第五章:そして、天の庭が花開く
227話:過ち
戦いは、最初から激しいものとなった。
『――――!!』
声にならない声で、歌うように泣き叫ぶ女。
それに応えて、足下の白骨から滲み出る黒い汚泥。
煮え立つ泥から、影の獣が何匹も溢れる。
まるで仔を産み落とすように。
蛇の身体をうねらせながら、顔のない女は慟哭する。
並みの神経ならば、目にしただけで心を潰しかねない光景。
或いは圧倒的な物量差を悟り、戦意が挫かれるだろう。
けれど、戦う二人にそんなまともさは存在しない。
「邪魔!」
形も大きさも様々な獣達の群れ。
甲冑の彼は、そこに躊躇いなく飛び込んだ。
そして剣を閃かせ、次から次へと斬り捨てていく。
鎧袖一触とは正にこの事。
獣達も反撃を試みるが、それはどれ一つ上手く行かない。
連携なんて言葉のない獣の動きは、無秩序の極み。
ただ出鱈目に爪や牙を振るうだけ。
だから彼は、群れの中を常に動き回ることで的を絞らせない。
加えて、動き続けることで他の獣を常に盾にし続けた。
そうする事で、攻撃の大半を防ぎ。
逆に自分の剣は一方的に当てながら、彼は前へと進む。
黒い汚泥を呼び続ける、顔の無い女に向けて。
「さて、出来ればあまり時間を掛けたくはないが」
そう呟く森人の男も、甲冑の彼に負けてはいない。
戦い方そのものは、彼と大きな差はなかった。
溢れ出す獣の群れに敢えて身を置き、白刃で獣の命を刈り取る。
甲冑の彼と違うのは、男は前には出ない。
顔の無い女との距離は保ちつつ、獣の群れを外側から削って行く。
同時に、白刃を振るう合間に弓での射撃も行っていた。
こればかりは、傍から見てても驚きだけど。
踊るような動きで刃を振るい、近い位置の獣を薙ぎ払って。
空白が生まれた一瞬で、得物を剣から弓へと変える。
そして電光石火の早業で、何本もの矢を同時に撃ち放つ。
狙うのは首のない女か、甲冑の彼に近い位置にいる獣など。
前者は牽制で、後者は彼に対する援護だろう。
的確かつ正確な射撃は、彼が進む助けになっていた。
「助かるわ!」
「なに、大きな
互いに手も足も止めずに、短い言葉だけを交わす。
本当に頼もしい――けど。
当然、敵だって決して容易い相手じゃない。
『――――!!』
女が歌う。女が叫ぶ。
声にならない声には、莫大な魔力が宿っている。
それは物理的な圧を伴い、衝撃の波となって周囲を薙ぎ払う。
少し前に、二人も喰らって吹き飛ばされた攻撃。
森人の男は、距離を放すことで今度は直撃を避けた。
一方、前進を続ける甲冑の彼は。
「《盾よ》!!」
展開される力場の盾。
それで衝撃を受け止めて、甲冑の彼はその場で踏み止まる。
幾ら魔法で防いでも、圧力は相当なものでしょうに。
既に一度経験したから問題ないと。
そう言わんばかりに、彼は吹き飛ばされずに耐え切った。
けれど、怪物の攻撃はそれだけでは終わらない。
『アアァアアアアア――――!!』
甲冑の彼とは違い、衝撃をモロに受けて吹き飛ぶ獣達。
だけど獣達は苦痛を感じた様子もなく、狂ったように泣き叫ぶ。
泣き叫びながら、動きを止めた彼に雪崩れの如く押し寄せる。
突き出された爪、爪、爪、或いは牙。
呑み込む引き裂く黒い濁流が、彼の姿を隠した。
生者に対する悪意と、どこまでも歪んだ情愛。
影の獣は、抱き締めるみたいに甲冑の彼を押し潰そうとして――。
「まさか、その程度で終わりか?」
無数の矢が、濁流と化した獣の群れを貫く。
乱射のようでいて狙いは正確無比。
狙う必要もないぐらいに、獣どもは密集しているけど。
森人の矢は、当てるべき場所だけを一つも外すことなく命中させる。
黒い濁流の中で、彼に纏わりつく獣。
矢に射貫かれ、その拘束が緩んだ瞬間に。
「それこそまさかだな……!」
殆ど力技で、彼は獣の群れを斬り破った。
――本当に、とんでもない。
森人の援護があったとはいえ、今の状況を力技で抜け出すなんて。
一瞬怯んだ獣の群れを、甲冑の彼は更に剣で薙ぎ払った。
『――――』
泣き歌う顔の無い女は、未だ健在。
滲み出る黒い汚泥、その勢いは衰えていない。
影の獣もどんどんと生み出されているけど。
「やっぱ本体倒さないとダメだよなぁ、コレ」
「援護はしてやってるんだ、さっさと首を刎ねてしまえ」
「そっちの手持ちの札とか使う気ないの??」
甲冑の彼も、森人の男も。
そのどちらも、絶望とは縁遠い。
敵がどれだけ強大で、置かれた状況がどれほど困難でも。
必ず勝って切り開く。
その強い意思は、暗闇の中で眩く光る星のようだった。
動かない「私」の傍にいた猫も、安堵を含んだ吐息を漏らす。
『……正直ヤバいかと思ったが、マジで何とかしそうだな。
いや、ヤバい状況なのは変わらずだけど』
猫は参戦せず、「私」の傍から戦況を見守る。
何かあっても「私」を守れるように、留まってくれているのだろう。
声は出せず、まだ力の入らない手を猫に伸ばした。
『……なぁ、ホントに大丈夫か?
いや、辛いんなら無理に喋らなくても良いけど』
蒼褪めた「私」の表情を見たのか。
猫は気遣う声で鳴いてみせた。
「私」はやっぱり、声には出さないまま。
少しだけ笑って、そのまま猫を腕に抱えた。
猫は気にせず受け入れて、また戦いの方に視線を向ける。
『さて、このまま何事もなく勝ってくれりゃ良いが……』
「…………」
不測の事態を危惧する猫に、「私」はやはり黙ったまま。
同じく、戦う二人を見ていた。
『あ――ああぁぁァア……ァ、な……なぜ、何故……?』
溢れる黒い汚泥に、荒れ狂う獣の濁流。
魔力を宿す声が、空間を破砕する衝撃となって辺りを薙ぎ払う。
そんな悪夢めいた地獄を撒き散らしながら。
顔の無い女は、その唇から嘆きの音を流し始めた。
嘆き。悲嘆。顔がないのに、女は泣いている。
『何故、何故、何故、何故、何故?』
「言ってる意味が分からん!」
無意味な言葉を吐く女に、甲冑の彼は思わず突っ込んだ。
衝撃や獣の群れに、度々足を止められているけど。
それは彼の歩みを完全には阻めない。
少しずつ、けれど確実に。
甲冑の彼は、顔の無い女に近付きつつあった。
当然、退かれてしまったら辛いけど。
それは森人の方が、弓による射撃と飛ぶ斬撃で女の本体を牽制し続ける。
どれぐらい効果があるのかは、ちょっと不明だけど。
少なくとも、顔の無い女の意識を割くことには成功していた。
「……死した竜王の妄執か。
気にならんと言えば嘘になるが」
新たな矢を放ちながら、森人の男は小さく呟く。
「悠長に真意を探っている余裕は無しか。
――おい竜殺し、まだもたもたしているのか?」
「野次は止めて貰えませんかねぇ……!」
好奇心の類は、今は無駄と断じて。
けれど軽口なんかは矢と一緒に飛ばして、二人は戦う。
獣の勢いは止まらない。
甲冑の彼も、決して止まることはなかった。
道を閉ざす壁も同然な獣の群れを、剣の一本で切り開く。
時折魔法も使ったりはするし、森人の後ろから援護はしているけど。
我が身一つで、圧倒的な脅威を押し退けていく。
それは凄まじい光景だった。
『あ、ああぁぁあ――どう、して。何故?』
しかし、人間の奮戦など最初から見えていないのか。
顔の無い女は、自らの悲憤に沈んだまま嘆きを発し続ける。
その声に合わせて、黒い汚泥は激しく煮え立つ。
悲哀、憤怒、憎悪、嫌悪。
無数の悪意が空間に渦巻き、女の嘆きはそれを増幅させる。
『何を間違えた? 何を誤ったの? 違う、違う違う違う違う違う』
流れ出す怨嗟と、それに合わせるように膨れ上がる魔力。
際限なく強大化していく圧力に、世界そのものが軋み出す。
その脅威を肌で感じたか、猫は顔色を悪くして息を呑む。
『ちょっとマジで洒落にならんというか、これ爆発しないよな……!?』
「爆発したらどうなりそう?」
『そん時はオレら粉々だから、それ考える意味がないわ!』
「ヤバい」
そんな状況でも、甲冑の彼は軽口を忘れない。
既に近付くのも難しくなる密度の魔力を、全身に浴びているにも関わらず。
身体そのものである鎧が、どれだけ優れていようと。
物理的な限界は、当たり前だけど存在する。
その証拠に、魔力に晒された甲冑がギシギシと音を立てていた。
いつバラバラになっても、おかしくはないはず。
「大分厳しそうだな」
「そう言うそっちはどうよ」
「これ以上踏み込むのは、流石に自殺行為だな」
強大化する魔力の圧に、途切れず湧き出す獣の群れ。
甲冑の彼も、森人の男も。
獣を蹴散らす速度は少しも衰えていない。
けれど、状況的に全ての獣を片付けるのは不可能だった。
黒い汚泥は、それこそ無限に流れ続ける。
どれだけ斬り捨てようと、屍はまた汚泥に呑まれて新たな獣となる。
終わらない。
どれほど奮戦しようとも、決して終わらない。
汚泥を招く本体を討ち取らない限り、敗北は約束されていた。
「きっついな……!」
湧き出たばかりの獣の首を薙ぎ、甲冑の彼は小さく呻く。
膨れ上がる魔力が、近づく事を許さない。
それは最早城塞にも等しい。
少しばかり斬りつけようと、刃は女の首には届かない。
『嗚呼――違う、違うの。私はただ、貴方達を――』
白骨の丘を、黒い汚泥の海に塗り替えて。
溢れる獣の群れに囲われながら、女は無意味に嘆き続ける。
その眼は、今は何も見ていない。
意識はただ、忘我の狭間を漂うばかり。
剣の間合いに入りさえすれば、首を刈り取るのも容易い。
甲冑の彼も、森人の男も。
どちらもそれは分かっているはず。
強大化した魔力を、城塞の如くに纏う怪物。
そんな相手の懐に如何にして踏み込むか。
それが一番の問題だった。
「……仕方あるまい」
危機的な戦況に、最初に動いたのは森人だった。
男は溢れる獣の群れから、一旦距離を取る。
その上で弓を構え、新たな矢を素早く番えた。
何かの紋様が刻まれた、美しい矢。
「塔」に入る前、空を飛ぶ獣を蹴散らした時と多分同じ物。
「一瞬だ。一瞬だけ、奴の防壁に穴を空ける。
その一瞬で、アレを何とかしろ」
「いつになく無茶振り激しいなぁオイ」
「知らん。できなければ共倒れがオチだが、お前は構わんのか?」
「いいや」
本気とも冗談とも分からない、森人の言葉に。
甲冑の彼は、あくまで軽い調子で応える。
言葉とは裏腹に、滾る戦意だけはどこまでも重く。
「とりあえず、がんばるわ。援護頼む」
「実に頼もしい言葉だな。あぁ、任せろ」
森人は愉快そうに笑った。
その身にも鮮烈な魔力が宿り、構えた矢に収束する。
隠しようもない竜の威圧を前に、下等な獣達は一瞬怯んでしまう。
それは、標的を狙い撃つには十分過ぎる隙だった。
「――――ッ!!」
放たれる矢は、まさに閃光の如く。
流れる星のように現れるのは、白い衣を纏った騎士。
手にした剣は迅雷に等しく、瞬く間に獣の濁流を断ち割った。
それだけでなく、首のない女が展開する魔力の壁も。
全てではないけれど、半ばまで斬り込む。
洪水にも等しい魔力からすれば、それはほんの掠り傷。
一秒もすれば埋められてしまう程度。
だけど、彼にはそれで十二分。
「おらァッ!!」
乱暴に吐き出される気合いと共に。
白い騎士が斬り込んだ傷目掛けて、甲冑の彼も突っ込んだ。
開いた傷を無理やりこじ開けて。
「《火球》――!!」
更に、半ば自爆に等しい炎の炸裂を叩き込む。
嘆くばかりの女は動かない。
ただ狂気に身を委ねるばかりで、外界を認識できていないから。
だから、迫る刃の切っ先にも気付かない。
そして。
『――――!?』
音を伴わない断末魔。
渾身の力を込めた、刃の一突き。
それは狙い違わずに、女の胸元を深々と貫いた。
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