わらない。
傷を塞ごうとする女の血肉を、何度でも剣で引き裂く。
何度でも、その命を完全に断ち切るまで。
『違う、違う違う……こんなことは、望んでいなかった……!
私は、私はただ、愛していた……愛していただけなのに……!』
嘆く。嘆きだけは途切れることはない。
どれほどの悪意と狂気に、その魂の残滓まで穢されていたとしても。
その言葉そのものは、紛れもない真実だった。
真実ではあっても、それで何かが救われるワケじゃない。
女は無力に、無意味に嘆いている。
もうとっくの昔に過ぎ去った過ちを、繰り返し、繰り返し。
――けど、それは単なる残響だ。
在りし日の後悔を、女の残骸が泣き続けているだけ。
「事情は良く分からんけどなぁ……!」
甲冑の彼は、剣を持つ手を緩めない。
絞り出すような声で応えながら、血肉を絶えず刻み続ける。
不死不滅である、汚泥の如きその肉を。
その剣は確実に削っていく。
「そんな苦しいんだったら、いい加減楽になれよ……!」
『あ――あ、あぁああァアア……!!』
意味はない。
その言葉は、彼なりの優しさだろうけれど。
狂気に捻じれた残滓に過ぎないソレには、決して届かない。
今もほら、無意味な嘆きを口にするばかり。
顔の無い女は、剣から逃れようとするみたいに身悶えた。
当然、甲冑の彼はそれを許しはしない。
自分を掴む手を逆に掴み返し、剣を握る手に渾身の力を込める。
抗う女の力は、少しずつ弱くなっていく。
『どう、して』
嘆き続ける声も、僅かに色を失いつつあった。
血肉を斬り裂かれる苦痛に、自らが生きていないことを思い出したのか。
そればかりは、「私」にも分からないけど。
『私――は……救い、たかった……』
――愛する者達を。
人という種を愛するが故に、過ちを犯した竜は嘆く。
竜……いえ、それはかつてあった竜の残骸。
地の底に横たわる屍から生じただけのモノに過ぎない。
黒い汚泥は尽きずとも、それを操る中心には限界がある。
『愛、してる……愛してるの、私は……皆、を……』
「…………」
失った愛を。
竜の屍は、もう失われた愛を歌う。
それを間近で聞く彼は、果たして何を思っただろう。
ただ、剣を握る手は決して容赦はしない。
『狂って……誤って……それでも、私、は――』
結局、その残骸が何を言おうとしたのか。
最後まで言い切るよりも早く、訪れるべき限界が訪れた。
彼の剣が、何かを断ったワケじゃない。
何度も積み重ねた傷の痛みに、残骸は「死」を思い出した。
あれほどまでに荒れ狂っていた魔力が、風が凪ぐように散っていく。
溢れた黒い汚泥も、白骨の下へと沈む。
その真っ黒な流れに、影の獣達も溶けて消える。
ゆっくりと、力を失いながら。
顔の無い女の身体もまた崩れ落ちた。
胴体に剣を突き刺したまま、甲冑の彼はその最後を見ていた。
「……ふー……」
動かないまま……いえ、動けないまま。
剣を女に突き立てた体勢で、彼は大きく息を吐いた。
いつまた動き出して、襲って来るかも分からない。
少し力を抜いているけど、目の前の脅威に対する警戒は解かないまま。
そんな彼の傍に、森人の男が近付いた。
「無事に片付いたようだな」
「無事かどうかはちょっと分からんなぁ」
皮肉げに声を掛ける森人に、甲冑の彼は苦笑いを浮かべたようだった。
まぁ、控えめに言ってもボロボロよね。
森人も見た目の傷は大した事ないけど、恐らく相当に消耗してるはず。
甲冑の彼は、改めて言うまでもない。
「まぁ、一応何とかなったな」
「コレが俺達を正確には敵と認識しなかった、という部分は大きいがな」
「力任せに振り回されてたら、まぁヤバかった」
そう言葉を交わして。
残骸にもう何の力も残っていないと、彼も確信したみたい。
突き刺したままの剣を、ゆっくりと引き抜いた。
「私」はほんの少しだけ力を抜いた。
さっきからずっと、腕の中の猫を力いっぱい抱き締めていたから。
ぐったりしてる猫を、「私」は軽く撫でてあげた。
「……今のところ、目立った変化は無しか」
周囲の状況を確認しながら、森人の男は呟く。
どれだけ疲弊していても、その油断の無さは変わらない。
「アレが事態の中心ならば、何かしら起こると思ったが」
「ちょっとその辺は良く分からんな」
甲冑の彼は、軽い調子で応えながら。
まだ蹲ったままの「私」の方へと近付いて来る。
中身のない状態だから、肉体的な疲れは希薄でしょうけど。
あれだけの激戦の後、ボロボロのままで駆け寄って来てくれた。
「ちょっと待たせたな。大丈夫か?」
短い言葉は、とても気遣わしげで。
差し伸べられた手には熱がないはずなのに、ひどく温かい。
胸を満たす愛しさに、「私」は泣き出してしまいそうだった。
――あぁ、本当にごめんなさい。
声には出さず、「私」は片手を伸ばす。
彼の手に、そっと指を絡めて。
「――ありがとう」
ここに至ってようやく、「私」は声を出した。
伝える言葉には、心からの感謝を込めて。
顔を上げて、「私」は微笑んだ。
「ッ――――!?」
彼の反応は、予想通り迅速だった。
誤魔化し切れるのではないかと、淡い期待を持っていたけど。
仕方ないと、「私」は掴んだ手に力を込めた。
決して離れてしまわぬよう。
間合いを取ろうとする彼を、その場に繋ぎ止める。
「気付くのが、一手遅かったわね」
囁く声は、彼に向けたものじゃない。
当然、腕の中の猫でもなかった。
そちらはもう少し前に、首の骨を砕いたばかり。
器を壊した程度では竜は死なない。
けれど、肉体に魂を縛り付けられた状態なら。
死にはしなくとも、物理的な行動は制限できる。
そして、こちらも。
「……迂闊だったな」
声は背後から聞こえて来た。
異変を感じた瞬間から、もう森人は動いていたらしい。
白刃を抜き放った状態で、男は「私」のすぐ後ろに立っていた。
もし仮に、あと数秒も猶予があったなら。
その切っ先は、「私」を貫いていたかもしれない。
けれど、そうはならなかった。
足下から湧き出る汚泥が、森人の手足を拘束する。
これでもう逃げられない。
そちらを振り向かずに「私」は笑った。
「俺なりに、警戒はしていたつもりだった。
だがこの瞬間まで気付けなかったのは、どういうカラクリだ?
そもそも、お前は一体何だ?」
「その状態で、良く質問とかできるわね」
平然と疑問を投げかけてくる森人に、「私」はつい苦笑してしまった。
逆に甲冑の彼は無言。
黙したままで、「私」の事を見ている。
僅かな隙も逃さない――そんな意志が伝わってきそう。
また胸の奥と、それと頭の中が痛んだ。
今はもう、その痛みの源が何かは分かっている。
哀れな長子の悪足掻きを、「私」は気にも留めずに黙殺した。
「素直に応えてくれるなら、それが一番だったがな。
竜殺し、お前の方は何か弁明はあるか?」
「まぁ、何を言っても言い訳だけどなぁ」
森人に問われて、彼は口を開く。
僅かに戸惑いの混じる声。
「今、声を聞くまで別人に変わってるってまったく気付かなかった。
……いや、そうか。声でバレるかもって、警戒してたんだな。
だからさっきまで、ずっと黙ってたのか?」
「ご明察。でも、ちょっと妬けちゃうわ。
『私』が表に出ただけで、あっさりと『違う』と気が付くなんて」
そう、別人に変わったのとは少し異なる。
さっきまでの私も「私」だった。
憎らしいけれど、強くて美しい竜の長子。
その肉体と魂の繋がりに、割り込むように宿った「私」。
弱っていても長子の存在は強く、「私」も半端な状態だったから。
結果的に、互いの記憶や意識を打ち消し合ってしまった。
それがこの「塔」に辿り着き、この
――本当に、途中から勘付かれないかヒヤヒヤしたわ。
散らばっていた「私」の欠片。
一つ一つ、旅路の上で拾い集めて。
最も大きな「かつての私」の残滓と遭遇して、やっとここまで大きくなれた。
笑う「私」を、甲冑の彼が見ている。
……この《
長子は彼の肉体だけは、どこか別の
咄嗟のことでそこまでやれるなんて。
流石は竜の長子と讃えるべきか、それとも執念に呆れるべきか。
「――で、お前は一体誰なんだ?」
「まったく予想してない、なんてことはないと思うけど?」
でも、彼は意外と抜けているから。
本当に分かっていない可能性は十分にある。
だから「私」は彼のため、改めて名乗ることにした。
今は竜の長子、その肉体と魂を仮宿にしているけれど。
そうなる前の「私」の名を口にした。
「私の名は、バビロン。
かつては《天の庭》に在り、《
――あぁ、どうかお見知りおきを。愛しい人」
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