143話:死神と従者の円舞
――兎も角、この女をレックス殿から引き離さねば。
その一心から座標は細かく指定せずに発動した無作為な《転移》。
最低限、再出現位置が壁や床に「重なる」事だけは無いように調整はした。
だから中層の天井ギリギリに《転移》したのも想定の範囲内だ。
一瞬だけ全身を包む浮遊感。
物質世界に再出現すると同時に、私は掴んでいた手を離す。
身動きの取れない空中に灰色の死神を――ドロシアを躊躇なく放り出した。
此方は即座に《飛行》の術式を発動する。
自由落下に入る寸前とはいえ、相手は恐るべき剣腕を有する怪物。
僅か一秒以下の時間でも、間合いの内に留まれば切り刻まれかねない。
だから私は可能な限り素早く、《飛行》の術で出せる最高速度で離脱を図る。
《転移》した時点でドロシアは剣を構えていた。
最悪、離れる瞬間に手足を切り落とされる覚悟はしていたが――。
「惜しいな」
予想を裏切って、ドロシアは私に仕掛けては来なかった。
高速で離れる私を視線で追いながら、何の抵抗もせずに眼下の街へと墜ちていく。
武祭の影響で破壊されているが、上層よりはまだ都市の原型を留めた中層。
落ちる。ドロシアは墜落する。
私は《飛行》の術式で宙を舞う。
これまでの戦いを見ても、ドロシアから魔法の気配は感じなかった。
恐るべき事に彼女は生身の剣士に過ぎない。
レックス殿すら正面から戦えば不利を否めない怪物。
だが、この高さから落ちれば無事では――。
「再出現した瞬間に、形振り構わずに仕留めに来るべきだったね。
そうすれば最悪でも相打ちまでは行けたかもしれない」
落下するドロシアはそんな事を言って来た。
既に距離は遠く、お互いの間合いの外。
私が見ている中で彼女は僅かに空中で身体を捻った。
ほんの僅かにだけど落下の軌道が変化する。
そのままなら単純に地面に叩き付けられるだけで終わったろう。
けれどドロシアの少し動いた先で落下先も微かにズレる。
地面――中層の床ではなく、まだ原型を留めている背の高い建造物。
その壁面に小柄な女の身体が掠めた。
圧倒的な質量を前に、
……いや、違う。
壁にぶつかって弾かれたんじゃない。
「……まさか」
ドロシアは自分で狙って壁を蹴った。
落下の軌道は更に変化し、今度はまた別の建物へ。
其処でも同様に壁を蹴って、時には剣を閃かせて建造物の一部を削る。
信じ難い事だが、ドロシアは減速を試みていた。
何度も、まるでボールのように建物と建物の間を跳ね回る。
そして遂に、その身体は瓦礫に塗れた地面に到達する。
凹凸だらけの表面をドロシアは鮮やかに転がり、最後の衝撃も逃がし切る。
回転した勢いのまま立ち上がると、頭から零れ落ちた帽子を拾う。
その動作から、彼女が身体の何処も痛めていないのは明白だ。
魔法の助けも無しに、体術だけで高空からの自由落下を完全に凌いで見せた。
強化された視覚でそれを見ながら、私は改めて認識する。
この女は怪物だ。
そして必ず、此処で足止めをしなければ。
「さて――どうするかな?
降りて来ないなら、僕はまた上層に」
ドロシアが何か言い終わるよりも先に、私は真っ直ぐ彼女の方へと突っ込んだ。
《飛行》術式で出す事の出来る限界速度。
鳥ではない人の身で、翼も無しに大気を斬り裂く。
普通ならば反応できる速さじゃない。
けれどドロシアの眼は間違いなく私の姿を捉えていた。
右手に下げた剣が揺らめく。
一太刀で同時に複数の剣撃を放つあり得ざる魔技。
間合いに関しても剣とは思えない程に広く、ちょっとした飛び道具と大差ない。
私は速度を落とさず、ギリギリまでその有効射程にまで近付く。
「――――!」
全身を撫でる冷たい風。
それが錯覚に過ぎない事は分かっていた。
分かっていたが、明確な死の気配に心臓が激しく脈打つ。
視認出来ていないが、ドロシアが剣を振るったのだ。
一瞬にも満たない時間の後に、その刃は私の身体を切り刻む。
死神の手が迫るのを感じ取りながら、私は。
「っ、また消えたか……!」
《転移》の術式を発動させた。
ドロシアの剣が届く直前の、紙一重のタイミング。
《飛行》による最高速度を維持したままでの同時発動。
上手く行くかは賭けだった。
先程の無作為な《転移》とは異なり、再出現先を迷う事はない。
私が現れたのはドロシアの直ぐ真横。
身体にはまだ《飛行》で加速した速度がまだ残っている。
その状態で拳の半分程度を、ドロシアが立っている座標と重ねた。
「吹き飛べ――ッ!!」
衝撃が炸裂する瞬間、私は思わず叫んでいた。
《転移》する際、一つの座標で物質同士が重なった場合に発生する淘汰圧。
その時に生ずるエネルギーを一方的に片方に押し付ける私の奥義。
今回は《飛行》による速度も上乗せした一撃だ。
ドロシアの身体は紙切れのように吹き飛ぶ。
拳に残るのは過去最高の手応え。
本来ならば、勝利を確信するに足るものだが。
「ッ……」
鋭い痛みが身体を貫く。
斬られた。
致命傷ではないが、腕と足を一度ずつ。
恐らくは私が《転移》から再出現したのとほぼ同時に。
浅くはない刀傷から赤い血が流れる。
一方、
「痛たた……っ。いや、初見だったらちょっと危なかったかな。
僕は魔法には疎いけど、面白い技だと思うよ」
無傷ではないが、想定したより遥かに軽傷だ。
受け身を取られぬよう直ぐ傍の瓦礫の塊に叩き付けたにも関わらず。
ドロシアは身体を粉塵で汚し、服の一部は破れて血も滲んでいる。
しかし
むしろ斬られた私の方が深手なぐらいだ。
出血自体は「強化済み」の身体が直ぐに止める。
痛覚も一部を麻痺させる事で誤魔化しながら、私はドロシアと相対した。
私とこの女の間に横たわる格差。
それがどれほどなのかは考えるまでもない。
不意打ちに近い状態で放った必殺の一撃すら通らなかった。
《闘神》相手に使ったのを見られていた事を差し引いても重い事実だ。
それはそのまま、彼我の絶望的な戦力差を表していた。
「……良い目だね。
諦めるどころか、お前は此処で仕留めると決意した目だ」
戦いの享楽に酔った死神は艶やかに笑う。
今の立ち位置はまだドロシアの剣が届く間合いの外。
けれどお互いその気になれば一足で潰される程度の距離。
睨み合う。いや、一方的に私が睨んでいるだけか。
ドロシアは笑っていた。
いつでも私を切り刻めるという確信の上で。
力量差を把握しているのは何もこちらだけではない。
「さて、わざわざこの状況にしたんだ。
期待を裏切らないだけのモノを見せてくれるんだろう?」
「別に、此方にはお前を喜ばせる理由はない」
「ハハハ、それは確かに道理だ」
ドロシアは笑う。心底愉快そうに。
本人としては別に侮っているような意識はないのだろう。
単に窮鼠が猫をどう噛むのか。
その瞬間が楽しみで仕方がないだけで。
……それは一般的に「侮っている」と考えて差し支えないが。
もっと言えば「舐めている」としか思えない。
細身の剣を片手にぶら下げたままで、ドロシアは動く様子を見せない。
私の方から仕掛けてくるのを待っているつもりらしい。
「……しかし、そうなると疑問だな」
「何がだ」
「君は強く賢い娘だ、テレサ。僕と同条件で殺り合う不利は分かってるはず。
あの状況ならどんなに悪くても乱戦だ。
君は
それを分かった上で、何故こんな真似を?」
「別に、お前が思っているほど特別な理由はない」
「と、言うと?」
無意味な会話だ。
ドロシアにとってこれも戯れの一環か。
戦えば奴の剣は私の命を容易く斬り伏せる。
だからその前に会話を楽しみたい。
その程度の思考である事は直ぐに理解できた。
故に私はそれに律儀に付き合う。
時間をかける分には此方にとっては利益しかない。
それを踏まえた上で、この女には言っておきたい事があった。
「私は主の、アウローラ様の従僕だ。
故に彼の――レックスの一番近くはあの方のモノ。
私はその次であれば良い」
「従者の鑑だねぇ。それで?」
「そう、私は従者だ。主の為に――ついでに、私自身の為に。
彼に纏わりつく悪い虫は追い払う。
私がお前に挑む理由は、それだけで十分だ」
言ってしまえばそれは単なる意地に近い。
けれど私にも退けない事はある。
今、この瞬間こそがそれだ。
私の言葉に虚を突かれたか、ドロシアはきょとんとしていた。
その表情も直ぐ笑みに変えて、腹の底から楽しそうに笑い出す。
「ハハハ……っ! 成る程、成る程。
確かにそれは命を懸けるに値する理由かもしれないね」
「理解が得られたなら何よりだ」
「レックスは良い男だからね、惚れ込むのも分かるよ。
僕も一目惚れしてしまった身だ」
「お前のソレを恋や愛とは呼びたくはない」
「酷いなぁ。これでも結構真面目なんだよ?」
「――それでも、私はお前を認めない」
この女は「毒」だ。
隔絶した剣の腕前とか、何処か螺子の外れた精神性とか。
それを抜きにしてもコイツは危険だ。
根拠はない。むしろ単なる直感の方が近い。
私はその勘に従ってこの女を、ドロシアを排除すると決めた。
「あの人に、レックス殿にこれ以上お前を近付けさせない」
「情熱的な宣戦布告だね。やっぱり、僕は君の事も好きだよテレサ」
甘く囁くように好意を語るドロシア。
その刃と興味が私の方に向くのなら上等だ。
拳を固めて一歩踏み出し――そのタイミングで、別の声が頭に響く。
『悪い、姉さん。準備できた』
「ありがとう、イーリス。そちらは大丈夫なのか?」
『何とかな。街の連中が出来るだけ避難できるよう、手も打ってきた』
階下にいる妹も一仕事終えたばかりらしい。
イーリスの言葉に自然と笑みが零れた。
「お疲れのところ悪いが、此方もこれからが本番だ。
すまないが、補助を頼む」
『その為に火の粉を被らねェ位置にいるんだから気にするなよ。
そういう姉さんこそ、頼むから死ぬような真似はしないでくれよ』
「努力はする。が、無茶はしなければ勝てない相手だ」
妹に応じながら、私は一歩一歩と近付く。
ドロシアは動かない。
私が剣の間合いに自分から入って来るまで待ちの構えだ。
死神の手が届く範囲まで、あと少し。
『……使うのは一度切りだ。分かってるよな?』
「あぁ、分かってる」
不安げなイーリスに対し、私は努めて軽く応える。
懐から取り出したのは小さく細長い硝子瓶。
蓋の部分には細かい針が付いており、中は赤い液体で満たされている。
私が頼み、イーリスが一晩の内に調達してくれたもの。
出来れば使いたくない代物だが。
「? それは――」
私の取り出した物に、ドロシアも気付いたようだった。
何か言い終わるよりも早く、私は手にした硝子瓶を自分の首に押し当てた。
細かい針が肌に刺さり、其処から中の液体が注入される感覚。
その全てが私の身体に入ると、文字通り全身に力が漲る。
力だけでなく神経もまた鋭敏さを増す。
まるで周囲の時間が遅くなったかのように、あらゆる動きが鈍って見えた。
「ッ!?」
踏み込む。
《
突然の急加速にもドロシアはギリギリで反応して見せた。
しかし彼女が剣を振るより僅かに速く私の拳が届く。
派手に後方へと吹っ飛ぶが、その見た目とは裏腹に手応えは軽い。
反撃は無理と悟り、直撃した瞬間に自分から跳んだようだ。
案の定、ドロシアは空中で身体を捻ると両足で綺麗に地面へと着地する。
そんな曲芸じみた動きを、こっちも黙って観察してるわけではない。
「おっと……!?」
着地とほぼ同時に、首を刈る軌道で蹴りを打ち込む。
ドロシアはそれも仰け反るように回避する。
手を止めず、足を止めず。
緩やかな時間の中で次々と攻め手を繰り出す。
一瞬でも余裕を与えれば、その瞬間に死神の手に等しい剣技が襲って来る。
故に先手必勝。それだけが私に望める数少ない勝機だ。
対するドロシアは――やはり、笑っていた。
「
そのぐらいしなければお前には届かない。
出来ればこのまま押し切って――。
『姉さん!!』
頭の内で鋭く響くイーリスによる警告の声。
私は疑問に思う事も無く、即座に後方へと跳んだ。
肌を斬り裂かれる僅かな痛み。
ドロシアに剣を振った様子はなかった。
にも関わらず、手や足の末端部分に幾つかの切り傷が刻まれている。
距離を離してから、改めてドロシアの方を見る。
彼女は悪戯がバレた子供みたいな表情で。
「惜しいな。あとちょっと遅ければ、喉を斬れたんだけど」
そう言って、ドロシアは足を軽く揺らした。
履いているのは革製の
その足先で何かが光っていた。
刃だ。よくある暗器の類。
大体親指の長さ程度の
……まさか、奴はあんな玩具みたいな代物で例の技を使ったのか?
私は改めて戦慄していた。
手にした剣だけでなく、あんな仕込みでも同じ事が出来るなら。
あの女はそれこそ服に仕込んだ剃刀でも技を繰り出す事が出来るのではないか。
一体、それを可能にする技量とはどんな次元だ。
睨みつける私に対し、ドロシアは柔らかく微笑む。
「薬の効果も、決して長くは続かないだろう?
短いかもしれないが、ダンスを楽しもうか。テレサ」
その短い時間が私の余命であると。
死神が宣告するように、ドロシアは笑っていた。
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