幕間3:穴底で見る夢


 ――それは、良く知った/見知らぬ夢。

 そこが何処なのかも、或いは誰なのかも分からない。

 分からない。

 分からない。

 ――本当に、そう?

 見えるモノは、一つの例外もなく華やかだ。

 地平線の果てまで埋め尽くさんとする巨大都市メガロポリス

 あらゆる種族が分け隔てなく繁栄を謳歌する理想郷アルカディア

 そして、天の彼方まで届くように伸びる「塔」。

 《王国マルクト》の中枢都市、《天の庭バビロン》。

 その心臓にして頭脳、大神経塔《天の柩ナピシュテム》。

 万民を等しく寵愛するその都市において。

 ただ一つ、極々限られた者以外には立ち入ることを許されない聖域。

 ここに身を置く者は、誰か。

 考えるまでもない。

 薄暗いその空間に、ただ一人在る者。

 この大陸の誰よりも豪奢で、誰よりも淫蕩で、誰よりも美しかった女。

 人間という種を愛し、これを「宝」として抱え込んだ《古の王》。

 バビロンは、その薄闇の中にいた。

 ――これは果たして、誰の夢なのか。

 或いは、本当に夢なのか。

 分からない。

 分からない。

 ――本当に、何も分からない?

 意識は不明で、自我は不詳で。

 ただ、他人事のような夢だけが淡々と流れ続ける。

 ……そうだ、女がいた。

 この大陸の支配者と、かつてはそう呼ばれた者。

 バビロン、哀れなる大淫婦。

 この世の星々よりも煌びやかだった衣は、今は色褪せている。

 万物の生命力に勝ったその肉体は、哀しいほどに痩せてしまった。

 誰の目から見ても明らかに、竜の王は衰弱していた。

 不死不滅のはずの古き竜が。

 

「…………まだ……」

 

 ぽつりと。

 闇の中で声がこぼれ落ちた。

 掠れて、虫の囁きぐらいにしか聞こえない。

 永遠であるはずの古き竜の魂は、今や消えかけた焚き火のよう。

 あと少し風に晒されれば、消えてしまう。

 けれど――まだ、火は消えていない。

 燃え尽きようとする灰の中でも、女の意思は強く燃えていた。

 

「こんな、事で――私の愛は、消えない」

 

 燃え盛るような、煮え滾るような言葉だった。

 滅びぬはずの魂は枯れかけても、その意思は潰えないと。

 それを示すように、女は不屈だった。

 

「どうして、こんな事になったのか」

 

 這いずる。女は無様にも、床を這い進む。

 あと一度立ち上がれば、両の足が砕けると知っているから。

 

「分からない……分からないけど、全てが、狂ってしまった」

 

 聞く者のいないはずの言葉を。

 夢見る誰かだけが、理由も定かならぬままに聞いていた。

 ぼたり、ぼたりと。

 床を赤黒い何かが汚す。

 溢れたそれが血なのか、それとも別の何かなのか。

 女には、もう心底どうでも良かった。

 

「狂って、狂って、狂い果てて――死ぬ、死ぬの、私は。死ぬ」

 

 不死であるはずの竜。

 不滅であるはずの魂。

 それが今、死に瀕している。

 理由の半分を、女は知っていた。

 《王国》は広大で、其処に住む人間の数は億を超える。

 その全てを、女は我が身一つで支えて来た。

 費やした月日は千年以上。

 限界が訪れるのは必然で、女はその未来は予測していた。

 いつか――まだ遠いはずの未来で、自分が崩壊する時が来たとしても。

 愛する民草が、無法の荒野に投げ出されてしまわぬよう。

 備えをして来た。万全とは、言いがたくとも。

 問題はなかった。ないはずだった。

 なのに、どうして?

 

「ッ……ダメ、こんなのは、許さない……認めない……!」

 

 這う。這い続ける。

 最早、《竜体》を動かすだけの余力もない。

 仮初であるはずの人のかたちに、しがみつくだけで精一杯。

 なんて愚かで、なんて滑稽な姿か。

 女には、自分が何故滅びようとしているのか分からない。

 予め予測したはずの限界は、まだまだ先のはず。

 なのに、何故?

 

「私が……私が、このまま死ねば、この国はどうなるの?

 弱く、無力で、愚かで――けど……愛する、私の子供達……。

 彼らは、どう、生きれば良いの……?」

 

 《王国》で生きる人間も、そうでない人間も。

 女にとっては、等しく愛する「我が子」だった。

 ――この古き竜は、人間という種族そのものを愛している。

 最初は、自身の肉体に対する執着だった。

 竜の本質は不滅の魂、故に身体は極論「器」でしかない。

 けれど肉と、物質的な繋がりにその竜は深い喜びを見出した。

 人間と積極的に接触を取るようになったのは、そのため。

 故に女は、《大淫婦》なんて異名でも呼ばれるようになった。

 ――人間を愛して、愛して、愛して。

 いつしか築き上げた、大陸の半分を支配する巨大国家。

 《王国マルクト》と名付けられた、竜が人という種を愛した証明。

 誰もがそれを、永遠だと錯覚した。

 永遠などないと知りながら、女はその繁栄を支え続けた。

 その果てが、今この薄闇の中にある。

 

「――嫌、嫌、嫌……認めない、そんなのは……!」

 

 手にした繁栄が失われること。

 一から積み上げた文明が崩れること。

 そんなことは、女にとってはどうでも良かった。

 ただ、その全てが消え去った時。

 荒野に取り残される者達が、如何なる運命を辿るのか。

 想像しただけで、女には耐え難かった。

 

「……お願い、もう少しだけ……っ」

 

 目指した場所の距離は、大したことはない。

 けれど、最早まともに歩くのもままならない女にとって。

 それは永遠にも等しい断絶だった。

 少しずつ、確実に。

 薄闇の奥に隠された、たった一つの「望み」。

 間もなく、女は辿り着く。

 それが如何なる結果をもたらすのかを。

 陰惨なる未来に続く、運命の陥穽かんせいであることを。

 過去の夢に過ぎない女は、まだ何も知らない。

 「藁にも縋る」と言ったのは、果たして誰だったろう。

 そこに含まれている毒など、追い詰められた女の眼には映らない。

 

「……始祖が、狂い果てて……その上、竜までもおかしくなった。

 分からない……何故、どうして……?

 一体何がいけなかったの、私達は何を間違えたの……?

 分からない、分からない、分からない――嗚呼、けど」

 

 伸ばした女の手。

 細く、やせ衰えてしまった指先。

 それは薄闇の中で、仄かに輝くモノに触れる。

 透明な硝子の円筒と、その内側を満たす青く発光する液体。

 そこに揺蕩う名状し難い「何か」。

 

「私だけは……貴方達を、愛してると、証明しなくちゃ……。

 世界は過酷で、運命は残酷で……。

 それでも、私は、人間を――貴方達を、愛していると」

 

 竜が語る人の愛。

 それは、疑いようもなく愛だった。

 竜が騙る人の愛。

 それは、暴力的なまでの愛だった。

 果たして女は、気付いていただろうか。

 衰え、死に瀕する自らもまた。

 どうしようもない狂気に冒されつつある事を。

 破滅が訪れるまで、もう間もなく。

 

「私、は――――」

 

 最後に口にしようとした言葉は、何だったろう。

 誰の耳にも届くことなく、その瞬間はやってくる。

 女の指が、脆い硝子を砕く。

 溢れ出す人工羊水。

 そして遂に、黒い「何か」が女に触れた。

 触れて――それで、全てが終わった。

 

「――――――」

 

 迸る声は、断末魔に等しい。

 女の叫びは歌声のように美しく、《王国》の全てに轟いた。

 ――《王国》の版図に存在するあらゆる都市。

 それらは一つの例外もなく、支配者たるバビロンと繋がっていた。

 永遠にして不滅なる《天の庭バビロン》。

 誰もが、その繁栄が永久に続くと信じていた。

 けれどその浅き夢は、砕けた硝子のように散ってしまう。

 数多の都市に設置された《聖櫃》。

 そこから溢れ出した黒い「何か」に、誰も抗えなかった。

 抗えず、黒い津波が《王国》の都市すべてを覆い尽くした。

 覆って――そして、嵐の如くに消え去った。

 言葉通り、波が引くように。

 後に残されたのは都市の残骸のみ。

 その大半もまた、続く竜の争いによって失われることになる。

 残ったのは、ただ一つ。

 かつては《天の庭バビロン》と呼ばれた、巨大都市の抜け殻だけ。

 何もかもが死に果てても――尚。

 地の底に横たわる竜は、夢を見ている。

 かつて、手放したくはないと握り締めていた「愛」の夢を。

 もうとっくの昔に、失ってしまったはずの「宝」の夢を。

 狂ったのは誰で。

 忘れてしまったのは誰なのか。

 分からない――分からない、何も、分からない。

 何が分からないのかも、分からない。

 

「――――本当に?」

 

 嗚呼。声が聞こえる。

 良く知った夢の声、或いは見知らぬ夢の声。

 過去の情景は消え去って、誰かは暗闇に立っている。

 後も先もない、本当の闇。

 自分の容すら定かではなく、けれど「誰か」が後ろにいる。

 囁く声。触れる吐息。熱。汚濁。死。

 

「私は誰?」

「お前は誰?」

「思い出せ」

「思い出さなくて良い」

「邪魔をしないで」

「許さない、絶対に」

 

 声。声。声。声。声。

 アレが誰の声で、コレが誰の声か。

 現実ではない悪夢は、際限なく歪み続ける。

 暗闇の底から伸びる手が、見えてないのにこの目に映る。

 触れてくる。掴んでくる。

 一つになろうという意思は、ソレにはない。

 あるのはただ、熱く煮え滾った怒りだけ。

 

「■■な■い、■れ■■■身■■」

 

 虫食いだらけの声。

 聞こえない、雑音混じりで耳にはちゃんと届かない。

 ――これは現実じゃない。

 これは単なる悪夢で、目覚めれば消え去るもの。

 だから、暗闇の中を這いずった。

 這って、這い進んで。

 今は何も見えない闇の底でも。

 救いがたい悪夢の淵に呑まれてしまったとしても。

 必ず、進む先には光があるはずだと。

 そう信じて、手を伸ばす。

 何も無いし、何も見えない――そう囁く影を振り払う。

 背後から伸びる手が、邪魔をしようと掴みかかる。

 今も囁いて来る、虫の音のような声。

 語る言葉は恨み言か、それとも他の何かか。

 分からないけれど、今は無視する。

 だって。

 

「……光、が」

 

 唇から漏れた声は、誰のものだろう。

 そんな事よりも、闇の底に灯る微かな光を見た。

 目覚めが近い。

 根拠のない確信に従い、今度はその光に向けて手を伸ばす。

 見える距離は遠いけれど、ここは不条理な悪夢の中。

 願えば、どんなに離れた光でも手が届く。

 邪魔をしたところで、もう遅い。

 絡みつく闇を振り払い、指先は目覚めの光に触れた。

 

「■ち■■い、■■■■――――!!」

 

 誰かが、そんな風に叫んだ気がした。

 光は覚醒を招き、闇の全てを置き去りにしていく。

 夢は終わり、朝が来る。

 例えそれが――もう何もかも、手遅れだったとしても。

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