210話:真竜の円卓(後)


 瞼の下で燃える、赤黒い瞳。

 《黒銀》の外見、はどう見ても十代半ばから後半ほどの可憐な少女だ。

 けれどその瞳から垣間見えるのは、地の底で渦巻く炎の輝き。

 細く小柄な身体には、大地そのものを動かす熱が脈動している。

 ――人の形を保っている事だけでも信じがたい。

 玉座の少女を見ながら、ウラノスは言葉には出さず戦慄していた。

 他の大真竜達とは、存在の次元が根本的に異なる。

 この大陸に「神」と呼ぶべき者はいない。

 別の世界より飛来した、「偽りの神」がとざした箱庭であるが故に。

 しかし敢えて、「神」と崇めるに相応しい者がいるとすれば。

 それこそ、星の怒りを呑んだこの《黒銀の王》の他にはいないだろう。

 

「――――」

 

 同胞の呼びかけに応じ、目を開いた少女。

 焦点の合っていない瞳が、暫し虚空を彷徨う。

 他の大真竜達は、それを見守りはしても何も言ったりはしなかった。

 《大竜盟約》の頂点にして、神のいない竜の大地を庇護する神威。

 《黒銀の王》がそのような様子を見せるのは、別に珍しいことではない。

 抱える力が余りにも強大過ぎる弊害だ。

 彼女の人としての精神や自我は、常にその力によって圧迫され続けている。

 故に、こんな風に意識が忘我の狭間を漂っているのが常だった。

 空白の時間が少しばかり流れた後、赤黒い瞳に僅かに理性の光が戻って来る。

 

「……あぁ、ウラノス。何か問題が?」

 

 ゆっくりと、重々しく。

 繊細な唇から発せられる声一つでも、凄まじい圧力を感じる。

 この場に集う大真竜達ならば、それは単なる声だ。

 しかし常人であれば、その言葉を間近で聞くだけでも魂が潰れるかもしれない。

 問い返された王の言葉に、ウラノスは慣れた調子で応じる。

 

「《最強最古》についてだ。

 先ほどまでの話も、耳には入っていただろう?」

「あぁ――そうですね。すみません、少し眠っていたようです」

「御身は大いなる礎だ。気にすることはない」

 

 眠っていた、というのは言葉通りの意味ではない。

 この瞬間も想像を絶するような痛苦の中に、少女の魂は在り続けている。

 彼女もかつては、竜の脅威に苦しむ人々を華々しく導いた美しき救世主だった。

 それが今や、己一人であらゆる罪を背負う黒き王に成り果ててしまった。

 ウラノスを含めて、他の誰にも不可能なことを。

 少女だけが成し遂げた。成し遂げてしまった。

 ……そうして《大竜盟約》は成立した。

 この過酷な地で、人が生きる時代を守るために。

 

「……《最強最古》」

 

 ぽつりと、《黒銀の王》はその名を口にする。

 大真竜の末席たるゲマトリアを撃破した、盟約最大の脅威。

 それに対し、盟約の頂点たる彼女は。

 

 

 淡々と、感情の乏しい声でそう告げた。

 

「……《黒銀の王》よ。確かに、貴女にとってはそうだろうが」

「私にとって、ではない。

 アレは、自らの手で勝利を掴める因果を持ちえない。

 故に《最強最古》は盟約の脅威にはなり得ない」

 

 ウラノスの言葉を遮って、《黒銀の王》は続ける。

 《最強最古》では《大竜盟約》は揺るがない。

 それは単なる事実に過ぎないと、盟約の頂点は語る。

 かつての大悪竜の恐ろしさを知る者達も、それに反論はしなかった。

 《黒銀の王》たる彼女の言葉は神託にも等しい。

 イシュタルに至っては、当然のことだとばかりに頷いている。

 ――しかし。

 

「盟約の脅威は、《最強最古》ではない。

 その傍らにいる戦士の方だ」

 

 そう告げる言葉は、かつての救世主である少女のモノか。

 或いはその内に宿る、怒れる星の焔が発したモノか。

 定かでないまま、王が語る声に大真竜達は少々ざわめいた。

 

「傍らにいる戦士こそが脅威だと。

 貴女はそう言うのか、《黒銀の王》よ」

「……以前に一度、刃を交えました」

「ちょっと、それは初耳なんですけど」

 

 玉座に身を沈め、王たる少女の瞳は宙をなぞる。

 抗議めいたイシュタルの声は気にも留めず。

 その意識は一瞬、追憶に身を委ねた。

 ――地を彷徨している際に、たまたま感じ取った「気配」。

 怒れる本能に従い、《黒銀の王》はこれを討ち滅ぼそうとした。

 容易いことのはずだった。

 星の怒りに晒されて、抗える者など皆無。

 だが。

 

「あそこで滅ぼすつもりだった。

 けれど、彼らは私の刃を逃れた。

 あの戦士の奮戦なくば、それは叶わなかった」

『……君と遭遇し、あまつさえ刃を交えて生き残ったのか』

 

 これ以上ない戦慄を込めて、コッペリアが呟く。

 彼らにとって、それはゲマトリアが敗れたこと以上の衝撃だった。

 ――盟約の脅威となり得る者は、《最強最古》に非ず。

 彼の者の力を知るからこそ、俄かには信じがたかったが。

 

『王たる者の見識を、侮るべきではないな』

 

 その老賢人オーティヌスの言葉が全てだった。

 ブリーデもまた、変わらぬ苦い表情で頷く。

 

『……確かに、《黒銀》の言う通りだと思う。

 真竜バンダースナッチ相手に、剣一本で戦って勝ったのもアイツだから』

「貴女は貴女で、その辺の情報はもうちょっと早く口にするべきじゃないの?」

『私はできれば関わりたくないのよ……!』

『ブリーデの気持ちは分かるけど、そうも言ってられない状況だからね』

 

 責めるというよりも、呆れが強いイシュタル。

 それに対し、ブリーデは未だに自らを定められず迷ったまま。

 コッペリアはそれを否とは言わなかった。

 ただ、悲しみと憐れみの混じった声で笑うのみ。

 彼らのやり取りそのものに、オーティヌスもまた何も言わなかった。

 盟約の次席として、更に言葉を続ける。

 

『真に脅威たる者がどちらであれ。

 《最強最古》とその戦士が行動を共にしているのなら。

 やはり、どちらとも《大竜盟約》の敵として排除せねばなるまい』

「ゲマトリアを打倒し、《黒銀》と遭遇しながらも生き延びる程の相手だ。

 凡百の真竜では到底太刀打ちできまい」

 

 言外に、ウラノスは「自分が討伐に出る」という意向を示す。

 先の屈辱を思い出したか、牙を剥くような顔でイシュタルも声を上げた。

 

「それならば私が。

 受けた借りは返さないと気が済まないわ」

『逸るのは理解できるが、少し気を落ち着けるといい。

 討伐は大真竜の手で行うべきなのは間違いない。

 ――が、それ以前に彼奴等の現在の位置が未だ掴めていないのが問題だ』

 

 万里を見通す暗き眼。

 オーティヌスはそう語っている間も、「敵」の所在を捉えようとしていた。

 しかし未だに結果は芳しくないようだ。

 

「翁の目を以てしても、行方を掴むことは難しいか」

『もとより、あの《邪悪》は三千年の長きに渡り我が目から隠れて来た。

 彼奴が本気で姿を消したなら、容易くは捉えられぬか……』

 

 怒りを含む声でオーティヌスは呟く。

 眼窩に燃える瞳ならざる瞳が、言葉を交わしながらも忙しなく動く。

 《最強最古》自身を、直接見つけるのはやはり困難。

 ならば痕跡や気配の残滓なら掴めるのではと、万里を見通す眼は探り続ける。

 しかし、老賢人の目には微かな影も映らない。

 余程念入りに身を潜めているのか。

 或いは――。

 

「……お爺様の目も届かない場所に隠れている可能性は?」

 

 それを最初に言葉にしたのはイシュタルだった。

 オーティヌスは大真竜であると同時に、古き魔法使いたる始祖の王。

 魔法の力が及ぶ限りにおいて、その能力は万能に近い。

 だが、それはあくまで「近い」だけ。

 始祖の王とて決して全能ではない。

 万里を見通すまなこでも、届かぬ場所は幾つかある。

 

『……我が眼が届かぬのは、この地においては限られている。

 一つは、この大陸と外界との繋がりをとざす果ての海――《断絶流域》』

 

 かつて《造物主》が、新たに創造した箱庭を隔離するために敷いた檻。

 空間そのものをあらゆる意味で切り離した断絶。

 影響する周辺も含めて、それはオーティヌスでも正確には見通せない。

 そして、もう一つは。

 

『――《天庭バビロン》』

 

 その名を口にしたのは、オーティヌスではなかった。

 玉座で再び瞼を閉ざした《黒銀の王》を除いて。

 大真竜らの視線を集めたのは、序列五位のコッペリアだった。

 フードで半ば以上は隠された顔。

 僅かに覗く口元は、笑みの形に歪んでいた。

 

『かつて、この大陸で最も栄華を極めた巨大都市メガロポリス――その残骸。

 あの場所は僕ら大真竜でも容易には手を出せない禁域だ。

 都市跡を隠す霧の内側は、例えオーティヌスでも見えない。そうだろ?』

 

 いっそ楽しそうに語るコッペリア。

 彼女がここまで明確に感情を見せるのは、大真竜達の前でも稀な事だ。

 稀ではあるが、それ自体は別に大した問題ではない。

 問題があるとすれば、今のコッペリアの感情がどういう類のモノか。

 その一点だった。

 

「コッペリア」

 

 真意を掴み切れず、ウラノス辺りは返す言葉に迷っていたが。

 イシュタルは空気を読まず、躊躇うことなく彼女の名前を呼んだ。

 

『何かな、イシュタル?』

「アンタ、最初からあの連中が《天庭》に逃げ込んだと知ってたんじゃないの?」

「それは誤解だよ。

 ――まぁ、君が彼らを取り逃がした時。

 密かに逃げる軌道を追跡してたのは間違いないけどね?』

 

 不機嫌そうに唸るイシュタル。

 それにコッペリアは、悪びれた素振りもなく笑ってみせた。

 その反応に余計苛立ったか、イシュタルの周りの空気が一気に重くなる。

 怒り任せで手を出してしまわぬ辺り、理性は多少は機能しているようだった。

 

『落ち着け、イシュタル』

 

 そこにオーティヌスも諫めに入る。

 最も敬愛する相手に言われては、イシュタルも大人しくする他ない。

 尤も、その表情はふて腐れた子供のようだが。

 

「ですが、お爺様……!」

『コッペリアの求めている事は分かっている。

 あの《天庭》とその近辺は、現在はお前が管理しているはずだな?』

『管理と言っても、外から見て異常がないか監視する程度だけどね』

 

 確認するオーティヌスに、コッペリアは軽く肩を竦める。

 盟約の大真竜でも、常は監視だけに留める禁域。

 海の果ての《断絶流域》とも並ぶ危険地帯。

 迂闊に触れることのできない災厄パンドラの箱。

 その実態を正しく理解しながらも、コッペリアは酷く楽しそうだった。

 彼女の真意は、同胞たる大真竜達でも完全には推し量れない。

 

『彼らが《天庭》に踏み込んだ以上は、事は僕の管轄だ。

 暫くはこちらが預かる形で構わないかな?』

『否と言っても聞きはすまい。

 ブリーデこそ、それで構わぬのだな?』

『見透かしてるわねお爺ちゃんは。まぁ、私の方が年上なんだけど』

 

 年上とかそういう次元ではなく、この場の誰よりも長く生きる白蛇。

 彼女はまた細くため息を吐いた。

 

『……事前に約束しちゃったから。

 悪いけど、私はコッペリアに付き合うわ。

 彼女に無茶は――私が努力できる範囲では、させないから』

『あぁ、頼んだ。コッペリアも、くれぐれも自重を忘れてくれるなよ』

『勿論、心得ているさ。

 少なくとも、彼らが《天庭》にいる間は様子見するしかない』

 

 やはりコッペリアは、軽い調子で笑うのみ。

 万里を見通すオーティヌスの目ですら、その心の底は闇の中だ。

 

『そんな心配そうな顔をしなくて大丈夫だよ。

 いや、髑髏だから表情とか良く分からないんだけどね?』

「――――」

 

 円卓の大真竜達が言葉を交わす中。

 玉座に在る《黒銀の王》だけは、瞼を閉じて沈黙していた。

 既に必要な事は語り終えたと、そう言うように。

 フードの下の眼差しが、一瞬だけ黒い少女の姿を見た。

 コッペリアはその有様に、果たして何を思ったか。

 心の内は見せぬまま、序列五位の大真竜は独り言のように呟く。

 

『ま――仮に、連中が《天庭》の内にまで踏み込んでいたとしたら。

 場合によっては、僕らが手を下さずに済むかもしれないね』

 

 それは戯言ではなく、十二分に起こり得る未来の可能性として。

 コッペリアは笑いながらそう語った。

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