119話:邪悪なる者の追想(後)
予想通り、それは一頭の赤い竜だった。
広げた大きな翼も、力が漲った太い四肢も、頑強そうな胴体も。
そして長い首に鋭い印象の顔まで、全て真っ赤な鱗を纏った古竜。
流れる血の色ではなく、燃え盛る紅蓮の輝き。
暗い夜の山林では、その姿は巨大な篝火のようにも見えた。
『…………』
私からやや離れた位置に降り立った赤竜。
当然のように知っている相手だ。
私と同じく偉大なる《造物主》の手で創生された《古き王》の一柱。
兄弟のような存在で、当然知っている――が。
全部で二十いる古の竜王達。
最初に生み出された長子である私とて、その全てと密に交流があるわけじゃない。
むしろ私は嫌われてる方で、露骨に避けている者も少なくはない。
だから同じ《古き王》と言っても、全員を詳細に把握出来ているとは言い難い。
そう考えると、この赤竜――「彼」は別に、私を嫌ってる様子は無いはずだ。
むしろ口数は少ないけれど、長子である私に対しては従順な方だ。
これまでにも何度か「頼み事」を任せた事もある。
その時も交わした言葉は少ないので、どうにも印象が弱いけど。
今も私を無言で見ていたと思ったら、そのまま頭を垂れるだけで何も言わない。
まぁ、元々寡黙な方なんでしょう。
別に無視しても良かったが、今日は少し気分も良い。
わざわざ私のところに来たのなら、何か用事でもあるのかもしれない。
「良い夜ね。貴方も夜空の散歩かしら?」
『…………』
こっちから軽く挨拶をしてみると、赤竜はほんの少しだけ身震いする。
微妙な間を置いてから、ゆっくりと顔を上げて。
『……たまたま、この近くにいた』
「ええ」
『それで、お前の気配が現れるのを感じ取った』
「そうね、ちょっと前に《転移》したところだけど」
『……それだけだ。散歩と言えば、そうなのかもしれない』
結局、「彼」が何を言いたいのかは良く分からなかった。
記憶に残る会話の幾つかも、確か大体こんな感じだった気もする。
別にそれで困った事はないし、これからも困るような事は無いでしょうけど。
『……その姿』
「ん?」
『人間の形を、取るようになったのか』
「あぁ」
指摘されて、其処でようやく気付く。
今の私の姿は人間の少女を模した形だ。
これは《黒》と手を結んでから取るようになったもの。
そして今は多くをこの状態で過ごしている。
竜の姿でいるより、こっちの方が何かと便利だと気付いたからだ。
けれど《古き王》同士で顔を合わせる時は、習慣として竜の姿を取る事が多い。
その為、同じ竜王でも人間体を見せた相手はまだ少なかった。
成る程、見慣れない恰好だから少し戸惑っていたわけね。
「ちょっとね、私もこういう形を使い始めたの。
言葉遣いとかも合わせて変えているから違和感あったかしら?」
『いや――そんな事は無い』
「そう? 竜王の中には人間の形を取る事自体、馬鹿にしてる奴もいるけど。
何だかんだ言っても、今大陸で最も繁栄してるのは人間の領域。
こういう姿を使い慣れておくのも悪くないわよ?」
私の言葉に、「彼」は小さく頷いたようだった。
どういう姿か見せるように、私は赤竜の前で軽くステップを踏む。
本当に最初の頃は手足の動きにも注意が必要だったけど、今は大分慣れたもの。
どこぞのナメクジも、人の形を取ったばかりの頃は良く転んでいた事を思い出した。
まぁ私はそんな無様は晒した事はないけれど。
私はそのまま赤竜の目の前まで来る。
「彼」は動かず、ただ視線だけは私の事を追っていた。
「それで?」
『……何?』
「だから、私に何か用があったんじゃないの?」
まさか本当に、たまたま気配を感じたから寄って来たワケじゃないでしょう。
警戒してこっちに気付かれる前に離れる奴は珍しくないけど。
逆に顔を出しに来るなんて、何か無ければわざわざそんな事はしないはず。
普段ならばこんな事を聞いたりはしない。
けれど、今の私は少しだけ気分が良い。
あの炎の中で、今まさに私の望みが形を成しているかと思うと笑みすら零れる。
それに「彼」も、そう強い印象が無いとはいえ従順なのは確かだ。
そのご褒美ぐらいに願い事を聞いてやるのもいいかもしれない。
私はそう思って問いかけた。
対して、赤い竜は暫し口を閉ざして。
『……用が、無いわけじゃない』
「そう、何?」
『……お前が、此処にいた。
だから、俺は此処に来た――それだけ、だが』
やっぱり、赤竜が何を言いたいのか良く分からない。
思わず首を傾げてしまうが、「彼」は低く抑えた声で続ける。
『……何か、俺がするべき事は無いか』
「するべき事?」
『そうだ。俺が、何をするべきなのか。
お前が命じるなら、俺はその通りにする』
酷く真剣な様子で、赤竜はそんな言葉を口にした。
ちょっと意外だったから、私は直ぐには返す事が出来なかった。
従順だとは思っていたけれど、此処までだったかしら。
そう考えたところで、これまで「彼」と此処まで長く会話した事がないのを思い出す。
大抵の場合、私の方が用事があってそれを命令するだけで。
「彼」も特に多くは語らず、唯々諾々と従うのみ。
三言以上、言葉を交わした記憶も殆ど存在しないぐらいだ。
……さて、これは何と答えましょうか。
正直なところ、今は《黒》との事があるから下手に部外者を関わらせたくはない。
何処から情報が洩れるか分からないからだ。
それに「彼」は見た目通りの炎竜。
今は大人しい様子だけれど、いざ戦いとなれば誰より苛烈に昂る炎だ。
陰謀や奸計の類に向いているとは思えない。
……「彼」からの視線を感じる。
無い、と一言で切って捨てるのは簡単だが。
いずれはこの赤い竜も、私の野望の為に剣の贄となる運命だ。
なら今この時ぐらい、その望みを聞いてやっても良いだろうと。
気分の良かった私はそんな慈悲深い考えに至った。
とはいえ、本命の計画には関わらせられない。
だから。
「――そうね。
だったら、邪魔者を焼いて頂戴?」
『邪魔者? 偉大な竜王の長子であるお前を、邪魔できる者などいるのか』
「出来るかどうかは別にして、しようとする者は大勢いるわよ?
そのぐらい踏み潰すのは簡単だけど、それも数が多いと手間でしょう?」
『……それは、確かにそうだろうな』
割と適当に言ってるつもりだけど、「彼」は納得したようだった。
本当に、他の竜王達もこれぐらい従順なら楽なんだけど。
「彼」ならもしかしたら、命じれば自分から剣に斬られてくれるんじゃないかと。
そんな馬鹿げた事も考えてしまう。
「誰とも特定はしないし、そうしろとも言わないけど。
もし、私の邪魔になりそうなモノを、私が手を煩わせる前に排除してくれたら。
私としては大いに助かるのだけどね?」
『……分かった』
我ながら無茶苦茶だと思う言葉も、赤い竜は真面目に頷いた。
声を紡ぐ口元から、赤い火の粉がパラパラと落ちる。
『お前の邪魔をする者も、敵対する者も。
全て、俺の炎が一つ残らず灰に変えるだろう。
全て、お前が望む通りに』
「頼もしいわね」
それは本心から出た言葉だった。
こう言っておけば、後は勝手な判断で暴れてくれるだろうから。
その基準は「私の邪魔になるかもしれない」だけ。
曖昧で不確かなソレに従って、「彼」は大いに目立ってくれる事でしょう。
私は何もハッキリとは命じていない。
最悪、炎竜の暴走は四方を焼き払うでしょうが、それはそれで好都合。
上がる火の手が派手な程に落ちる影は暗くなる。
私は其処に潜み、謀の糸を手繰るだけ。
まぁあくまで求めるところは陽動だし、最悪役に立たない事も考慮している。
無論、そちらを口に出す事はないけど。
『…………その姿は』
「ん?」
『その姿は、何処かの人間を真似たモノなのか?』
不意の問いかけに、私は少なからず驚いた。
まさか人の姿の方を気にするなんて。
てっきり、「彼」は人間の形を取る事に興味なんて無いと思っていた。
冗談の類かと考えたけど、どうもそうではないらしい。
妙に真剣な目をした赤い竜に、私は少し笑って。
「参考にしたモデルはいるけど、それだけよ。そんなに気になる事?」
『…………いや』
短い返事と共に、「彼」は小さく首を横に振った。
何となく、私の答えに安堵したようにも見える。
其処にどういう理由があるかは――やっぱり良く分からないわね。
余談だけど、今言った「参考にしたモデル」というのは《黒》の事だ。
半分ぐらい嫌がらせ目的だし、本当に参考にした程度。
試しに造った形にしては悪くない感じに仕上がったし、思いの外違和感もない。
だから私は、この姿は割と気に入っていた。
「――それで、どう?」
『……?』
「だから、この姿。貴方から見てどう思う?」
それは戯れの問いかけ。
自分では気に入ってるけど、他人の評価を求めた事はなかった。
正直どうでも良いのだが、「彼」は私の人間体が気になっているらしい。
だから悪戯を仕掛けるつもりで聞いてみた。
さて、一体どう答えてくるかしら。
赤い竜は、何故か苦しげな声で唸る。
口を少しモゴモゴと動かして、それから一言。
『…………美しい、と思う』
「あら、ありがとう」
思ったよりも直球な賞賛だった。
普段の寡黙さを考えると、気の利いた台詞を期待する方が間違いか。
視線を伏せる赤竜を見上げて、私は小さく息を吐く。
さて、そろそろ散歩も飽きて来たわね。
「じゃあ、私はもう行くけど」
『……あぁ』
「此処で私と話した事は、他の兄弟達には話さないようにね」
『当然だ』
即座に返って来た声に、私は満足げに頷く。
他の連中もこれぐらい従順だったら私も楽なんだけどね。
また《転移》で跳んでも良かったけれど、直前で思い直した。
術式を一瞬で展開し、私は空に浮かび上がる。
竜の翼を使わず夜空を飛ぶのも一興かもしれない、
そんな私を赤い竜は見ていた。
こっちはもう一瞥を向ける事無く、そのまま星空へと飛び立つ。
翼で風を切る感覚も好きだけどこれはこれで悪くない。
頭上に広がる星々を眺めながらの高速飛行。
――いずれ必ず、この夜の果てへ。
死せる父が渡り来た場所も、それ以外の何処かも。
私はその全てに辿り着く。
その為にも竜殺しの剣を鍛え、それを何も知らない人間に与える。
最初は上手く行かないでしょうけど、まったく問題は無い。
時間は無限に等しくあり、人間もまた幾らでも転がっている。
全て、私の
「…………んっ……?」
目覚めは唐突に訪れた。
自分の漏らした寝息で、私は眠りの淵から浮かび上がる。
朝かと思ったけど、寝泊りしている部屋はまだ暗い。
勿論、私の目は暗闇ぐらいでは閉ざされない。
窓の外にもまだ日の気配がないのを確認してから、私は一つ吐息を漏らす。
随分と懐かしい夢を見た気がする。
今は遠い過去となってしまったかつての一幕。
夢で見た時期から程なくして、私と《黒》は竜を殺す魔剣を鍛え上げた。
そして最初の標的をボレアス――かつての《北の王》に定めた。
先ずは一人目、どうせ死ぬから誰でも良い。
私はそう考えて、初めに剣を持たせる人間を適当に選び出した。
……ええ、適当に選んだはずなんだけど。
「んがっ」
変なイビキが聞こえて来て、私はつい吹き出しそうになる。
それを何とか堪えて私は声の主を見た。
私の直ぐ傍でぐっすりと眠りこけている彼。
レックス。私にとっての唯一人。
どんな災厄じみた敵にも構わず挑む、唯一の竜殺し。
それも今は、私の前でだらしない寝相を披露してくれている。
みっともないと思うより、無防備な様を見れる事に喜びを感じてしまう。
――あぁ、本当にダメだな。私。
野望を捨てたワケじゃない。
今も心は未知なる先を、その果てを見たいと欲している。
けれど、それだけじゃない。
その野望と同じか、それより大切なモノが出来てしまっただけ。
少なくとも三千年。
本来なら望みに十分手が届くだけの時間を棒に振るぐらいには。
「……まったく。
自分がどれだけ罪深いのか、分かってるのかしら」
《最古の邪悪》だの《原初の大悪》だの、後は《最強最古》と何だったかしら。
兎も角、真名は口にする事さえ憚られ、幾つもの異名で呼ばれた私が。
こんなにも心を乱されてしまう。
とんでもない大罪だけど、それは私が望んだ罪でもあるから。
だから何も言わずに赦すしかない。
「……ズルいわね、もう」
今も兜の下に隠れた寝顔。
それは私だけの秘密だから隠したまま。
彼の首筋に、私は牙を触れさせた。
痛みで起きてしまわぬよう、痛覚を少し麻痺させて。
傷付いた皮膚から流れ出す血を、私はゆっくり舐め取った。
錯覚に過ぎないと分かっていても――熱くて、甘い。
嗚呼、きっとこれが罪の味なのだろう。
度が過ぎると肉まで齧り取ってしまいそうだから、ほんの少しだけ。
流れた血は全て舐めて、直ぐに傷は塞ぐ。
赤い痕だけがほんのり残る程度に。
「よし」
満足したので、私は再び眠る事にした。
彼の身体にぴったりと身を寄せながら瞼を閉じる。
こうして一緒に眠るという行為にも、随分と慣れて来た気がする。
また古い記憶を夢見るのか、それとも朝の訪れまで惰眠を貪るだけなのか。
そのどちらも良しと思えるのは、果たして堕落かしら。
そんな事を考えながら、私はまた眠りの淵へと沈んで行く。
後、夢と言えば。
「……何だったかしらね……?」
さっき見ていたばかりの夢の中身。
古い協力者であった魔法使い、《黒》と話していた事は覚えている。
そういえばあの男も、私が姿を消した後はどうなったのやら。
他の《始祖》達と同様に、気が触れてそのまま歴史に埋もれてしまったか。
余裕と機会があれば、その足取りも調べたいところね。
……それともう一つ、もう一つ何かを夢に見ていた気がする。
ただどうにも印象が薄かったのか。
泡沫の如く、目を覚ましたのを境に急速に記憶から抜け落ちてしまった。
私はあの時、誰と話をしていたのかしら。
「……まぁ、忘れたって事は大して重要じゃないって事よね……」
そう結論づけて、私は早々に思い出す事を放棄した。
そもそも今から眠るつもりなのだから、そんな事をしても仕方がない。
愛しい彼の熱をより感じられるように抱き締めて。
私はまた心地良い暗闇に己を委ねる事にした。
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