幕間7:水底で騎士に別れを告げる

 

  ……ふと、目が覚める。

 一体どれだけ眠り続けていたんだろう。

 ほんの少しにも、酷く長い時間が過ぎたような気もする。

 頭の奥が鈍く痛んだ。

 思い出そうとしても記憶の多くは霞がかっている。

 私は、どうしたんだっけ。

 まだ意識が判然としないけれど、とりあえず目を開く。

 其処は薄暗く、少し寂しい空気が流れている。

 手を付くと指先に感じるのは柔らかな草の感触。

 見回せば、辺りに見えるのは鬱蒼と繁る背の高い木々。

 頭上に見えるのは星々と月。

 私は何処かの森の中にいるようだった。

 身体の半分ほどを小さな泉に浸して、私はずっと眠っていたようだ。

 冷たい水に腰から下を沈めたまま、ぼんやりと夜空を眺める。

 私は何をしていたのか。

 凄く大事なことがあった気がする。

 けど思い出そうとすると、頭の奥が鈍く痛んだ。

 ……もう一度、眠ってしまうべきだろうか。

 何だかそれも正しい事のように思える。

 そうして、どれだけの時間を過ごしたか。

 

「……?」

 

 森は酷く静かだった。

 けれどその静寂の中に、微かに硬い音が混じる。

 カシャリ、カシャリと。

 金属同士が擦れ合う音だ。

 私は泉の中で音のする方を見ていた。

 あからさまに怪しいのに、不思議と警戒心は湧いてこない。

 むしろ、それをずっと待っていたような……。

 

「……嗚呼、良かった。お目覚めになられたのですね」

 

 太い枝を押し退けて、木々の隙間から一人の騎士が姿を見せた。

 無骨なデザインの甲冑には、何だか見覚えがある。

 洗練されてるとはとても言えない足取りで、「彼」は私の方へと近づいて来る。

 一歩ずつ、ゆっくりだけど確実に。

 私は黙ってその様子を見ていた。

 何故だろう、目の奥が妙に熱くなっている。

 知らない。思い出そうとしても、頭が酷く痛むばかり。

 だから私は、「彼」を知らないはずなのに。

 なのに、どうして――。

 

「マレウス。泣いておられるのですか」

「え……?」

 

 マレウスと、無骨な騎士はその名を呼んだ。

 そうだ、私はマレウスだ。

 今その瞬間まで、私は自身の名前すら忘れていた。

 そんな事にも気付かなかった私に、騎士はそっと跪く。

 私の沈む泉の畔で、「彼」は私を見ていた。

 手を伸ばせば触れられる距離。

 けれどまだ、私も「彼」もそうしない。

 頬を流れ落ちる涙はとても熱いものに感じられた。

 

「っ……ごめんなさい、私は……貴方の事を……」

「良いのです、マレウス。

 私自身、もう己が何者だったかを思い出せない。

 これは目覚める前に見る夢。

 今一時だけの泡沫なのですから、何も貴女に罪はありません」

 

 彼は――名前も分からない騎士は、そう私に諭すように語り掛けて。

 それから少し躊躇いがちにその手を伸ばした。

 私はただじっと、彼の指先を見ていた。

 不器用な手つきで涙を拭われるのが妙にくすぐったい。

 兜に隠れた奥で、騎士は安堵の吐息を漏らす。

 

「立てますか、マレウス」

「え? うん……多分」

「心配でしたら、どうかお手を」

 

 浸かっている泉は大して深くはない。

 座っている状態でも、精々が私の腰より高い程度だけど。

 見栄を張って立ち上がろうとしたら、あまり上手く行かない。

 チラリと騎士の方を見てしまう。

 「彼」は何も言わず、ただじっと私の声を待っていた。

 ……恥ずかしくて思わず赤面してしまいそう。

 だから無言で手を差し出すと、「彼」は黙ってその手を取ってくれた。

 思った以上に力が入らず、ちょっと苦戦してしまったけれど。

 騎士の手に支えられて、私は何とか泉から立ち上がった。

 両の足で立つ事すら随分と久しぶりな気がする。

 

「良かった」

「その、ごめんなさい。手を煩わせてしまって」

「気にする事はありません。

 むしろ貴女を支えられる事が私の喜びだ」

「……そう言われると、何だか恥ずかしいわね」

「魔女と名乗る貴女だが、そういうところは実に愛らしい」

「もうっ」

 

 ほんの少しだけ、騎士はからかうように笑った。

 それが本当に気恥ずかしくて、けれどそれ以上に嬉しくて。

 頬が熱くなるのを感じながら、私も笑っていた。

 本当に、心の底から笑っていた。

 足下に感じる泉の冷たさは遠く、空に見える月と星明りの温かさを感じる。

 あんなに離れて見えるのに、今は手を伸ばせば届く気がする。

 そんな私の様子に気付いたか、騎士は一つ頷いて。

 

「望めば、届きますよ」

「えっ?」

「もうこの泉の底で眠る事も、先の見えない森の中を彷徨う必要もない。

 貴女が望めば、あの夜空の向こうに手は届く」

 

 そう語りながら、「彼」は光に彩られた夜を指差した。

 見上げる私の耳には、誰かの声が聞こえてくる。

 聞こえるはずがないのに、それは確かに私の耳に届いた。

 誰かが私を呼んでる。

 思い出そうとすると頭が痛むけれど。

 大切な――とても大切な誰かが、私の名前を呼んでいる。

 行かなければと、そう考えた瞬間に。

 

「きゃっ……!?」

 

 ふわりと、唐突に足元が浮かび上がった。

 ふわふわと、まるで私自身が風船になったみたいに。

 咄嗟に「彼」の手を掴んでしまった。

 私の指先を、硬く温かな熱が包み込む。

 

「怖がる事はありません。これは夢なのですから」

「そ、そうよね……感覚がリアルだから、ついビックリしちゃったけど」

「あの明かりを目指して下さい。

 迷う事はもう何もない。貴女は自由です」

「……うん」

 

 励ます「彼」の言葉に、私は小さく頷く。

 身体を包む浮遊感。

 きっとこれに従えば、私は本当の意味で目を覚ます。

 あの夜空の向こう、私の事を呼んでくれている誰かの元で。

 それは良い、むしろ喜びが胸を満たすのが分かる。

 けれど、私は掴んだ指を離せずにいた。

 

「ねぇ」

「はい」

「……貴方は?」

「私もまた、貴女が見る夢の一部です」

 

 それは、余りにも明確な答えだった。

 言葉が咄嗟に出て来なかった。

 名前は思い出せない。

 「彼」が何者で、何処の誰だったのか。

 思い出せない、少なくとも今は何も。

 けれど分かるのだ。私の魂は「彼」の事を覚えている。

 あの月夜に語らったひと時を、私はずっと覚えているはずなのに。

 喜びの強さと同じぐらいに、私の中の悲しみが深まる。

 きっと、「彼」とはもう此処までだ。

 私は助かるのに、「彼」はもう……――。

 

「……マレウス、どうか悲しまないで欲しい。

 貴女が悲しみの涙をこぼす度に、私の魂は砕けそうになる」

 

 私を夢の底へと繋ぎ止める楔。

 掴んだままの指先を、「彼」は優しく包み込んだ。

 籠手の上からでは感じるはずのない体温。

 これは夢で、全ては現実ではなく虚構に過ぎないはずなのに。

 温かい。その熱は私の悲しみを癒してくれる。

 

「私は――『私達』はもう十分に、貴女に幸せにして貰った。

 だから次は、貴女の番です」

 

 優しく、何処までも真摯に。

 「彼」は……いいえ、「彼ら」は私の幸せを願ってくれる。

 けど、だけど。

 

「っ……私だって……」

「マレウス?」

「私だって――貴方達に、いっぱい幸せを貰ったわ。

 昔だけじゃない、今もきっと」

 

 痛む頭の中で、記憶の大半は霧の向こう側。

 けれど私は確信を持ってそう言えた。

 幸せだったのは、貴方達だけじゃないって。

 私達はきっと、お互いに幸せを与え合う事が出来ていたと。

 そんな私の言葉に、「彼ら」はほんの少し沈黙して。

 

「……それなら、良かった」

 

 心の底からの喜びが、その一言に全て詰まっていた。

 頬を流れる涙を、騎士はまたその指先で拭ってくれる。

 

「行ってください、マレウス。

 貴女の目覚めを待っている者達がいる」

「……うん」

「『私達』はその為に此処にいます。どうか、この最後の望みを叶えて欲しい」

「……ええ、分かったわ」

「ありがとう。そして最後までワガママを言ってしまい、申し訳ない」

「本当は、もっといっぱい言って欲しかったわ」

 

 名残惜しむ気持ちを抑え込んで。

 絡んだ指先は、そっと離れた。

 身体を包む浮遊感に今度は逆らわなかった。

 ゆっくりと、けれど確実に。

 私は沈んでいた夢の底から離れて行く。

 上昇する速度は緩やかでも。

 私と騎士の距離は直ぐに開いてしまう。

 ほんの少し前までは触れ合っていたはずの指先。

 それが今は永遠よりも遠い。

 

「……どうか」

 

 囁く声だけは、どれだけ離れていても耳に届く。

 けどそれも間もなく聞こえなくなってしまう。

 

「どうか、幸せに」

 

 それが、私に届いた最後の言葉。

 溢れる涙は止められないけど。

 せめて笑って、私は去り行く騎士を見送る。

 私の身体――いえ魂は目覚めに向かう。

 遠く、遠く、離れて行く距離。

 霞んで見えなくなるまで、私は騎士を見送る。

 

「……《七不思議》実験は、以上を持って完了とする。

 良い旅を、私の麗しき魔女よマイ・フェア・レディ

  

 囁かれる言葉は、私には届かない。

 星明りは消えて、全てが闇に包まれる。

 けれど恐ろしさは無い。

 泡沫の夢が終わっただけだと、私は知っているから。

 そして体に触れる柔らかな感触。

 心地良い熱と、愛しいあの人の声がする。

 瞼を開こうとして、強い光に目が眩んでしまう。

 久しく見ていなかった気がする、太陽の光。

 

「――ほら、いい加減に起きなさい。マレウス」

「っ……」

 

 応えようとして、喉から上手く声が出なかった。

 小さく咳き込むと、細い指先が私の喉元を軽くなぞった。

 柔らかい熱が伝わり、私は小さく吐息を漏らす。

 今度はちゃんと言葉が出て来そう。

 

「姉、さん……」

「その呼び名は止めなさいと言ったはずだけど――まぁ良いわ。

 今のぐらいは許して上げる」

 

 少しだけ。

 本当に少しだけだけど。

 私を膝の上に抱いて、応えるアウローラの声は優しげで。

 つい、涙が溢れそうになった。

 大量の水に濡れた校舎の屋上に、空から暖かな陽光が差し込む。

 見上げる先にはもう雲一つない。

 

「……どうやら大丈夫そうだな」

 

 そう言って、甲冑姿の彼が後ろから覗き込んで来た。

 一瞬、その姿に別の誰かを重ねてしまうけど。

 小さく首を横に振ってそれを否定する。

 違う、彼はレックスだ。

 私を見送った騎士じゃない。

 

「マレウス?」

「あ――ううん、大丈夫よ。ありがとう」

 

 少し黙ってしまった私を、アウローラが心配そうに見ていた。

 安心させるように笑って――それから。

 つい我慢できずに、その身体を抱き締めた。

 手足にはまだ力が上手く入らないけど、出来る限り強く。

 アウローラは僅かに戸惑って……それから少しだけ、抱き締め返してくれた。

 

「これまでの事は覚えてる?」

「全部ではないけど……覚えてるわ。

 いっぱい迷惑をかけてしまって、ごめんなさい。姉さん」

「姉さんは止めなさいったら。

 ……それと、別に貴女が謝る必要ないわ。何とかなったしね」

「滅茶苦茶大変だったけどな」

 

 大変とか、そんなレベルじゃなかったでしょうに。

 私達の傍らに腰を下ろしてレックスは笑う。

 剣を軽く支えにしながら一息吐いて。

 

「とりあえず、全員無事のはずだ。

 ボレアスも剣に戻ってる。今はまだダウン中だけどな」

「全員、大丈夫なのね? 良かった……」

「ただ……」

 

 珍しくレックスが言い淀む。

 ほんの少しだけ、言葉に迷う仕草を見せてから。

 

「……『学園長』だけは、完全に反応が無くなった。

 俺達と別れる前に、自分が壊れても他は守るみたいに言ってたが」

「……そう」

 

 それに関しては、驚くほど冷静に受け止められた。

 泡沫の夢と、そう言っていたけど。

 私はあの別れを覚えてる。

 だからまた涙を流さずに済んだ。

 今はもう「学園長」が誰だったのかは分かっていた。

 名前は時間の彼方に埋もれてしまっても、あの優しい時間は胸に残っている。

 ……やっぱり、まだほんの少しだけ寂しいかな。

 少し俯いた私の髪を、アウローラはそっと撫でてくれた。

 何も言わず、むしろかなり困った顔で。

 触れる指先は不器用だけど、泣いてしまいそうなぐらい心地良かった。

 そこはぐっと堪えて、私は笑う。

 

「……姉さん。私、貴女に言わなくちゃいけない事があるの」

「今更なに?」

 

 姉さん呼びにはもう突っ込まず。

 言いたい事があるなら言いなさいと、彼女は小さく首を傾げる。

 だから私は遠慮なく、その言葉を口にした。

 

「――ただいま、姉さん」

 

 それに対して、姉さん――アウローラは、ほんの一瞬だけ呆気に取られて。

 それから直ぐに微笑み返してくれた。

 

「ええ、おかえりなさい。寝坊助のマレウス」

 

 そんな、なんて事のない穏やかな一言が。

 長い長い、私の悪夢の終わりを告げた。

 

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