幕間3:老賢人の帰還


 ――其処は、《天空城塞》から遠く離れた地。

 大陸の中央付近に穿たれた亀裂の如き大穴。

 真竜さえも近付くこと憚る深淵アビス

 人々が未だ、この大陸を古き言葉で《竜在りし地ドラグナール》と呼んでいた頃。

 その時より穿たれ、現在まで癒える事のない傷痕。

 奥深く、その深淵の底に蓋をするように築かれた巨大な神殿。

 神聖でありながらも、同時に悍ましさを感じさせる奇妙な造り。

 明らかに人の手からなるモノではなかった。

 そもこの大陸には祈るべき神はいない。

 ならばコレは本当に「神殿」と呼ぶべきモノなのか。

 真意がどうあれ、此処が余人は立ち入る事の出来ない聖域である事は変わらず。

 光もろくに届かぬその奥に、「彼」は一人佇んでいた。

 

「…………」

 

 赤い甲冑を身に纏った偉丈夫。

 《大竜盟約》の礎たる七柱の大真竜、その序列三位。

 かつては“鋼の大英雄”と讃えられた男。

 今は盟約を守る鋼鉄の守護者。

 大真竜ウラノスは、聖域の奥底で一人沈黙していた。

 思い巡らせているのは古い同胞の事だった。

 

「……どうする?」

 

 答えの出ない自問自答。

 いいや、出すべき答えなど一つしかないのだ。

 それはウラノス自身も良く分かっていた。

 分かっていても答えを出す事ができないでいるだけで。

 ――そう、やるべき事など簡単だ。

 今すぐに《天空城塞》へと赴き、力尽くでゲマトリアを抑えれば良い。

 あの愚かな竜は己が願いのあまり錯乱しているだけだ。

 力で屈服させ根気良く諭せば理解してくれる。

 これまでに幾度か似た事があったが、全てその方法で解決して来た。

 ならば何を躊躇う必要があるのか?

 

「……本当に、それで良いのか」

 

 呟く声は誰もいない神殿の中を空しく響く。

 常は大真竜たる彼の《爪》。

 他に同じ称号を持つ者とは一線を画するが故に《魔星》と称される強者達。

 ドロシアを含めた《魔星》の誰かがウラノスの傍に控えている。

 しかし今は偶々誰もおらず、鋼の男は唯一人。

 そも、《魔星》のいずれかがこの場にいたとして何になる。

 如何に彼らがウラノスが認める最強の兵だとしてもゲマトリアには届かない。

 仮にも盟約の礎に名を連ねる古き竜だ。

 結局のところ、力に訴えるならばウラノス自身が動く他ない。

 ――本当にそこまでする必要があるのか?

 制止する為に「盟約への叛逆」などと口走りはしたが。

 理屈としてはゲマトリアの言っている事の方が正しいのだ。

 彼女はあくまで自分に許された範囲で事を行っている。

 それを止めたいのは、何処まで行ってもウラノス自身の私情でしかない。

 《大竜盟約》は成立し、大陸の秩序は安定した。

 想定外の異分子イレギュラーが蠢いているようだが、排除自体は難しくない。

 少なくともウラノスはそう考えていた。

 幾つかの都市、何匹かの真竜が討たれた程度で盟約は揺るがない。

 完全なる大真竜達がその礎を担っている限りは。

 

「だが、ゲマトリアの暴走が過ぎればどうなるか……」

 

 礎の一柱に数えられながら、ただ一人真竜ではない者。

 ゲマトリアの行動はウラノスの頭を痛める。

 今さら彼女が人間の魂と合一して真竜化を果たした処で盟約に寄与しない。

 盟約は既に成立し、それ以外に必要な事も別の者達が行っている。

 言ってしまばゲマトリアはその席を埋めるだけで十分。

 それ以上の役割は求められていない。

 彼女の企みが成功しようが失敗しようが、盟約に影響はないのだ。

 いや――逆に力を得たゲマトリアが驕った場合はどうか。

 或いは竜の本能を猛らせたらどうだろう。

 脅し文句として口にしただけの「盟約への叛逆」。

 それが現実になる可能性も十分あった。

 もしそうなってしまったら、礎の一柱として処断する他ない。

 《大竜盟約》は維持しなければならないからだ。

 この大陸で人類の命脈が続く限り、未来永劫。

 

「そうだ、それだけは認められない。

 ゲマトリアの行動は止めるべきだ。

 盟約が抱える危険リスクが大きすぎる。

 だが……」

 

 それは、千年に渡るゲマトリアの願いを踏み躙る事に他ならない。

 ウラノスにとって彼女は古い仲間だ。

 あの日、その命を救う事を選んで以来の戦友だ。

 結果的に多くの同志を失った。

 生き残った多くの同胞達もかつての志を失った。

 他の大真竜――ウラノス自身も含めて、何も変わっていないとは言い難い。

 失って、変わって、それでも掴んだ勝利の結果が今だ。

 どんなものを犠牲にしてもこれを守護する。

 その誓いを貫き通す為に、ウラノスは己の全てを鋼にした。

 した、つもりだった。

 だというのに、どうしようもなく胸の奥に痛みが残る。

 千年前から変わらずに、ゲマトリアは彼女にとっての太陽を思い続けている。

 それが盟約と比較して「軽い」などとは、口が裂けても言えなかった。

 ――私は、こんなにも弱い男だったか。

 決意と覚悟を鎧としたつもりが、必要な一歩を踏み出せずにいる。

 答えの出ない自問自答。

 それを繰り返している間も、《天空城塞》では事態が進行しているはずだ。

 ゲマトリアなら万が一にも遅れを取る事はないだろうが……。

 

「――――?」

 

 と、ウラノスは顔を上げた。

 彼以外には誰もいないはずの聖域の深奥。

 其処に今、新たな気配が生じたのだ。

 ウラノスにとって慣れ親しんだモノだが、しかし同時に驚きを隠せない。

 まさか今、この時に現れるとは。

 

『……久しいな、鋼の男よ。息災であったか?』

 

 大気を震わせず、直接思念として届く声。

 それは年老いた男のモノだが、枯れた印象は微塵も感じられない。

 今も生命力に満ち溢れた何千年という樹齢を誇る大木。

 聞く者次第ではその一言だけで魂を砕かれるかもしれない存在感。

 勿論、それぐらいはウラノスにとって単なる挨拶に過ぎない。

 それに関わらず、鋼鉄の大真竜は当然の礼儀としてその場に跪いた。

 

「直接見えるのは久方ぶりですな、翁。

 『外』よりお戻りになられましたか」

『うむ。長らく留守を預けてすまなかったな』

「未熟な身なれど、微力を尽くさせて頂きました。

 翁の代役を務められたとはとても言い難いですが……」

『そう自らを卑下する事はない。

 お前は私以上に良くやってくれているぞ、友よ』

「……勿体なき御言葉です」

 

 厳かな口調だが、そこには言葉通りの親しみがあった。

 風が渦巻き、ウラノスが跪いている前の空間に歪みが生じる。

 変化は迅速に起こり、僅かな痕跡も残さずに消え去る。

 音も無く聖域に下り立つのは真っ白い外套ローブ姿の人物だった。

 染みは疎かほんの少しの埃も付いていない純白の衣。

 白い手……いや、白骨の手には一振りの杖が握られている。

 先端に十字架の意匠を戴く杖。

 それも白を基調としているが、要所に様々な宝石と金細工が施されている。

 外套にも様々な護符アミュレットを吊るしたその姿。

 古い物語に語られる「魔法使い」をそのまま形にしたようだった。

 フードを目深に被っている為、その表情は窺い知れない。

 其処にあるのが髑髏である事は、長い付き合いのウラノスは良く知っていた。

 

『それで、友よ。何やら表情に憂いが見えるが』

「……お見通しですか」

『お前は多くを背負い込み過ぎる。

 私はその強さに一片の疑いを抱いた事もない。

 それでも――いや、だからこそ他に頼る事も必要であろう』

 

 跪いたウラノスを立つように促しながら。

 翁と呼ばれる人物は音なき声で諭す言葉を語る。

 ――やはり、この御方には敵わぬな。

 分かり切っていた事実を改めて確認しながら、ウラノスは身を起こす。

 

「翁より留守を預かった身でありながら、恥ずかしき話ですが……」

『良い、聞かせてくれ。何があった』

 

 翁の言葉に頷き、ウラノスは己の胸の内を明かした。

 現在起こっているゲマトリアの暴走も含めて、その全てを。

 ウラノスの語った内容を、翁は過たずに理解した。

 理解した上で暫し沈黙する。

 そして。

 

『……今は、好きにさせる他あるまいな』

「宜しいのですか、翁」

『そうは言い難いが、無理に止めればゲマトリアも反発するだろう。

 子供の癇癪に等しいが、故にこそ後が面倒になる。

 どの道、此度を我らが阻んでも次の企図を謀るはずだ』

 

 そしてそれを止めても同じ事を繰り返すのみ。

 これでは切りがなかろうと、翁はため息をこぼしたようだった。

 尤も、肉を持たぬ翁に肺はないのであくまで仕草だけだが。

 長く在り続ける永生者とはいえ、人間だった頃の癖は抜けないらしい。

 

『故、今は見守るべきであろう。

 悪しき結果に繋がりそうであれば、その時に改めて諫めれば良い』

「……分かりました。

 ご判断頂き感謝します、翁よ」

『無難な事を口にしたに過ぎんよ。

 情の厚いお前では悩むのも致し方ない』

 

 そう言って、翁はまなこ無き瞳を虚空に向ける。

 千里眼――いや、万里を見通す眼なら万里眼とでも呼ぶべきだろう。

 彼の瞳がどれだけ遠くを見通せるのか、それはウラノスにも分からない。

 

『時は要したが、「外」で為すべき事は為した。

 《大竜盟約》は最早揺るぎなく、この地に永遠の秩序が齎される。

 ――如何に《最強最古》が目覚めたとしても。

 我らの脅威にはなり得ぬ。油断するべきではないがな』

「翁の仰る通りかと」

 

 翁――大命を果たした序列二位の大真竜。

 この地で最も古く偉大なる魔法使いの言葉にウラノスは頷く。

 《最強最古》、或いは《最古の邪悪》。

 千年前の戦いでも遂に姿を現す事が無かった竜王達の長子。

 何ゆえ今さら現れたのかまではウラノスも翁にも与り知らぬ事だ。

 事実として、その存在は決して油断ならない。

 同時に「脅威となり得ない」というのもまた事実だった。

 もし仮に、翁が知る頃に倍する力を《最強最古》が有していたとしても。

 末席たるゲマトリアならば勝ちの目もあるだろう。

 だがそれ以外の大真竜達には決して届かない。

 ――まして、頂点たるあの《黒銀》には。

 

『永劫に届く筈も無し。

 彼の者は星の怒りを背負った唯一の者なれば。

 貴様の浅ましき野望など爪傷さえも残す事はない』

 

 厳かに囁く翁。

 傍らに立つウラノスは、其処に秘められた怒りを感じ取っていた。

 そう、怒りだ。燃え盛る炎にも似た憤怒と憎悪。

 古き魔法使いは怒り狂っていた。

 《最強最古》と、その異名さえ口にするのも悍ましいと言わんばかりに。

 

『真なる竜ならずとも、ゲマトリアは強大なる王に変わり無し。

 古き王と比較してもこれらを凌駕するだけの格を十分に有している。

 尋常に戦うならば遅れは取らぬだろう。

 ――あくまで尋常に戦ったならば、だが』

「相手はゲマトリアより遥かに古くから生きる竜。

 力で勝っても、それだけでは勝てぬ相手やもしれぬと」

『然り。故に今は見守るが、備えは必要だ』

 

 そう言って、翁は虚空から視線を外した。

 最早興味はないと、そう態度で示そうとして。

 それでも抑え切れぬ憤怒が骨の身から漏れ出している。

 ウラノスを超える硬い意思があればこそ、翁は己を完全に制御していた。

 でなければこの場で即座に天変地異を顕していた事だろう。

 

『…………叶うならば、貴様に全ての責任を取らせたい処だがな。

 しかし全てが今さらに過ぎる。

 最早この地に、貴様がいるべき場所は何処にも無いのだ』

 

 誰に向けたものでもない言葉。

 それを聞くのは盟友たるウラノスのみ。

 故に翁も遠慮はせず、己自身を音無き声の形で発した。

 

『せめて寂滅するがいい、最古の悪よ。

 我らは盟約の礎、竜在りしこの地にて人の理を守護する防人なれば。

 貴様の浅ましき野望など、大嵐に晒された塵埃に過ぎぬと知れ』

 

 この世で最も優れたる賢人が放つ言葉は、余りに暗く重い。

 声が向く先は余りに遠く、それが届く事は決してない。

 それでも翁は呪いの如くに囁いた。

 遥か空の高み、雲の上を揺蕩う《天空城塞》。

 其処にいる大悪が滅びる事を祈るように。

 

「…………」

 

 その暗い怒りを間近で感じながら、ウラノスは何も言わなかった。

 ただ、千年来の友の無事を言葉にせずに祈った。

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