幕間4:恥知らずの闘神

 

 ――これ程の屈辱を感じた事が、これまであっただろうか。

 屈辱、恥辱、汚辱。言葉の意味は何でも良い。

 ただ煮え滾った汚水が全身を這い回っているような。

 形容し難い苦痛が我が身を苛む。

 

「おおぉぉぉ……ッ!! こんな、このような……!!」

 

 口から漏れだす言葉、その多くも意味が無かった。

 苦しさを誤魔化す為の悲鳴。

 《闘神》と名乗りを上げた時から、ここまで醜態を晒した事はない。

 栄光と崇敬にのみ満たされたはずの、神聖なる闘技場。

 我の為にある玉座そのものであるはずの場所。

 其処に身を置きながら、感じているのは汚濁の如き屈辱ばかり。

 ――戦場には、「災害」など多くの我が分体を放っている。

 彼らは《闘神》の一部ではある。

 しかし分かれている以上は、それぞれ別個体として独立して活動している。

 中層の昇降機を守らせている《爪》にしても同じだ。

 アレは獣でしかない「災害」とは大きく異なる。

 我が魂の炎の多くを分けた、正しい意味での《闘神》の分体だ。

 殆ど複製コピーに近いと言って良いだろう。

 魂を分けたのではなく、あくまで余剰な「力」から創造したモノ。

 倒されても我が総体には影響は無く、分けていた炎はそのまま我が身に戻る。

 そう、戻って来る。戻って来るのだ。

 別個体として動いている時に得た記憶や経験。

 それらは倒される事で改めて我が物として還元される。

 これもまた《闘神》の無敵を支える力。

 頂点に立ちながら、我は戦いの経験を蓄積する事が出来る。

 しかし、今回は。

 

 

 討ち取られた《爪》が持っていた記憶。

 人間相手に敗れた事は呑み込めた。

 それほどの実力者でなければ、この《闘神》が戦うまでもない。

 しかし、しかし。

 あの《爪》は我が分身、複製と言っても良い。

 《爪》の行動や思考はこの《闘神》のモノと殆ど変わらぬはずだ。

 それに対して、あの男は、こんな……!

 

「我は《闘神》!! 闘争の神なるぞ!!」

 

 これまで、挑んでくるあらゆる敵を葬って来た。

 勝利の上に勝利を重ねて来た。

 無敗であり無敵。

 我に力で勝る者は、この世には大真竜の御方々以外には存在しない。

 故に頂点、この戦争都市の絶対者。

 あの男はそれを理解しているのか!!

 

「理解、理解だと……!?」

 

 悶える。全身が内側から引き裂かれるような錯覚。

 気が付けば我は闘技場の中心で膝を付いていた。

 戯言だと聞き流せば良い。

 所詮はこの《闘神》には届かぬ弱者の遠吠えに過ぎぬと。

 普段ならばそう出来たはずだ。

 己を強く見せる為、敢えて大言を吠える者などこれまでもいたはずだ。

 同じだ、同じはずだ。

 そういう輩など見慣れているはずだ。

 相手を貶める事で自分の価値を守ろうとする。

 そんな卑賎さを恥と思わぬ、それこそ弱者の醜悪な――。

 

「…………何を考えている?」

 

 思考が止まる。

 未だに屈辱は消えず、煮えた汚濁は臓腑を焼き続けている。

 しかし「気付いてしまった」事で、頭の中は酷く冴え渡っていた。

 そうだ、一体我は何を考えていた?

 分身に過ぎぬとはいえ、あの男は《爪》を一蹴してみせた。

 その力こそ本物だ、弱者などと貶めて良いものではない。

 分かっている、分かっているはずだ。

 己の価値を必死で守ろうとする余り、他者の価値を認めず貶める。

 それは正に、今の我の思考そのものではないのか?

 

「あ……ぐっ、ガアアァアア!!」

 

 己の何かを言葉に出来ず、無様な獣の如く吼え猛る。

 少し前までは燃え上がっていたはずの闘志。

 それを示していた炎は消え去っていた。

 焼け残った炭にも似た有様で、我は無意味に闘技場の床を叩く。

 愚かにも混乱し、哀れにも動揺し切っている最中。

 それでも頭の中は妙に冴えていた。

 繰り返し、あの憎い男が《爪》に――いや、我に吐いた言葉が反響する。

 その響きの向こう側に思い出す。

 大半が霞がかっていた、遠い日の記憶。

 見覚えのない月夜ではなく、確かに「我」自身の過去。

 この身が《闘神》ではなく、まだ「人間」に過ぎなかった日の事。

 凡そ千年ほど前に起こった古竜との争い。

 竜同士が狂ったように相争う中、人間の一部はこれを好機と見て立ち上がった。

 「使」がもたらした竜殺しの刃。

 これを切り札に、無謀に過ぎる戦に我らは挑んだ。

 ……そう、挑んだ。しかし勝利を常に出来るほど、竜は甘い存在ではない。

 人間であった時の我も、一廉ひとかどの戦士であったはずだ。

 切り札は切り札であるが故に、決して数は多くなかった。

 それが可能だと判断された勇士にのみ、その剣は託された。

 勇士以外にも「竜と戦える」と認められた者達。

 彼らと共に「決死隊」が組まれ、各々が恐るべき古竜に挑む。

 人間の我も強かった、流石に《闘神》などと自惚れてはいなかったが。

 それでも強者の自負はあり、勝利の確信はあった。

 例え死する事になろうとも恐れる事無く勇猛に戦う自信も。

 ……だが、そんなモノは全て無意味だと直ぐに思い知らされる事になる。

 竜が恐るべきモノである事は知っていた。

 竜はこの世で最も強大な獣である事も知っていたはずだ。

 我らが挑んだのは、古竜としてはまだ比較的に若い個体であった。

 強大ではあったが未だ王の称号は冠していない。

 その竜と相対して――我は、逃げたのだ。

 逃げた。僅かにも「戦う」という選択は頭の中に出て来なかった。

 恐ろしい。あんな怪物に敵うはずがない。

 戦う為に鍛錬を重ねたはずだ。

 勝利する為に此処まで来たはずだ。

 しかしそんなモノ、「竜」という脅威を前に全てが砕け散った。

 その時の仲間がどうなったかも我には分からない。

 切り札であるはずの刃一振りだけを持って逃げてしまったから。

 逃げて、逃げて、逃げて、逃げ続けて。

 気付けば、一人荒れ果てた山の中に迷い込んでいた。

 ただ、生き延びたという事実があった。

 そして逃げ出したという現実だけがあった。

 戦士としての自分は死んだ。

 其処にあるのは、ただ心臓が脈打っているだけの屍だった。

 恥辱はなかった。胸の内にあるのは虚無だけだった。

 竜を殺すはずの刃も、戦士として死んだ自分が持っていても意味はない。

 このまま飢えと渇きで本当に野垂れ死ぬか。

 或いは彷徨う古竜に見つかり、今度こそ嬲り殺しにされるか。

 どちらも同じだった。

 その時の我にとっては、どちらも等価値の「死」に過ぎない。

 生きながらに死んだ我は空っぽのまま歩き続けた。

 何処を目指していたワケでもない。

 もしかしたら、恥知らずにも死に場所を探していたのかもしれない。

 今となっては我自身にも分からないが……。

 

「……何だ……?」

 

 月だけがやけに明るい夜。

 荒れ果てた山の一角に「ソレ」はあった。

 竜だった。空虚だった胸の奥から恐怖が噴き出しそうになる。

 が、それは直ぐに治まった。

 何故なら、その竜は「屍」だったからだ。

 不死不滅であるはずの永遠なる古竜。

 決して殺せぬからこそ、黒い魔法使いは人に竜殺しの刃を与えたはずだ。

 しかし其処にいた竜は確かに死んでいた。

 一瞬、他の勇士が仕留めた後なのかとも考えた。

 が、違う。その亡骸には剣で受けた致命傷は何処にもなかったからだ。

 恐る恐る近付くと、我は改めてその屍を観察する。

 その身体の多くが朽ち果て、鱗も大半が剥がれ落ちている。

 竜の肉は仮に死しても、時間で腐敗する事はないはず。

 その屍は腐ったというよりも、まるで砂に変わったように脆くなっていた。

 指で触れば、その触れた部分が崩れてしまいそうな程に。

 

「何故、こんな事が……?」

 

 不可解だった。

 少なくとも人であった我の知識では、こんな現象は起こらないはず。

 分からない。何も分からない。

 事実として、不死たる竜が荒れた地に屍を晒しているという事だけ。

 その姿は酷く哀れで――同時に、奇妙な共感があった。

 

「…………」

 

 何故、そうしようと思ったのか。

 ハッキリとした事は言えない。

 あったのは奇妙な共感だけ。

 この竜は死んでいる。

 だが朽ちた屍にはまだ魂が残留していた。

 何か導かれるように、我は手にした刃を屍に向けた。

 そして、その剣は十全に役目を果たした。

 

「…………嗚呼」

 

 此処で、意識は過去の幻想から現実へと帰還を果たした。

 忘れていた己の原点オリジン

 今も人であった頃の記憶の大半は霞に沈んでいるが。

 それだけはハッキリと思い出した。

 腹に溜まった屈辱は、今や別の意味合いに変わっていた。

 そうだ、そうだった。

 そもそもこの力は我が戦い勝ち得たモノではなかった。

 たまたま野晒しだった屍が、たまたま強大な竜王のモノだった。

 それを竜殺しの刃で討ち取り、運良くその魂を呑み込む事が出来た。

 或いはあの時抱いた共感は、互いの魂の波長が近かった故か。

 結果として強大な真竜となった我は、その力を大いに振るった。

 命を賭した勇戦による戦果ではなく。

 単純に幸運に恵まれただけの力に溺れ果てた。

 今この瞬間までその事実すら忘却し、《闘神》などとのぼせ上って。

 

「何という、何という愚か者か……ッ!!」

 

 屈辱が、恥辱が。

 改めて我が身を内側から焼こうとしている。

 嗚呼、全てはあの男の言う通りだ。

 結局我は命を賭した戦いなど一度もした事がない。

 偶然手に入れた圧倒的な力を振り回し、頂点だのと粋がっていたに過ぎない。

 何という恥知らずな事か。

 借り物の力に何百年も酔い痴れていただけの愚か者。

 それが《闘神》の正体だったのだ。

 

「……ならば、ならばどうする……?」

 

 己の真実を思い出した。

 常は噴き上がる炎も、今はこの身から失せている。

 ……我が魂を呑んだ竜王も、もしかしたら同じように朽ちたのかもしれない。

 絶望は魂を殺すのだと、この時初めて理解した。

 ならばこのまま果てるが正しいのか。

 そうすれば、この拭い難い汚辱を消し去る事は出来るのか。

 

「いや――否、それだけは否だ」

 

 あの時、人間である我は生きながらに死んだ。

 我が呑み込んだ竜もまた、不死でありながら屍を晒していた。

 それをまた繰り返すのが正しいのか。

 どれ程の汚辱と屈辱があろうと、今の我は《闘神》。

 拾い物で造ったハリボテに過ぎぬとしてもだ。

 この首を、この魂を討ち取らんと我が宿敵が迫っている。

 そしてもう一つ、この胸に宿った想い。

 この想いだけは譲れぬと、魂の奥底で叫ぶ声がある。

 

「ならば、朽ち果てる事は正しき選択に非ず……!!」

 

 せめて《闘神》として、今立ち上がらずして何としよう!!

 再び熱き炎が総身から激しく噴き上がる。

 恥知らずであろうと、卑劣な愚か者であろうと。

 最後に譲れぬ一線はあるのだ……!

 其処を退いてしまえば、それこそ何もなくなってしまう。

 故に我は立ち上がり、我が身を炎に変えて叫ぶ。

 

「我こそは《闘神》なり!!」

 

 虚飾と欺瞞に満ちた闘技場など、最早必要ない。

 頂点で待つなど何と傲慢な事か。

 むしろ我の方こそが挑む者だ。

 我が望む愛を手にしている、あの恐るべき戦士に。

 大公閣下の意向も《闘神武祭》の慣例もどうでも良い。

 盟約に背き我が身が破滅する事になろうと。

 この胸に灯った唯一つの炎の為に戦う事を選ぼう。

 

「いざ征かん、我が求めし戦場に!!」

 

 噴き出す炎、その全てが我が力。

 右腕を掲げて、炎熱を一振りの刃へと変える。

 真竜である我が爪牙たる炎の大太刀。

 それを渾身の力を込めて闘技場の床に叩き付ける。

 我が戦っても問題ないよう対炎熱を第一に造られた最上層。

 しかし全力の一撃を見舞えば飴細工と大差無し。

 かつてない力の昂りは、我自身を巨大な炎の塊へと変える。

 開いた大穴に迷う事なく飛び込む。

 

「何処だ、宿敵よ、愛しき方よ……!!

 我は此処だ、此処にいるぞ!!」

 

 程なく見えてくる戦場。

 この何処かにいるはずの、我が求める者達へ。

 胸に燃える昂りを解き放つように、我はあらんかぎりの声で叫ぶ。

 それは今、初めてこの世に生まれ落ちた産声に似ていた。


 

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