168話:それで満足か
動けない。
余りの事に呼吸さえ忘れそうになる。
手を掴まれていること以上に、その眼がオレを捕らえて離さない。
眠りから目覚めたゲマトリア。
これまで見て来た道化のような雰囲気は欠片もない。
暗い炎を宿すその瞳がオレの姿を映している。
怒りは感じなかった。
ただ冷えた刃のような敵意だけが突き刺さる。
――動けない。
動けば死ぬという確信がオレの魂を支配していた。
「……まったく、最悪な気分ですね。
こんな事、いつもならあり得ないはずなのに」
ため息混じりのゲマトリアの声は、低く重い。
幼い外見とは裏腹に、その言葉や仕草には疲れが見える。
生きる事に倦んだ老人めいた空気。
それはこれまで見たゲマトリアの姿とはあまりにかけ離れていた。
「下手な真似しないで下さいよ。
こっちも寝起きであんまり機嫌が良くないんで。
うっかり手首を握り潰してしまうかもしれません」
その言葉は姉さんに向けたものだった。
恐らく、捕まれている私を何とか助けようと考えたんだろう。
気配を察したゲマトリアが先手を打って釘を刺しに来た。
姉さんは何も言えず、喉の奥で小さく呻いた。
動けない。
正直、今殺されていないだけ奇跡だ。
手首を握り潰すどころか、身体をバラバラに千切るのも容易いはず。
人間に摘ままれた蟻と比べても尚絶望的な格差。
……しかし、日記を読むのに熱中し過ぎて捕まるとか。
我ながら死ぬ理由としては余りにも情けない。
「……それで?」
「…………」
「下手な真似はするなと言いましたけど、別に喋るなとは言ってませんよ?
それで、どうでしたか」
見たんでしょう?
と、空いている方の手でゲマトリアは日記を指差す。
中身は見たんだろうと、そう確認しているようだ。
嘘や言い訳が通じる状況でもない。
最終的に死ぬにしても、足掻くぐらいはしてみるか。
「……見た。オレ個人としては、悪いとは思ってる」
「おや、意外と殊勝な言葉ですね」
「普段なら、他人の日記を覗き見るなんて真似しねぇからな」
「……そうですか。まぁ、そうでしょうね」
オレの言葉にゲマトリアは少し笑ったようだ。
苦笑というよりは自嘲に近い。
感情の読めない声で笑いながら、ゲマトリアの手が伸びてくる。
此方が持ったままの日記に指をかけ、そっと取り上げた。
万一にも傷が付かないよう、その手つきは酷く慎重なものだった。
「……で、誰ですか貴方達」
「……本気で言ってんのかソレ?」
「レックスやあの《最強最古》の添え物だってのは分かってますよ。
けど個人としての貴方達なんて知りませんし。
まぁ本当なら興味もなかったんですけど。
此処までしたんだから、始末する前に素性ぐらいは聞いておきたいでしょう?」
「あっさり言いやがったな」
殺すから、その前に名乗るぐらいはしてみろと。
ゲマトリアはそう言っているのだ。
笑ってしまうぐらいの上から目線だが、現実にその程度の格差はある。
抵抗しても大して意味はないだろう。
姉さんの様子をちらっと見たが、こっちは悲壮感たっぷりな顔をしている。
せめて命を懸けて、オレだけでも逃がそうとか。
考えてるのはそんなところだ。
……それも多分、意味はないな。
姉さんが死ぬ気で挑んだとしても、オレ一人逃がすのも難しい。
だったらまぁ、覚悟を決めよう。
しくじったら死ぬだけだ――なんて、あの馬鹿の口癖じゃないが。
どうせ死ぬならせめて言いたい事ぐらいは言っておくか。
「どうしました? ビビって声も出せませんか?
まぁそれならそれで」
「マーレボルジェは知ってるかよ、大真竜」
「……あの宝石狂いの事ですか。確かアレは……」
「レックスの奴が最初にぶっ殺した真竜だな。
オレと姉さんは、あのクソ野郎の支配してた都市の人間だよ」
「……成る程、そういう縁でしたか」
納得した様子でゲマトリアは呟いた。
ホント、思い返せば遠くまで来たもんだ。
都市の底を這い回ってた頃は、大真竜と相対するなんて考えもしなかった。
「……感想はそれだけかよ」
「? 何がですか」
「あのクソ野郎がどういう方針で都市を運営してたのか。
知らないとか言わないよな?
アンタは随分働き者で、他の都市に関しても詳しく把握してるはずだ」
「イーリス……」
「姉さんはそのままで。……頼むよ」
一瞬後にはオレの首が捩じ切れてるかもしれないんだ。
姉さんが不安がるのも分かる。
けど今は、オレは一歩も退けない。
死んだら負けだし、自分から退いても負けだ。
オレが勝手に始めた勝負。
それを知らず、ゲマトリアは怪訝な表情を見せた。
「そりゃあまぁ知ってますけど、それが何か?」
「オレは《奇跡》持ちだ。
そのせいで、あのクソ野郎に貴重な
姉さんも姉さんで、身体を弄り回されて散々に利用されたよ。
あの都市には、そんなオレ達よりも不幸な連中もごまんといた。
……別にオレも、自分達だけが特別不幸だとは思った事はないけどな」
「まぁ、そうですね。
貴方の言う通り、この時代じゃありふれた不幸なんじゃないですか?
そんな人間が、この《天空城塞》まで来た事は驚きですけどね」
「それはオレもちょっと驚いてるわ」
ホント、良く此処まで死なずに付き合えたもんだ。
大して面白くもない話を聞かされたと。
これからオレを殺すつもりのゲマトリアは、やや白けた様子だ。
まぁ、そうだろうさ。
オレ達に起こった事なんて、今の時代じゃ路傍の石ほども転がってる悲劇だ。
死も苦痛も高価なモノじゃない。
誰もが泥の底を這いずって、死にたくないから日々の糧を探してる。
なんてことはない、世界は残酷だなんて陳腐な言い回しを使う必要すらない。
それでも生きてかなきゃならないなら、嘆いてる暇なんてないだけだ。
だから真竜どもはクソッタレだとは思ってるが。
恨んでるとか憎んでるとか、そういう感覚は余り無かった。
個人的に恨みがあった奴はレックスがきっちり始末してくれたしな。
「……なぁ、そっちの質問に答えたんだ。
オレもアンタにどうしても聞きたい事があるんだけど」
「? なんですか?
命乞いならよっぽど面白ければ聞いてあげない事もないですけどね」
「いいや、命乞いじゃないさ」
むしろその逆だ。
言えばほぼ確実に殺される類の事。
死ぬならこのぐらいは言ってやりたいと、ただそれだけの言葉。
何も分かっていないゲマトリアは緩く首を傾げた。
「良く分かりませんが、いいですよ?
どっち道、人の部屋を漁った相手を生かしておくつもりはありませんし」
「ご寛大な判断に感謝しますよ、大公閣下。
じゃ、聞かせて貰うけどな」
一度だけ、言葉を切って呼吸を整える。
……正直に言えば、ビビってないわけがない。
相手は大真竜、しかもオレ達を殺す気満々の相手だ。
傍に姉さんがいなかったらチビって動けなくなってるだろう。
声が震えぬよう拳を握り締め、腹の辺りに力を籠める。
悪いな、姉さん。ちょっと無茶するわ。
「満足かよ」
「……はぁ?」
「だから満足かよ、ゲマトリア。
顔も名前も覚える価値のない、オレや姉さんみたいな人間が。
ありふれた悲劇でボロボロになりながら、死ぬ瞬間まで生きる為にのたうち回る。
そんなクソッタレな世界を作って、お前らは満足なのかよ。
どうなんだよ、そこのところ教えてくれよ英雄サマ?」
「――――」
オレが一気に吐き出した言葉に。
ゲマトリアは直ぐには反応を示さなかった。
無気力さが漂っていた表情から、完全に色が抜け落ちる。
感情の消し飛んだ無機質な眼を、オレは正面から睨み返した。
「なんだよ、何か言ったらどうだ?」
「……黙りなさい」
「聞いてやるって言ったのはそっちだろうが。
吐いた言葉ぐらいは責任持てよ、大公閣下?」
「うるさい、何も知らないお前が何を……!」
「あぁそうだよ知らねェよ。
千年前の事だのなんだの、テメェの日記を流し読みしただけだからな。
表面的な事しか分かってないさ」
魂から怒りが滲み出したゲマトリア。
オレもビビりそうな自分を抑えて、感情のまま言葉を吐き出す。
「テメェだってオレ達の事は知らねェだろうが!
この時代じゃ珍しくない?
そうだろうなぁこんな時代にしたご当人からすればそりゃそうだ!」
「黙れと言ってるんですよ!」
その叫びと共に、喉元に衝撃が走った。
ゲマトリアの手がオレの首を掴み、そのまま寝台へ引き倒す。
細腕からは想像もつかないすげェ力だ。
「イーリス!?」
「ッ……ねえさんは、おとなしく……っ、しててくれ……!」
めちゃくちゃ苦しいが、何とか声を絞り出す。
今にも殴りかかりそうな姉さんを震える手で制止しながら。
キレたゲマトリアの眼はオレだけを見てる。
横から下手に刺激したら絶対に危ない。
正直、このまま勢い任せに殺されるのも覚悟はしていた。
けれど首に絡んだ指は、オレの命までは握り潰そうとはしなかった。
すげぇ力で、オレが幾ら抵抗しても振り解けそうにない。
それでもゲマトリアは、オレが死なない程度の力しか出していなかった。
オレを見下ろす大真竜の表情。
其処にあるのは本当に怒りだけだろうか。
「お前に、お前みたいな小娘に何が分かるって言うんですか……!
千年前の、あの日々の真実を欠片も知らないクセに……!」
首の辺りで嫌な音がして来た。
加減されてるにしてもオレの首がそもそも頑丈じゃない。
あとほんの少し、ゲマトリアが指先を喰い込ませれば。
それでオレの首は容易く折れる。
だからその前に、最後の一息になるまで言葉を吐き出す。
「っ……そう、だよ……!
さっきも、知らねェって、そう言っただろ……!」
「コイツ、まだ……」
「知らねェに決まってンだろ、千年も前だぞ……!
けど、なぁ……知らなくたって、分かる事もあるんだよ……!」
「人間が、お前がボクの何を分かると――」
「お前の仲間だって人間だったんだろ……!!」
死ぬ、マジで死ぬ。
声を出すのに全力過ぎて酸素が足りてねぇ。
それでも言葉は止められない。
自分が何を言いたいかなんて良く分からん。
良く分からんが、兎に角死ぬまでわめいてやると決めたんだ。
大真竜サマから見れば、心底どうでも良い路傍の石みたいな人間。
そんなオレに出来る唯一の戦い方だ。
「人間だけど、それでも大事だったんだろ……!
竜よりも、人間は脆いから……戦って死なれるのが、嫌だって……!
それでも、お前は、お前らは戦って、その結果として今があるんだろ……!」
「ッ……何を、言って……!」
「お前らが作ったクソッタレなこの世界で……!
真なる竜だのほざいてる、お前の仲間だった奴らが……!
そいつらが面白半分に殺してんのも、同じ人間だつってんだよ……!」
それで良いのかよ。
ゲマトリアの日記に書かれていた奴らは、明日を信じて戦っていた。
流れる血は自分達で最後にしようと。
犠牲をいとわず、竜の時代から人の平和を勝ち取ろうとしていたはずだ。
戦う事が本当に正しいのかとか。
そんな事は部外者に過ぎないオレには分からない。
確実なのは、そいつらが欲しがっていた「明日」はこんな世界じゃないって事だ。
誰かの為にと立ち上がり、命懸けで戦った先の未来が。
こんなクソッタレな世界であってたまるかよ。
「本当に良いのかよそれで……!!
人間が古竜に変わっただけで、やる事は悪い竜とおんなじで……!
そんなもん、何か意味があったのかよ……!?」
「ッ…………!」
ゲマトリアの口から呻くような声が漏れた。
首を絞めつけていた指の力が緩む。
オレは大きく息を吸い込もうとして、激しく咽てしまった。
「ッ、げほっ、がはッ……!」
「イーリス、大丈夫か!?」
堪らず駆け寄って来る姉さん。
ゲマトリアはそれを妨げなかった。
やや茫然としたまま、また熱を失った眼でオレを見るだけ。
力の入らない身体を姉さんの手が引き寄せて、強く抱き締めてくれた。
包むような体温に思わず安心してしまう。
……いっそ気絶したいのが本音だけど、今はまだダメだ。
「っ……ゲマトリア……」
「…………何も、知らないクセに」
唇からこぼれ落ちた言葉。
其処に含まれているのは、燃えるような憤怒。
ふつふつと沸き上がる怒りが、色を失ったゲマトリアの表情を赤く染める。
今さらだけど、調子に乗って逆鱗を触り過ぎたっぽいな。
「何も知らずに、この時代に生まれただけの人間風情がっ!
ボクの、ボクらの戦いの結果に文句を言うなよ!」
叫ぶ声は物理的な圧力を伴っていた。
部屋自体がビリビリと震え、オレも姉さんも吹き飛ばされかける。
竜の畏怖を無秩序に撒き散らしながらゲマトリアは吼える。
「ボクらはやったんだよ! 誰にもできなかった事を成し遂げたんだ!
それが良い結末に繋がると信じて! 失敗なんかしなかった!
ボクらは戦って、勝ったんだ! 勝った、勝った、間違いなく勝った!
勝って、勝ったのに……けど……ッ」
見た目も合わせて、それは幼い子供の癇癪に似ていた。
ゲマトリア自身、自分の感情を制御できなくなっているようだった。
彼女は顔や頭を掻き毟り、吐き出す言葉は血反吐に等しい。
自分で自分を傷つけるように、ゲマトリアは叫ぶ。
「ああするしかなかった……!
盟約を成立させたのも、全部仕方なくだ……!
誰も本当は望んでなかった!
それでもやらないよりはずっとマシだったんだよ!!」
「……一体、千年前に何があったんだよ!」
オレはかろうじて意識を繋ぎ止め、ゲマトリアの嘆きに応えた。
明らかに尋常な様子じゃない。
《大竜盟約》の成立が、本当は望んだモノじゃなかった。
それに加えて日記に記されていた、黒い魔法使いの裏切り。
千年前に何が起こって、どうして大陸の現状に繋がったのか。
此処まで来たなら、オレはそれを確かめたかった。
だけど。
「うるさい! 何も知らないお前に、そんな事を知る必要はないんですよ!」
吐き出す怒りはいよいよ殺意を帯びて来た。
表情を獣の相に歪めて、ゲマトリアは寝台から立ち上がる。
外見こそ幼いが、その力は間違いなく竜のもの。
姉さんは兎も角、オレなんて一撫でされたらそれで終わりだ。
「《転移》で逃げようったって無駄ですよ!
ボクの前でまともに魔法を使えるなんて思わない事です!」
「ッ……」
逃げる構えを取っていた姉さんが、その言葉に舌打ちを漏らす。
ハッタリではなく事実なんだろう。
いよいよ進退窮まって来たな。
「いいからそれぐらい教えろよ、ゲマトリア!
千年前、お前らに一体何があったんだ!?」
「知る必要は無いと言ってるでしょうが!
あの恥辱も、彼女の選択も、全部ボク達だけが知っていればいい!」
ダメだ、聞く耳ゼロかよ。
流石にもうダメかと、姉さんの手を握りながら覚悟を決めて。
「――お前達、良くやった」
……無性に腹立たしいが、今は酷く頼りになる声。
それがオレと姉さんの耳に届くとほぼ同時に。
「……あ?」
音を置き去りにした一本の矢が、ゲマトリアの顔面を貫いた。
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