217話:水底にて

 

『キャアアアアァァァァァ――――ッ!!』

 

 濁り切った女の悲鳴が、暗い海に響き渡る。

 それは嵐のように海を荒れさせ、船を激しく揺さぶる。

 水面に放り出されそうな衝撃だけど。

 

『屈んでりゃ大丈夫だ!』

 

 腕の中で、猫は変わらず温かな光を放っている。

 揺さぶられてはいるけれど、その力で船は波を耐えていた。

 「私」はぎゅっと猫を抱えながら、どうにか顔を上げる。

 絶え間なく飛び散る水しぶきの向こう側。

 蛇と化した髪を無数にうねらせる、巨大な女の顔をした怪異。

 そしてその怪物自身を足場に、二人の戦士は戦っていた。

 

「水に落ちても助けは期待してくれるなよ」

「そっちこそな!」

 

 森人の男と、甲冑の彼。

 手にした武器も、戦い方も違うけれど。

 息を合わせ、荒れ狂う怪物に対して刃を閃かせる。

 銀の剣と白い刃。

 それらは蛇の如き髪も、怪物自身の肉も容易く削り取る。

 

『アアァアアアアア――――ッ!!』

 

 苦痛を叫び、怪物は海の上でのた打ち回る。

 普通はそれだけで、あっさりと振り落とされてしまいそうだけど。

 

「活きの良い奴だな!」

 

 甲冑の彼は、慣れた様子で暴れる怪物の上を跳び回る。

 森人の方も同様に、揺れなどないみたいに平気で走っていた。

 当然、怪物の方もされるがままではない。

 無数の――それこそ、二桁に届くほどの数の黒蛇。

 先端に鋭い牙さえ備えたソレは、暴れる二人に対して襲い掛かる。

 足場そのものが動き続ける過酷な状況。

 そんな中で、四方から間断なく攻め立てる牙の群れ。

 普通に考えれば、そんなものは防ぎようがない。

 ――けど、彼らは普通ではなかった。

 

「浅知恵だな」

 

 白刃が風のように踊り、黒蛇を瞬く間に斬り落とす。

 死角から迫って来たモノもいたのに、まったく無関係に。

 牙は森人の衣を掠めることさえできない。

 甲冑の彼の方も。

 

「まぁちょっと数が多いけどな!」

 

 森人が見せたような軽やかさはない。

 むしろドタバタと走り回り、不格好さの方が目立つ。

 けれど、結果としては大きな差はなかった。

 剣で牙を弾き、蛇を斬り飛ばし、当たりそうなモノからは逃げる。

 その繰り返しだ。

 鎧の表面を傷つけることもできずに、黒蛇はその数を削られていく。

 明らかに優勢なのは二人の方――だけど。

 

『アアァ!! ドウシテ、どうシて!?』

 

 支離滅裂な嘆きを叫ぶ怪物。

 刻まれた傷は既に塞がり、切断された蛇もまた生えてきている。

 少し前に遭遇した、大目玉の時と同じ。

 強力な再生能力の前では、多少の傷はないのと変わらない。

 加えてこの巨体となれば、一体どれほどの生命力を備えているのか。

 考えただけで眩暈めまいがしそうだけど。

 二人の戦士は、僅かな動揺も見せない。

 むしろ「その程度は当然」と言わんばかりで。

 

「多少しぶとい程度なら、まぁ慣れたものだな。

 どこぞの竜殺しを相手にするよりは随分と楽だ」

「往生際の悪い糞エルフよりは全然マシだよなぁ」

 

 なんて、軽口を叩く余裕さえ見せていた。

 ……本当に、どっちも凄まじいわね。

 

『人間っつーのが信じがたいな、あの二人』

「……そうね」

 

 同じく戦いぶりを見ていた猫の呟きに、「私」は同意するしかなかった。

 この怪物だって、決して弱いワケじゃない。

 ただただ相手が悪かった、その一言に尽きる。

 もし仮に、甲冑の彼と森人の男のどちらか片方だったら。

 ちょっとぐらいは苦戦したかもしれない。

 けど、この二人が揃っている状況では――。

 

『キャアアアァァアア――ッ!!』

 

 再び、怪物の口から甲高い絶叫が迸った。

 ただの声も、これだけ大きいとちょっとした武器ね。

 水面を揺らす程の音量に、「私」は耳を塞ぐしかない。

 怪物の上で戦う二人は、大した影響もなさそう……だけど。

 今の叫びは、さっきまでとは少し違うような……?

 

『? どうかしたか?』

「いえ、何か変な感じが……」

 

 猫の力で守られた船。

 ちょっとした波ぐらいなら、幾ら受けても沈むことはない。

 揺れまでは完全には防げないけど。

 そう――その揺れが、今までとは異なって感じるのは。

 本当に、「私」の気のせい?

 

「…………!」

 

 瞬間、背筋が凍り付いた。

 暗い上に荒れた水面は、殆ど視界を通さない。

 だけど、確かに見えた。

 目の前の女の首とは違う、何か別のモノが船の下で蠢いている。

 さっきの叫びは、仲間を呼ぶための――!

 

「下! 船の下に、何か……!」

『げっ!?』

 

 船の守りに集中していた猫も。

 こちらを気にはかけていても、目前の怪物と戦っていた二人も。

 察知するのが、ほんの僅かに遅れた。

 その隙を突いて、「何か」は下から船を突き上げた。

 衝撃。猫が広げている守りの上からでも、まったくお構いなしに。

 現れたのは、鋭い牙が並ぶ口以外には何もない長大な蛇。

 太く長い身体をうねらせて、「私」の乗る船を激しく打ち据えた。

 これは、流石に耐えられない。

 

「ッ……!」

 

 「私」は兎に角、猫を必死に胸に抱えた。

 そのまま抗うこともできず、暗い海へと投げ出される。

 背中を打つ感触と、全身を水が押し包む冷たさ。

 冷たい。今まで一度も触れていなかったから、分からなかったけど。

 この暗い海は、凍えるほどに冷たかった。

 

『――――!』

 

 猫が何か言ってる気がするけど、「私」の耳には届かない。

 沈む、沈んで行く。

 どうしようもなかった。

 救いようがなかった。

 「私」はただ、暗く冷たい水底へと引き込まれる。

 冷たい。痛い。苦しい。

 何故、こんな目に遭わなければならないのか。

 「私」が一体、どんな罪を犯したのか。

 分からない。

 分からない、何も分からない。

 水の冷たさと頭の痛みが、「私」から思考力を奪い去る。

 変わらず目を開いてはいるけれど、何も見えない。

 ただ、自分が沈み続けていることだけは理解できる。

 「私」は、このまま――。

 

『……しっかりしろ!』

 

 届かないはずの声。

 瞬間、「私」を包む冷たさが一時的に遠ざかった。

 

「っ、げほ……!」

 

 何がと、そう思うよりも早く。

 

『来たぞ! ほら、手ェ伸ばせ!』

 

 腕の中の猫が、「私」を急き立てた。

 何が、と問うよりも前に。

 「私」は見た。

 猫の放つ淡い光が、周りの水を押し退けているのを。

 そして真っ暗い海の中を、「私」の方へと向かって来る姿。

 剣を片手に、ロクに水に浮かばない身体で。

 それでも構わず泳いでくる、甲冑のお化けみたいな彼。

 ――この喜びを、どう言葉で言い表せば良いか。

 

「ッ、後ろ……!」

 

 そんな彼の背後に。

 先ほど船をひっくり返した蛇の怪物を見た時。

 背筋と言わず、「私」は全身が氷のように冷たくなるのを感じた。

 その声が届いたのか、それとも自力で察知したのか。

 どちらかは分からないけど、彼も蛇の動きには反応していた。

 だけど、水に適応した怪物と比べたら余りにも鈍い。

 もがくような彼に対して、蛇は驚くほどに素早かった。

 

「……!!」

 

 甲冑の彼に、怪物の体当たりが直撃する。

 実際は噛み付こうとしたのを、彼が咄嗟に狙いをずらしたのだと。

 「私」は一目では気付けなかった。

 水の中を吹き飛ばされ、その勢いで彼は「私」の方に向かって来る。

 だから、「私」は猫の言葉通りに手を伸ばした。

 

「悪い、遅れた!」

『ぐえっ!?』

 

 猫の魔力が押し広げた水の隙間。

 そこに飛び込んで来た彼を、「私」は精一杯受け止めた。

 間で猫が潰れた気がするけど、今は置いておく。

 必要のない謝罪に、「私」はすぐには応えられなかった。

 

『良い空気醸してるとこ悪いが、また来るぞ!』

 

 彼と「私」に挟まれた状態で、猫が警告を発した。

 その言葉通り、暗い水中を長い影が高速で泳いでいるのが見える。

 こちらの周囲をグルグルと。

 襲い掛かる機会タイミングを見計らうように。

 

「大丈夫だ」

 

 このままでは拙い、と。

 考えて、「私」が何かを言うより早く。

 彼はハッキリとそう言った。

 

「なぁ、この範囲もうちょい広げられるか?」

『この水、魔力が濃いんでくっそ重たいんだけどなぁ……!』

 

 文句を口にしながらも、猫は期待通りの役目を果たす。

 「私」達を中心に、球状の水のない範囲が少しだけ広がった。

 足下に地面はないのに、不思議と不安定さはない。

 彼は「私」を片手に抱えたままで、剣を構える。

 そう、広がったのはほんの少しだけど。

 剣を振るう空間としては、十分に。

 

「おおぉォッ!!」

 

 甲冑の彼が気合いを叫ぶ。

 同時に、放たれた矢の勢いで突進してくる大蛇。

 開かれた、牙の並んだ大口からは。

 

『一緒になロウよ! 怖くナイかラ!!』

 

 悍ましい呼び声が発せられていた。

 頭に直接響くその声など、彼は少しも気にしない。

 迎え撃つ形で銀の刃が閃く。

 振り抜かれた剣が、並んだ牙ごと大蛇の口を斬り裂いていた。

 一撃ではなく、更に二度三度と。

 刃に刻まれ、大蛇は赤く濁った血を撒き散らす。

 返り血は彼が受けてくれたので、「私」には殆ど掛からなかった。

 首から上を刻まれて、蛇に似た怪物は絶命する。

 力を失った身体は、そのままゆっくりと冷たい水底へと沈んで行った。

 完全に見えなくなっても、「私」は簡単には目を離せなかった。

 

「……終わった、の?」

『あの海蛇みたいな化け物はな』

 

 「私」の漏らした呟きに、猫が鳴いて応えた。

 

『まだ上にデカい頭がいるだろ。そっちがまだのはずだ』

「っ……そう、よね」

 

 危機的状況だったせいか、うっかり抜け落ちていた。

 海の上では、未だにあの巨大な生首がいるのだ。

 いや、アレも髪の毛を長い黒蛇の群れに変化させていた。

 それを伸ばせば、水中の「私」達にも十分届くはず。

 あと、森人の男は一人残されているけど、そちらの方は……。

 

「とりあえず、上に戻れるか?」

 

 「私」の思考は、そんな彼の声で中断した。

 

『そりゃ戻れるが、大丈夫か?』

「多分な。実際大丈夫だとは思うが、ちょっと急ぎで戻るか」

『この猫遣いの荒さよ。まぁ了解した』

 

 猫がそう言うと「私」達を包む力が浮かび上がる。

 早くはないけど確実に、暗い水底から水面へと。

 水は重い色をしているせいで、視界はごく近い距離で途切れてしまう。

 何が潜むかも分からない、冷たい海。

 身震いしそうな「私」を、彼は黙って抱き締めてくれた。

 硬いはずの鎧に熱を感じるのは、おかしい事だろうか。

 

『そろそろだ……って、随分静かだな?』

 

 その言葉の通り。

 水面が近いようだけど、あまり荒れた様子はない。

 あの巨大な生首が暴れると、それだけで嵐のような有り様だったのに。

 やがて、水を押し退ける魔力の境界線が海面に触れて――。

 

「――無事だったか。

 帰りが遅くて、少しばかり気を揉んだぞ」

 

 水の下よりはマシでも、やっぱり暗い空の下。

 無数の傷で刻まれた状態で、海面に半ば沈んだ巨大な生首。

 半開きの瞳に光はなく、明らかに絶命している。

 森人の男は、別段誇る様子もなくその上に立っていた。

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