192話:八本腕の怪物

 

 それはこの歪んだ森の中心。

 空を塞ぐ木々よりも、更に大きく聳え立つ巨木。

 その幹に張り付くのは異形の怪物。

 それこそが、この森から抜け出そうとする者を阻む「獣」。

 人に近い形状の身体に、八本の腕を蜘蛛のように生やした姿。

 後頭部が異様に肥大化した頭に口はなく、無数の目がギョロりと動いている。

 ……これまでも大概だったけど、ひと際悪趣味な造形をしてるわね。

 

「この森を抜けるための道は、あの木の根元にあります」

「マジかよ」

 

 指差す私の言葉に、彼はややうんざりとした様子で応えた。

 巨木に張り付いた「獣」――仮に八本腕とでも呼びましょうか。

 向こうも私達に気付いているようだけど、まだこれといった動きは見せない。

 近付かない限りは襲って来ないのかしらね。

 

「……まぁ、睨めっこしてても仕方がないよな」

 

 暫し様子を見ていたけど。

 彼も覚悟を決めたようで、小さくそう呟く。

 そして剣を構えたまま、ゆっくりと巨木の方へと近付いていく。

 私もその後ろに続いた。

 

「てっきり、そのまま突っ込むかと思いましたが」

「さっき注意されたばっかだろ?」

 

 成る程?

 私の言ったことを、一応気にはしていたらしい。

 少し笑ってしまった私に、彼は軽く肩を竦めてみせた。

 

「しかし、この『獣』もまぁ凄い見た目だな。

 この先もあんなグロい見た目の奴ばっかなのか?」

「この程度で何を言ってるんですか」

 

 そう言葉を交わしている間にも、八本腕と私達の距離は縮まって行く。

 ざわりと、「獣」が纏う空気が微かに変わった。

 思った通り、自分の縄張りに近付く者は許さないらしい。

 「獣」らしい本能と言うべきかしら。

 

「竜とは、己が意思で身体を変貌させるもの。

 時として異形に変ずることもあるのですから、このぐらいは驚くにも――」

 

 と、私が語り出したその時に、遂に八本腕が動き出した。

 木の幹に垂直に張り付いた状態で、思いの外素早く迫って来る。

 そして腕の一本を更に伸長させ、こちらに向けて――。

 

「え」

「あ」

 

 ……状況的に、八本腕が狙ったのは彼の方だ。

 伸びて来た手に対し、彼は反射的に回避行動を取った。

 標的に避けられて、それでも八本腕の手は更に伸び続ける。

 そして必然、少し離れたところの私にまで届いた。

 届いてしまった。

 彼も私も、これはまったく予想していなかった。

 五本の太く長い指が、私の胴体をしっかりと掴んで。

 

「きゃああぁっ!?」

 

 見た目通りの強い力で、八本腕は私を高く持ち上げる。

 思わず、私の口からはそんな声が漏れてしまった。

 ――本当に、完全に油断していた。

 これまでの「獣」は弱く、本能的に私に触れることを避けていた。

 けどこの八本腕は、今までの「獣」と比べれば強い方だ。

 その強さゆえ、力を制限した私を恐れてはいないのか。

 

「ちょ、このっ。離しなさい……!」

 

 指を引き離そうとしたが、ダメだ。

 「獣」の皮膚から分泌される粘液が絡みついて、上手く力が入らない。

 このねばねばした液体で、木の幹に垂直で張り付くなんて真似をしてるのか。

 いえ、今はそんな事よりこの状態から抜け出さないと……!

 魔法で吹き飛ばすのも一瞬考えたけど、それはダメだ。

 これほどの大物であれば、きちんと剣の方で仕留めて貰わないと。

 だから、ええ。

 

「ちょっと!」

「あっはい」

 

 何故か下から見ている彼に対し、私は声を張り上げた。

 

「このぬとぬと絡みついて来る手を、何とかしてください……!

 早く!! あっ、こらっ、お前どこ触って……!?」

 

 ねばつく指は、私を掴んだ状態でも虫のようにわさわさと動く。

 おかげで服とかが酷い状態になりつつある。

 この程度で身体に傷は付かないけど、それ以外がどうしようもない。

 そんな風にもがく私を、彼はいっそのんびりと眺めて。

 

「いや、割と平気そうだしちょっと眺めるのもいいかな、と。

 …………しかし普段の態度とは違って、思ったよりも胸は小さい……」

「は??」

「すいません今すぐ助け出させて頂きますっ!!」

 

 何やら余計なことを口走ったようだけど。

 私の誠意を込めたお願いが、ちゃんと届いたようで何よりね。

 ええ、本当に。一瞬この「獣」ごと纏めて叩き殺そうかと思ったけど。

 一度動き始めれば、彼の行動は実に迅速だった。

 巨木はその根も大きく、デコボコしているが足場としては十分。

 彼は鎧を鳴らして木の根を駆け上がり、八本腕を剣の間合いに収める。

 八本腕は半分の腕で身体を支え、私を捕まえてる以外の三本の腕を振り回す。

 捕まれば拘束される粘性の指先。

 時に身を躱し、時に剣で斬り裂いて。

 思った以上に鮮やかに、彼は八本腕へと肉薄した。

 

「お触り禁止だぞ、化け物!」

『■■■■■■――――!』

 

 口が無いにも関わらず、八本腕は名状し難い咆哮を轟かせる。

 真っ直ぐ振り下ろされた剣が、私を捕らえていた指の何本かを斬り落とした。

 その痛みに悶える「獣」の手から、私の身体が滑り落ちて。

 

「っと」

 

 それを彼は片手で受け止めた。

 ……別に、下に落ちても問題はなかったけど。

 

「大丈夫か?」

「大丈夫に見えるの?」

「すげーネバネバしてるな、ウン」

 

 思わずギロリと睨んだら、彼はさっと顔を逸らす。

 文句はそれこそ幾らでも言えるが、私の不注意もないではない。

 ……仕方ないので、ここは一旦呑み込んでおきましょう。

 それより今は、八本腕の対処の方が重要だもの。

 

「ほら、私のことは良いから――良いですから。

 早く下ろして、『獣』の相手に専念してください」

「だな。じゃあちょっと離れて……」

 

 そこで。

 私も彼も、重大な問題に気が付いた。

 粘つく八本腕の手から、無事に離れはしたけども。

 私の身体にはまだ、粘液のようなものが多く付着していた。

 それを受け止めた彼の身体にも、当然その粘液が付いてしまった。

 ……離れようにも、液体がねばついて上手く行かない。

 これは、ちょっと、流石に。

 

「……どうしよ」

「貴方ってやっぱり馬鹿でしょ……!?」

 

 こればかりは、自分の失敗ミスを棚に上げて罵倒してしまった。

 八本腕は歪んだ森に雄叫びを轟かせ、私達にその敵意を向けてくる。

 すぐに離れるのは無理と判断したか。

 彼は改めて私を抱え直すと、そのまま走り出した。

 こちらも半ば反射的に、彼の身体に腕を回してしまう。

 

「ちょっと……!?」

「悪いが少し我慢してくれ!」

 

 文句を言う暇もない。

 走る彼を追う形で、八本腕はその長い腕を振り回す。

 粘液に塗れた指には、いつの間にやら鋭い爪も生えていた。

 捕まれば鎧など無関係に、容易く肉を引き裂かれてしまうだろう。

 そんな死神の手から、彼は全力で逃げ回る。

 

「逃げてばかりじゃお話にならないわよ!」

「分かってる……!」

 

 走る。走る。走り続ける。

 私の声に応えながら、足は決して止まらない。

 ……今の私の身体は見た目相応で、大した重さはないけれど。

 それを考えても、彼の動きは驚異的だった。

 足下はデコボコした木の根で、決して軽くない甲冑を纏ったまま。

 片手に私を抱えた状態で、八本腕から逃げ続ける。

 無理をしているのは一目で分かった。

 しかしちょっと無理をしたぐらいで、これだけの身体能力が出せるものか。

 この瞬間の彼は、確実に私の予測を超えていた。

 如何なる理屈でそんな力を発揮しているのか、私には分からなかった。

 

『■■■■■――――っ!!』

 

 そんな私の困惑とは別に、八本腕は苛立たし気に吼える。

 指を何本か切断され、挙句に逃げるばかりで捕まえられない獲物。

 頭の悪い「獣」にとっては、さぞ腹立たしいことでしょう。

 激情のままに襲い掛かる八本腕。

 その動きは酷く大雑把で、ついでに隙だらけだ。

 彼はそれを見逃さず、大振りな腕の下を素早くかい潜る。

 一閃。片手での剣撃だけど、鋭い切っ先は八本腕の肉を深く抉った。

 更に二度、三度と腕や胴を斬り裂きながら。

 彼は暴れる「獣」の周りを駆けまわる。

 怒りと苦痛に叫ぶ八本腕に対して、彼は実に冷静だった。

 ……本当に、ここまでやれるのは予想外だわ。

 

「きっつい!」

 

 自分の現状を端的に吐き出しつつも、彼は八本腕を確実に追い詰めていく。

 伸びてくる腕を刃で削り、爪には捕まらないよう走り回る。

 基本的にはその繰り返し。

 戦術と呼ぶには単純過ぎるけれど、完璧に実行できるなら話は別ね。

 敵の攻撃は全て捌き、自分の攻撃は確実に当てる。

 ほんの少しでも集中力を切らせば、そのまま押し潰されて死ぬ。

 そんな生死の境を走る作業を、彼は延々と繰り返した。

 避け切れず、「獣」の爪に鎧の上から多少身体を削がれたとしても。

 止まらない、緩めない。

 そんなものは大したことはないと言わんばかりに。

 彼はまた一太刀、八本腕の身体を斬り裂いた。

 強靭な「獣」の肉体とはいえ、もう二桁に届く程の傷が刻まれている。

 まだ息があるのは驚きだけど、同時に限界も近い。

 片手だけで大丈夫かと思ったけど、これなら何とかなりそうね。

 しかしまさか、ずっと抱えられたままなんて……?

 

「気を付けて、何かしてくるわ!」

「マジか」

 

 つい、私はそんな言葉を口走ってしまった。

 ええ本当に、反射的に言ってしまったの。

 重なる負傷で、怯んだように幹の高い位置に移動した八本腕。

 伸ばした爪を木に食い込ませ、肥大化した頭を高く掲げるその姿。

 何かしようとしていると、そう感じた。

 次の瞬間には、私は彼に警告めいた言葉を向けていた。

 

『■■■■■■――――ッ!!』

 

 森の木々を震わす咆哮。

 それと共に、八本腕の頭にある無数の目が大きく開かれる。

 その目の一つ一つから、眩い熱線が放たれた。

 一発の威力は、精々細い木の幹に穴を穿つ程度。

 それが暴風雨の如き無差別乱射となると、なかなか堪らない。

 彼は八本腕から距離を取り、剣を振るって熱線の幾つかを叩き落した。

 なかなか凄いことをしているけれど。

 

「熱っ!?」

 

 当たり前のことで、全ては防ぎ切れない。

 腕や脚を熱線が掠めて、肉の焦げた臭いが漂う。

 鎧が多少威力を減らしているけど、所詮は気休め。

 咄嗟に距離を取ったことで、熱線の密度は下がった。

 けど八本腕は途切れさせる気配もなく、延々と熱線を放ち続ける。

 ――このままなら、彼は耐え切れずに死ぬだろう。

 賦活剤を呑んで傷を塞いでいるけど、文字通り焼け石に水。

 八本腕は熱線を乱射する構えのまま不動。

 持久戦では、最初からお話にならない。

 

「……やってみるか」

 

 そんな、どうしようもない地獄の只中で。

 彼はぽつりと呟いた。

 まだ諦めていない――その事実だけでも驚きに値するのに。

 一体何をやる気なのか……って、待って。

 どうしてこんな距離で剣を振り上げて……いや、振り被って?

 ちょっと、まさか。

 

「貴方、何して……!?」

「失敗したらごめんな!」

 

 私が制止する暇もなく。

 あろうことか、彼は手にした剣をブン投げたのだ。

 片手ではあるけれど、渾身の力を込めた投擲。

 刃を高速で回転させながら、至高の剣は鮮やかな放物線を描く。

 これで大外れなら笑いものだけど。

 標的は巨大な「獣」で、かつ大木の幹に張り付いたまま動かない。

 熱線の弾幕ぐらいは剣は容易く砕いてしまう。

 そして。

 

『■■■■■――――っ!?』

 

 耳障り極まりないその声は、八本腕の断末魔。

 たまたま、本当に運良く、彼の投げた剣は「獣」の頭に直撃した。

 頭蓋の中に、まともな脳が備わっているかは知らない。

 とりあえず根元まで刃に貫かれてはどうしようもないようで。

 絶命した八本腕は、力を失い地面に落下した。

 

「…………」

「…………」

 

 暫しの沈黙。

 「獣」が死んだのを確信したようで、彼は改めて私の方を見た。

 それこそ、互いの吐息が感じられる距離で。

 

「……上手く行ったからヨシっ」

「一つも良くないわよ馬鹿」

 

 とんでもない事をしでかした大馬鹿の顔に、私は一発叩き込んでしまった。

 

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