116話:最後の一息

 

 途切れて沈みかけた意識が、急速に引き上げられていく。

 指に触れる感触は優しく、けれど力強い。

 黒く染まっていた視界も少しずつだが晴れて来て……。

 

「……んっ」

 

 聞こえたのはか細い吐息。

 最初に見えたのは、これ以上なく間近にあるアウローラの顔だった。

 周囲は暗闇だが何故かその姿はハッキリと認識できる。

 鼻先が触れ合いそうな距離。

 実際に触れていた感触は口元に残っていた。

 俺が目覚めたのを確認すると、彼女は心底安堵した様で笑う。

 

「お目覚め?」

「おかげ様で爽やかにな」

 

 その言葉にクスリと喉を鳴らし、細い指は俺の顔を兜で隠す。

 それから改めて周りの状況を確認した。

 端的に言えば、真っ暗い水の底のような場所。

 ちょっと曖昧になっていたが、俺は直前の状況を思い出す。

 確か真っ黒い水に変わった真竜に呑み込まれて……。

 

「……貴方、身体の方は大丈夫?」

「ん? 大丈夫――って程、大丈夫じゃないな」

 

 気遣うアウローラの声に頷きかけたところで、ようやく気付く。

 身体から力が奪われているような感覚に。

 良く見ればアウローラ自身もさっきまで以上に消耗しているのが見て取れた。

 これはつまり、そういう状況なわけか。

 

「怪物に丸呑みされて、徐々に溶かされてる状態ね。

 私も何とか防御はしてるけど、確実に削られ続けてる。

 ボレアスの反応は?」

「……無い、な。多分だが、そっちもそっちで守りに専念してるんだと思う」

 

 剣の柄を握り、自分の内側へと呼び掛けてはみる。

 だが声などの反応は返って来ず、しかし燃える火の感覚は途絶えていない。

 消されまいと、呑み込まれまいと。

 あっちはあっちで全力を尽くしている事は伝わってくる。

 おかげで俺も今は何とか持ち堪える事が出来ていた。

 

『――流石に、このような事態は想定外だ。過去に前例が無い』

 

 機械的なその声は、意外なほど近くで聞こえて来た。

 暗い水の底から巨大騎士が浮かび上がる。

 その甲冑に帯びる雷光は弱々しく、心無しか語る言葉にも力が無い。

 こっちも大分削られてるっぽいな。

 

「大丈夫か、『学園長』……で良いんだよな?」

『それで構わない。そして大丈夫かと問われれば否だな。

 逃れられない環境で、全方位から常時攻撃を加えられているような状態だ。

 戦闘に回していた魔力を防御に回した。

  これで吸収からの質量による圧壊は何とか阻止している。

 それはイヴリス達を含めた、君ら以外の人員も含めての事だ。

 この《魔女の騎士》だけならば、最悪特攻するのも考慮したがね』

「悪いな、それは助かる」

『生徒を守るという務めを思い出したに過ぎん。礼を言う必要は無い』

「ま、こっちはそこまで守って上げる余裕もないから。

 其処は素直に感謝してあげる」

 

 態度は大きめながらも、アウローラも「学園長」に礼を口にする。

 とりあえず、テレサやイヴリス達が無事なのは朗報だ。

 問題があるとすれば。

 

「で、どんぐらい持つ?」

『私の機能停止まで考慮しても五分をやや上回るかどうかだ。

 今こうしている間も、着実に消耗を強いられている』

「じゃ、あんま余裕ねぇな」

 

 頷いて、俺は再度周りに目を向けた。

 見渡す限りの闇、闇、闇。

 光は一切見当たらず、暗い水底だけが広がり続ける空間。

 何かの勘違いでもなければ、此処は間違いなくあの真竜の腹の中だ。

 このまま喰われてお陀仏の可能性は十分ある。

 だが――。

 

「……何処かに、真竜――いえ、マレウスの本体がいるはず」

 

 たった一つの勝機を、アウローラが言葉にした。

 俺からすると「そうだったらいいなぁ」ぐらいの希望だったが。

 彼女がそう言うなら間違いない。

 どうやら「学園長」も同じ考えのようで、何となく頷いたような気配がする。

 

『君の推測は正確だろう。

 だが此処は明らかに空間が歪曲している。

 物理的な距離は殆ど意味を為さなくなっているはずだ』

「問題ないわ。私を誰だと思ってるの?」

 

 言いながら、アウローラは軽く俺の手を引いた。

 俺には全然分からんが、彼女はもう「当たり」を付けているらしい。

 黒い水に沈んでいるような状態だが、その足取りに迷いは無い。

 こっちは素直にその後に続いた。

 

「大丈夫か?」

「愚問ね。貴方こそ、直ぐに頑張って貰う事になるけど平気?」

「それこそ愚問だよなぁ」

 

 いつも通りしくじったら死ぬだけだ。

 現状が最悪の底近くとも、俺には剣を握る力は残ってる。

 だからそう――全てはいつもの通りだ。

 

「こっちは私達に任せなさい。

 そっちはお守りの方を任せたわよ?」

『無論だ。この機能が停止する瞬間まで全力を果たすと誓おう』

 

 アウローラの言葉に巨大騎士が頷く。

 それから俺とアウローラ、それぞれに意識を向けて。

 

『どうか――彼女マレウスを、宜しく頼む』

「あぁ。そっちも頼んだぞ」

 

 その言葉を最後に、俺達と「学園長」は別れた。

 何かの境界を越えたのか、ただでさえ暗い周囲の様子が完全な暗黒に沈む。

 先程までは見えていた巨大騎士の姿も今は遠く。

 息苦しい――どころか、常に喉元を締め上げられているような水の底。

 俺はアウローラに導かれるように、どんどんと沈み続けた。

 竜王二人分の護りがなければ、とっくに死んでもおかしくは無い。

 常人なら水に呑まれた時点で終わりだろう。

 

「……っ……」

 

 音すら呑まれて消えそうな深淵。

 微かに耳に入ってくるのは、アウローラが漏らす苦しげな声だ。

 此処までの戦いだけでも十分以上に消耗してるはずだ。

 更に今は自分や俺を守る為の常に力を使っている。

 大丈夫なワケもない。

 だがアウローラは、俺に「愚問だ」と応えた。

 だったらこっちはその言葉を信じるだけで良い。

 もし万一があるなら、こっちが頑張れば済む話だ。

 どう頑張れば良いかとかは、まぁその時に考えよう。

 兎も角、俺達は闇の奥底を目指す。

 やがて何も変わらない暗黒に、求める姿を見つけた。

 

「……マレウス」

 

 俺は自然とその名を呟く。

 渦巻く闇の中心。

 全てを蝕み喰らう黒水の底の底。

 横たわるマレウスの姿は、ただ眠っているようにも見えた。

 水底で眠り続ける魔女。

 それが彼女の魂であり、真竜マレフィカルムの本体であると直感で理解する。

 今のところ、見た目上の危険はないが……。

 

「レックス、構えて」

 

 静かに発せられたアウローラの警告。

 俺は即座に手にした剣を構える。

 繋いでいた指は一度解いて、アウローラを背に庇う形で踏み出した。

 同時に闇が蠢いた。

 恐らくはずっと、マレウスの周囲に溶け込んでいたんだろう。

 敵意、害意、悪意、後は憤怒に憎悪。

 何もかもを呪い殺そうとするような暗黒が形を成す。

 それは真竜と化しても尚美しかった、マレウスの《竜体》とは程遠い。

 形状としてはでっかい蜥蜴に近かった。

 四肢には禍々しい爪を備え、見開いた四つの瞳は赤黒く燃える炎。

 醜く開かれた顎からは、シュウシュウと瘴気が漏れていた。

 

「アレが元凶――か?」

「恐らくはね。

 見たところマレウスの魔力……いえ、魂の一部が狂って暴走してるようだけど……」

 

 推測は口にしているが、具体的なところはどうも不明っぽい。

 まぁ確実なのは。

 

『――――――ッ!!!』

 

 あの黒蜥蜴が俺達の「敵」だって事ぐらいだ。

 金切り声に近い咆哮。

 たったそれだけで、身体に凄まじい重圧がかかって来た。

 俺達を呑み込んでいる真竜の暗黒。

 それが黒蜥蜴の声によってより強烈な生命吸収ドレインを仕掛けてくる。

 コイツはなかなかキツいが……!

 

「侮るなよ……!!」

 

 かなりブチギレた様子で叫ぶアウローラ。

 さっき見えた弱った様子など吹き飛ばすようにその力を滾らせる。

 アウローラの放つ、強烈な魂の輝き。

 さながら黄金色に燃える炎。

 俺達を喰い殺そうとする闇を、その光で逆に喰い潰して行く。

 

『ッ――――!?』

 

 まさかそういう形で反撃されるとは思っていなかったか。

 マレウスを囲い込むようにしながら、僅かに黒蜥蜴が怯んだ。

 それは獣が火を恐れる姿に似ていた。

 

「レックス、お願い……!」

「おう」

 

 そしてその隙をこっちも逃すつもりはない。

 アウローラの呼びかけに応え、押し退けられた闇の中を突っ切る。

 俺の身体にはアウローラの放った炎も宿っていた。

 剣から流れてくる熱も合わせて、俺は全力で駆ける。

 さっきまで感じていた重さも今は殆ど無い。

 だがそれもこの一瞬だけの事だ。

 勝機は糸よりも細いが、それをこじ開けるのが俺の役目だ。

 アウローラには「お願い」と言われた。

 そしてマレウスとも「出来れば助けて欲しい」と約束した。

 あとついでに、「学園長」からも頼まれたしな。

 だから俺は、走りながら剣を振り上げた。

 狙うは獣のように吼える黒蜥蜴。

 再び押し寄せる闇を刃で払い、宿った炎で押し開く。

 時間がない。黒蜥蜴がもし逃げ出したら、それだけで詰む状況。

 しかしコイツは逃げなかった。

 捕らえたマレウスを離したくはなかったのか。

 

『――――ッ!!!』

 

 分からないが、怒り狂った黒蜥蜴が咆哮する。

 腕を持ち上げ爪で俺を引き裂くつもりのようだが、遅い。

 

「いい加減に離れろよ……!」

 

 細かい部分を狙う余裕はない。

 刃を振り下ろした先は、その無駄に太い首。

 鱗の強度はそれほど大した事は無かった。

 今出せる力を全部腕に込めて、真っ直ぐ剣を叩き込む。

 深淵の底に、真っ黒い血が飛び散る。

 

「ッ……!」

 

 気合を吼えたつもりが、声にならなかった。

 首を胴体から完全に切り離されて、黒蜥蜴の巨体がグラリと揺れる。

 終わったと――そう感じた直後。

 まだコイツはくたばっていないと、俺の勘が告げる。

 

『アアァアアアアアア――――ッ!!』

 

 頭を揺さぶるような奇怪な断末魔。

 斬り落とした首は暗闇に沈み、後には黒い血を吹き出す胴体だけ。

 にも関わらず、黒蜥蜴は叫んでいた。

 殺意を、敵意を、害意を。

 理不尽と思えるほどの憤怒と憎悪を込めて。

 何をそんなにブチ切れてるかは知らんけどな。

 

「ホントにしつこいなコイツ……!!」

 

 黒い血は俺の鎧を染め、更にその下の身体に噛み付いて来る。

 宿る炎を消そうと、内に燃える熱を奪おうと。

 だがそんなもんは全部悪足掻きだ。

 構わずに、俺は更に剣を叩き込んだ。

 首を切っても死なないなら、後は死ぬまで刻み続ける。

 蠢く闇が装甲を無視して血肉を削ろうが。

 全部無視して刃を振るう。

 そして。

 

『ギイィイイアアアアア――――っ!!?』

 

 再び上がる断末魔の叫び。

 いやマジで死ねよいい加減……!

 トドメのつもりで振り抜いた一閃は、しかし何もない虚空を裂く。

 切り刻まれて殆どバラバラになった黒蜥蜴の残骸。

 それが黒い水のように溶けて、眠るマレウスへと迫る。

 何をする気か知らんが往生際の悪い。

 とりあえず火矢でも飛ばして牽制しようとした――が。

 

「……ありがとう、レックス。もう十分よ」

 

 融けた黒水が届く前に。

 眠ったままのマレウスを、細い腕が掻き抱く。

 俺に対しては穏やかに微笑みながら、その眼は赫怒に燃えている。

 そう、アウローラは笑っていた。

 笑いながら、その手は闇色の水を掴んでいた。

 白い肌にソレは僅かに牙を立てるが。

 

 

 最後の言葉は、何処までも無慈悲で簡潔だった。

 噴き出したのは黄金に輝く炎。

 アウローラは残る力を文字通りに燃やし、マレウスに纏わりつく闇を焼き払う。

 響く断末魔は音の形すら為していない。

 焼き付くされ、余す事なく炎に包まれながらも。

 闇の残滓はアウローラの指をすり抜け、今度は周囲の暗黒へ逃げようとする。

 ――当然、そんなもん許す気ないが。

 

「終わりだ」

 

 俺も手短に処刑宣告をして。

 最後の一閃は、醜くのたうつ闇を切り裂く。

 何かを断ち斬る感触を切っ先に感じた瞬間、俺は少しだけ息を吐いた。

 それは終わりを確信した、最後の一息だった。

 

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