203話:三千年の別離


 程なく訪れる死。

 彼は本当にあっさりと、私の言葉を受け入れていた。

 最初から分かっていた事だと。

 その様を見て、私は以前と同じ疑問を口にする。

 

「死ぬのは、恐ろしくないの?」

「恐いさ。当たり前だろ」

 

 応える彼の言葉も、また大きく変わらない。

 死ぬのは怖いと。

 そんなものは当たり前のことだと、死を受け入れた声で言う。

 ……胸の奥がチリチリと痛む。

 この不快な感覚は、なんだろうか。

 

「恐いが、だからビビって逃げても仕方ないだろ?

 元々拾った命だしな。せめて、その義理ぐらいは果たさないと」

「……そんなもの?」

 

 分からない。

 いえ、理屈として分からないワケではないけど。

 どっち道、彼の選択肢は「途中で死ぬ」か「最後に死ぬ」かだけだった。

 道中の「獣」に殺されると、私も最初は考えていたけど。

 その予想を超えて、彼は《北の王》を討ち取った。

 結果として、限界を迎えて死に至る。

 これは、ただそれだけの話のはず。

 

「命を懸ける理由なんて、そんなもんでいいんだよ」

 

 ……どうして、そんな穏やかに語れるのか。

 死は恐ろしいものだと。

 古の竜ですら、あれだけ見苦しく足掻いたのに。

 私が分からないのは、その一点だった。

 本当に、不思議でしょうがない。

 ……不思議と言えば、さっきから私を苛む感覚。

 胸の奥が、まるで火に炙られているように焦げ付くのは。

 本当に、私の気のせい?

 

「……それに」

「それに?」

 

 少しだけ、彼は口籠った。

 あれだけ遠慮なく色々言う質なのに、珍しく。

 一瞬、死んだのかとも思ったけど。

 まだ息はある。まだ彼は生きている。

 だから私は、少し首を傾げて次の言葉を待った。

 

「……いや、何でもない」

 

 だけど彼は、それだけ言って小さく首を横に振った。

 良く分からないけれど、まぁいいわ。

 

「そう? そんな事より、貴方もうすぐ死ぬけど。

 最後に何かないの? 今なら多少の願いは聞いてあげるけど」

「あー……そうだな」

 

 彼はここまで良くやった。

 辿り着けると思っていなかった最初のゴール。

 どうせ直ぐに死ぬから、意味はないかもしれない。

 それでも、少しぐらいの報酬は支払われるべきだろう――と。

 私は気紛れから、そんな事を彼に言った。

 死を目前にした人間が、最後に何を願うのか。

 或いは、それを知りたいという好奇心もあったかもしれない。

 ほんの少しだけ、彼は考え込むと。

 

「……顔、良く見せてくれるか?」

「……そんなこと?」

 

 本当に、心底つまらないことを言って来た。

 確かにこれまで、正体を偽装するための仮面を付けてたけど。

 最後に望むことが、そんな事だなんて。

 ……まぁ、良いでしょう。

 血の流し過ぎで、彼の目はもう殆ど見えていない。

 だから少しでも見えるように顔を近付ける。

 その上で、擬装用の仮面も外した。

 兜の奥、今にも消えそうな火が揺らめく目。

 ぶつかった視線から、火花でも散りそうな距離だった。

 

「はい、これで見える?」

「あぁ、悪いな」

 

 と――不意に、頭に触れる感触があった。

 それは彼の手だった。

 もう身体を動かす力なんて、殆ど残ってないでしょうに。

 なけなしの生命力を振り絞るように、彼は私の頭を撫でていた。

 髪に触れられるのは、不思議と不快でもない。

 

「……ちょっと、何をしてるのかしら?」

「スキンシップだよ。最後ぐらいは良いだろ?」

「……仕方ないわね」

 

 本当に、仕方ない。

 願いを聞くのは一つだけとも、確かに言っていないし。

 他人を騙す事に躊躇はないけど、前言を翻すのは私の沽券に関わる。

 人間が勝手に私に触れるなんて、本来なら厳罰ものだけど。

 彼はもうすぐ死ぬし。

 思い返せば、少し触れるぐらいなんて今さらだし。

 だからまぁ――良いわ。今ぐらいは。

 

「……前に聞いた、お前の望み。叶うといいな。

 心から、そう願ってる」

「――ありがとう。貴方のおかげで、上手く行きそうよ」

 

 それは本心から出た言葉だった。

 こんなに上手く事が運ぶなんて、最初は想像もしなかった。

 彼と出会い、一番初めに剣を与えた事。

 それは私にとって、ここ数百年では一番の幸運だった。

 だから本当に気分が良い。

 何故か、胸の奥が焦げ付いてるような気がするけど。

 あんまり気分が良いから、私はまた気紛れを口にする。

 

「あぁ、そうだわ。最後に、貴方の名前も教えてくれない?

 折角だから――」

 

 そう、折角だから。

 《一つの剣》なんていう、仮の名前ではなく。

 最初に竜殺しの偉業を果たした、彼の名前を付けて上げようと。

 思いついたから、私は今さら彼に問いかけた。

 興味がないと切り捨てて。

 この瞬間まで聞こうともしなかった、彼の名前を。

 きっと、快く教えてくれるに違いない。

 そう、思っていたけど。

 

「……死んだのね」

 

 結果はこの通り。

 彼はもう、その時点で息絶えていた。

 死んだ。彼は死んでいた。

 当たり前だ。最初から分かっていた。

 ただの人間が剣の力を借りたとはいえ、不死なる竜王を討った。

 あり得ざる偉業の対価がコレだ。

 結果から見れば、むしろ安い方でしょう。

 私の計画は、この時点で九割がた完成したのだ。

 人間の死などどうでも良い――それこそ、言祝ぐべき事で。

 

「…………」

 

 そのはずなのに。

 何故か、私の胸の内から沸き上がるのは短い思い出の数々。

 彼と過ごした一年足らずの記憶。

 何故、何故?

 永遠を生きる古き竜、この地の始まりから生き続ける《最強最古》。

 そんな私にとって、こんなものは取るに足らない。

 おかしな男と仕方なく過ごしただけの、余りに短い旅路。

 弱い「獣」を相手に、何度も死にかけた彼。

 少しずつだけど、剣を扱う事にも慣れて。

 かと思えば、もっと強い「獣」に酷い目に遭わされもした。

 本当に、どうしようもない旅路だった。

 結果的には目的も果たせた――もう少し、時間が掛かると思ってたけど。

 流れる星のように過ぎた日々。

 あんなに食事をとったことなんて、これまでなかった。

 他人と語らう機会なんて、少し前は指を折れば足りてしまうほど。

 夜が訪れる度に星空を見上げて。

 つまらない――そう、笑ってしまうぐらいにつまらない話をして。

 何度も、何度も、何度も。

 あっけない日々を積み重ねて、ここまで来た。

 旅の果ての姿が、私の目の前にある。

 もう、上る日と共に北を目指す朝は来ない。

 星を共に見上げた夜は来ない。

 彼の……いえ、私達の旅の終着は、ここに。

 

「…………あ」

 

 気付いた。

 気付いてしまった。

 気付いたら、彼の手に触れていた。

 壊れかけた籠手から覗く指先。

 それに自分の指を絡めて、その冷たさに愕然とする。

 彼は死んだ。

 ここにあるのは、生命が失せた死体だけだ。

 剣の力で魂を燃やし尽くし、灰となった亡骸のみ。

 分かっている。分かっていた。

 それなのに。

 私はこの瞬間になってようやく、「彼は死んだ」と知った。

 分かっていなかった。

 私は、何も分かっていなかった。

 この世界の真理を、魔導の秘奥の数々を知るはずの私が。

 この時になって初めて――死が喪失であると、知ったのです。

 永遠不滅の古竜と違って、人間は簡単に死んでしまう。

 そんな当たり前に過ぎることすら、この瞬間まで知らなかったなんて。

 

「……ねぇ、ちょっと」

 

 呼びかけても、屍が応えることはない。

 指先から、失った熱の冷たさが伝わるだけ。

 

「まだ、まだ聞いてないじゃない。貴方の名前」

 

 あぁ、なんて愚かな結末。

 これが私の旅の終わり。

 機会は幾らでもあったのに。

 遠くに瞬く星の光にばかり目を奪われて。

 その瞬間がやってくるまで、気付くことさえできなかった。

 知らない景色は、これまでの旅路で何度も見た。

 それを叶えてくれた彼こそが、私の望んだ星の光だった事。

 空の星は、遥か遠く。

 この目に映る光は、とうの昔に滅びた星の煌きかもしれない。

 失われてから、それが輝きだったと気付く。

 これが、愚かな竜が辿り着いた、取り返しの付かない結末だった。

 

「あ――――あ、ああぁああああぁああッ……!!」

 

 いつの間にか、私は叫んでいた。

 《北の王》は死に、最初の竜殺しも死んだ。

 生きる者は私以外には誰もいない。

 死の静寂だけが横たわる北の最果てに、私の慟哭だけが響く。

 ……ただ死んだだけなら、まだ手はあった。

 魂が肉体を離れて、《摂理》に還ってしまう前ならば。

 器である肉体を治して、離れたばかりの魂を定着させられる。

 それが私に可能な、疑似的な死者蘇生の法。

 他に同じことができるのは、精々が始祖の一部ぐらい。

 ……ただ死んだだけならば、それで何とかなった。

 

「……ダメ。魂が、燃え尽きてる」

 

 彼の魂は、失われてしまった。

 言葉通りに、残っているのは燃え尽きた灰のみ。

 剣の火に焼かれて、その魂の本質は剣に呑まれてしまった。

 後には《摂理》に還る力すら失った魂の残骸だけが、骸の内にある。

 魂そのものが失われた後では、どうしようもない。

 完全な死者蘇生なんて、私にも不可能だ。

 どれだけ嘆いても結果は覆らない。

 私は彼の亡骸を抱えて、泣き叫ぶしかなかった。

 胸を満たす悲しみのままに。

 泣いて、泣いて、泣いて。

 そこに《最強最古》と恐れられる竜はいなかった。

 いるのはただ、愛を知らずに失った愚か者だけ。

 果たしてどれほどそうしていただろう。

 ……嘆き続けても、何も変わらない。

 生まれて初めての涙と悲しみが、ようやく落ち着いた頃。

 先ず私がした事は、多くを諦めることだった。

 最初の竜殺しを成し遂げた後の計画。

 千年分の謀略とそれに連なる予定を、全て破棄した。

 今や私にとって大事なのは、目の前にいる彼のことだけ。

 ――現状はもう、手遅れに近い。

 逆に言えば、まだ完全に手遅れではなかった。

 彼の魂だったモノは、ここに残っている。

 剣には残り火が、亡骸には灰となった魂の残骸が。

 ここまで壊れてしまった魂は、逆に《摂理》には戻れないようだ。

 それならば、まだ可能性はある。

 だから私は直ぐに事を始める必要があった。

 

「……可能性は、ゼロじゃないだけでゼロと大差ないわね」

 

 理論上は可能とか、そんな次元ですらない。

 燃え残った灰から一枚の絵を、以前の状態に復元する。

 究極的に、私がこれからやろうとしているのはそういうことだ。

 ――不可能だと、頭では分かっている。

 けど、そんな諦めも私は直ぐに捨て去った。

 

「だって、貴方は逃げなかったものね」

 

 笑って、私は彼の顔から兜を外した。

 不可能であるはずの竜殺し。

 彼はその偉業を、私の目の前で成し遂げた。

 だったら私も、不可能の一つぐらいは何とかしないと。

 

「……貴方ってホント、冴えない顔ね」

 

 応える者のいない言葉を囁いて。

 私はそっと唇を重ねる。

 まだ、彼の身体にほんの僅かに残った熱を探るように。

 ――竜を殺すための最果てへの旅路は、これにておしまい。

 彼と私で駆け抜けた御伽噺の幕は下りる。

 此処から始まるのは、私一人だけの新たな旅。

 彼にもう一度出会うための、三千年の――。

 

 

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