第七章:水底の魔女が目覚める時

110話:存在しない七番目

 

「で、流石に観念したってことで良いんだよな?」

「ええ、意外と心配性ですね?」

 

 念の為に確認すると、イヴリスは変わらない笑みで応えた。

 彼女を取り押さえた事で、美術室に流れていた瘴気は一旦治まった。

 怪異と化していた絵画や石膏像も、今は一つも動かない。

 俺とマレウス、それからイヴリスの三人は改めてその絵の前に立っていた。

 微笑むマレウスの姿を描いた、美術室の怪異を司る核。

 これを壊すか、若しくは「完成」させれば良いという話だが。

 

「どうする?」

「……そうね」

 

 壊すのなら俺が剣で一発叩けば終わりだ。

 だがまぁ、何か色々あるっぽいし。

 とりあえずどうするのか、マレウスに聞いてみる。

 先程の戦いで刻まれた傷は既に塞がっている。

 絵画の中と変わらない彼女は、少し悩みながら絵の中の自分を見ていた。

 そうしてから、イヴリスの方に視線を移す。

 

「……この絵を完成させる、というのは。

 具体的にどうすれば良いの?」

「マレウス先生の髪の色、綺麗な赤色じゃないですか。

 私はずっと、その色を上手く出せなくて。

 それだけがなかなか納得行かなかった」

 

 イヴリス――この絵を描いたという幽霊少女。

 生きた人間にしか見えない蒼褪めた少女は、穏やかに笑いながら応える。

 一歩、二歩と、彼女は絵の傍に歩み寄る。

 そして筆を持ち上げると、その先をゆっくりと近付けた。

 筆先はさっき受けたマレウスの血で赤く濡れていた。

 

「……マレウス先生」

「ええ」

「この筆を入れれば、美術室の怪異は停止します。

 それで《七不思議》として設定された、全ての『幻想』が終了する」

「ん? 今これで六つ目だよな?」

「ええ、貴方の言う通りよレックス。けれど真実は既に語られてる通り。

 『七番目の不思議は存在しない』――《七不思議》は六番目まで。

 最後の七つ目だけは違うんですよ」

 

 イヴリスの語る言葉はイマイチ理解できなかった。

 できなかったが、この作業が終われば何かが起こるのは確実らしい。

 それが恐らく、「存在しない」とされる七番目の不思議なのも。

 

「全ての《七不思議》は、七番目の不思議を隠す為に用意された。

 『存在しない』と鍵をかける事で、『ソレ』が目覚めるのを遅らせる為。

 ……けど、その封印が持つのは凡そ一年。

 だから《黄金夜会私達》はその周期で《七不思議》に対処して来たんです」

「イヴリス……貴女は……」

「……さぁ、後は実際にやった方が早いでしょう。

 もう美術室の怪異は半ば崩れ出してる。

 《学園》の方の《寓話結界》にも影響が出ているはず」

 

 言いながら、イヴリスの持つ筆が絵画の中のマレウスに触れた。

 髪の色に、更に鮮やかな赤色を加えて行く。

 ゆっくりと慎重に、イヴリスはその絵を完成させる作業に入る。

 目線はしっかりと絵画に向けたままで、イヴリスは言葉を続けた。

 

「レックス、今回は貴方達のおかげで色々と助かりました。

 普段は此処まで辿り着くのに、夜会のメンバーは殆ど死んでるんですけど」

「マジか」

「ええ、ホーエンハイムやオーガスタはちょっと死にかけたようですが。

 犠牲者無しでの最終段階ラストステージは初めての事です」

「そりゃ良かった……って言って良いのか?」

「いいですよ、マレウス先生もそんな顔しないで下さい」

 

 クスクスと笑うイヴリスに、流石に表情が重いマレウス。

 絵画の完成が近付く。

 

「言葉で語るには余りに色々あり過ぎまして。

 マレウス先生には申し訳なく思います」

「それは、別に構わないわ。……全部、私に原因があるのよね?」

「貴女には何の罪もありませんよ。

 けど、全てが貴女の為に始められた事なのも事実です」

 

 語りながら、イヴリスは手を止めなかった。

 ただ、この時間を少しばかり惜しんでいるようでもあった。

 筆は淀みなく、けれどゆっくりと進む。

 

「……この絵が完成した時。

 きっと、マレウス先生は地獄を見る事になる。

 今まで蓋をされていたモノが、全て表に溢れ出してしまう」

「…………」

「何度も見て来ました。何度も、何度も。

 私を含めた夜会のメンバーは、それを何とかしたいと『学園長』と契約した。

 ――どれだけ失敗を繰り返しても、最低限この《学園》は守れる。

 だから私達は何度も同じ事を続けて来た」

 

 言葉は途切れて、イヴリスはキャンパスからそっと筆を離した。

 どうやら作業は完了したようだ。

 見れば、其処には赤い髪をより鮮やかにしたマレウスの姿があった。

 芸術とかに無知な俺でも、思わず唸るぐらいの良い出来だ。

 

「上手いモンだな」

「お褒めに預かり光栄ですよ」

 

 素直な賞賛に、イヴリスは少しだけ照れ臭そうに笑った。

 その表情は年相応のモノに見えた。

 一息吐いた少女の手から、筆が塵になって消える。

 筆だけじゃなく、美術室全体が同様に薄らいでいく。

 絵画が完成した事で、怪異が停止する条件が整ったようだ。

 崩壊は絵を中心に進んでいるが、これは俺達は大丈夫なんだろうか。

 

「これは現実を上書きしていた《寓話結界》が崩れてるだけなので。

 心配しなくとも何処かに放り出されたりはしませんよ」

「そうか。それなら良いんだが」

「勿論、だからと言ってこれでオシマイじゃあないですけどね」

 

 あぁ、むしろこっからが本番だろう。

 表情を硬くするマレウスに、イヴリスは改めて向き合う。

 

「間もなく、存在しない七番目が始まります。

 ……ごめんなさい、マレウス先生。

 結局、私達では貴女を救う事は出来ませんでした」

「……謝らないで、イヴリス。私もまだ、ちゃんと理解は出来ていないけど。

 私や皆の為に、貴女はずっと繰り返して来たんでしょう?

 それこそ、何百年にも等しい時間を」

「正確な年月は、『学園長』にでも問い合わせないと分かりませんけどね」

 

 マレウスの言葉に、イヴリスは曖昧に笑ってみせた。

 何百年。イヴリスの言葉が正しいなら、《七不思議》は一年毎に目を覚ます。

 少女はそれを停止させる行為を、ずっと昔から続けて来たんだろう。

 何度も何度も、同じ事を諦めずに。

 古ぼけた美術室が、ボロボロと剥がれ落ちて行く。

 砕けた後に見えるのは黒い闇。

 てっきり、結界とやらが崩れたら現実に戻るかと思ったが。

 

「……レックス」

「ん?」

 

 マレウスに呼びかけられて、其方に顔を向ける。

 彼女はイヴリスから離れると、未だに崩れていない絵画の傍に立っていた。

 絵の中で穏やかに微笑む姿とは対照的に、その表情は泣き笑いに近い。

 

「多分だけど、私はもうすぐ『私』じゃなくなる。

 全部を理解出来てるわけじゃないけど、そういう予感はあったの。

 《七不思議》に関わっていけば、最後に『私』はおかしくなってしまうと」

「……それで、俺にどうして欲しい?」

「どうか、イヴリス達を守って上げて。それは私には出来ない事だから」

「分かった」

 

 頷く。そのぐらいならまぁ、何とかなるだろう。

 俺の言葉に、マレウスは安心したように微笑んでから。

 

「――それから、アウローラを。

 私の姉妹を、どうか宜しくお願いします」

 

 そう言って、一度深く頭を下げた。

 其処にあるのはアウローラに向けられた強い親愛の情。

 後はどうしようもないモノに対する諦観。

 

「それこそ改めて言われるまでもないけどな」

 

 あぁ、言われるまでもない。

 それは俺が最初から決めている事だ。

 だから、そうだな。

 この場合に言っておくべき事は一つだろう。

 

「今生の別れみたいに言うのは止せよ。

 出来るなんて軽々しくは保証してやれないが。

 助けて欲しいなら、俺に出来るだけの事はしてやる」

「――――」

 

 俺の答えが余程意外だったのか。

 マレウスは一瞬、呆気に取られたような顔をした。

 それからもう一度頭を下げて。

 

「……貴方が、あの人と一緒にいてくれて良かった」

「そうか」

「皆を、助けて貰える?」

「がんばる。で、お前は?」

「――はい。私も、出来たら助けて下さい」

「分かった、約束する」

 

 それが、この場で交わすマレウスとの最後の言葉だった。

 並んだ絵画と共に、いきなりマレウスの姿が跡形も無く消え去る。

 まるで最初から、其処には誰もいなかったかのように。

 美術室の怪異が停止した影響か、周りの空間は全て闇に染まっていた。

 そして。

 

『――警告、警告。

 第一から第六までの幻想異体の動作停止が確認されました。

 《学園》全体に展開中の《寓話結界》の密度低下。

 間もなく《七不思議》実験は最終段階へ移行します』

 

 何処からともなく、その無機質な声が響いて来た。

 どうやら本番が始まるらしい。

 

「……いつもは、この瞬間は憂鬱なんですけどね」

 

 いつの間にやら、イヴリスは俺の直ぐ横に立っていた。

 少し諦めの混じった笑顔で、広がる暗黒を見上げている。

 

「けど今は、いつもよりほんの少しだけ気が軽いですよ」

「そりゃまたどうしてだ?」

「助けてくれるんでしょう?」

「すごくがんばる」

 

 絶対に助けるとまでは流石に言えないからな。

 俺に出来るのはいつもそれだけだ。

 

「……そういえば、一つ聞いておきたい事がありました」

「何だ?」

「《学園》に入った時、貴方は『生徒』ではなかった。

 だから《寓話結界》のルールに引っ掛からず、精神的な影響も無かった。

 そのおかげで私は気兼ねなく協力を求める事が出来ましたが……」

「うん」

「貴方の目から見て、他の人達はおかしかったでしょう?

 私から《学園》のルールについて聞く前から気付いてはいたはず。

 どうにかしようとは思わなかったんですか?」

「あー、まぁちょっと様子がおかしい、ってのは直ぐ分かったけどな」

 

 何かアウローラまで含めて学生やるのに勤しんでたし。

 まぁだからこそなんだが。

 

「楽しそうだったからな、全員。

 邪魔しちゃ悪いだろ? ボレアスの奴はずっと眠そうだったけど」

「……成る程、納得しました。

 ちなみに眠そうだったのは、恐らくルール違反の影響でしょう。

 『学生は学業に勤しむべし』――本来なら強制力で無力化されるんですけどね」

「成る程なぁ」

 

 などと話していると、周囲の闇に変化が起こる。

 ザザッと、虫の羽音に似た耳障りな音。

 同時に、何も無かった闇に幾つもの光景が映し出された。

 聞こえるのは雑音だけで、映像もめまぐるしく変わり続ける。

 だから何も知らない俺には、見えているモノの断片しか理解できなかった。

 ――恐らくこれは、マレウスの過去だ。

 何か大きな獣を、彼女が大勢の人々と共に退けている光景。

 木造りの部屋で子供達に勉強を教えている光景。

 その子供達に混ざって、楽しそうに遊びに興じている光景。

 黒髪の少女と共に絵画を描く光景。

 そして月夜に、甲冑を帯びた騎士と水辺で語らう光景。

 様々な光景が泡のように浮かび上がり、直ぐに弾けて消え去る。

 見えたモノのいくつかは、《七不思議》のイメージと重なる気がした。

 俺の傍らでイヴリスも同じモノを見ていた。

 

「……全て、全て今のあの人が忘れてしまったもの。

 《七不思議》とは、かつて彼女と共に在った過去の歪んだ模倣。

 どれも必ず狂った怪異として現れる」

 

 イヴリスは歌うように語る。

 記憶の泡が全て消え去ると、再び闇が戻って来た。

 煩い雑音も消えた……が。

 何か、微かに聞こえてくる音があった。

 それは水音だった。

 最初は地面に水滴が落ちる程度。

 だが徐々に音は大きくなり、轟々と唸る大河にも等しくなる。

 閉ざされた闇の向こう側から、何かが来る。

 

「全ての思い出が過ぎ去った後に目覚める者。

 存在しない七番目の不思議、《水底の貴婦人オンディーヌ》。

 ――いいえ、秘されたもう一つの名前で呼ぶべきかしら」

 

 その言葉を聞きながら、俺は剣を構える。

 背にイヴリスを庇う形で立ち、水音が轟く闇へと警戒を向けた。

 ピシリと、軽い音を立てて亀裂が走る。

 何もないはずの闇を、無数の罅が覆い尽くしていく。

 そして。

 

「この都市の本当の支配者――

 

 とうとうイヴリスがその名前を口にした。

 その次の瞬間には、周囲の空間が粉々に砕け散る。

 闇が散った後に現れるのは現実の校舎。

 そしてそれらを破壊しながら押し寄せる大量の水だ。

 

「マジかよ」

 

 咄嗟にイヴリスの身体を捕まえて、俺は床を蹴った。

 満足にその場の状況も確認できていないが、無抵抗で水に呑まれるのはヤバい。

 その判断が功を奏したかは分からないが。

 ギリギリ濁流に潰される前に、俺はイヴリスと共に校舎の外に飛び出した。

 水が破壊した壁の一部、迷う暇も無く其処から身を投げる。

 多少高さはあったが、気合で両足から着地した。

 

「大丈夫か?」

「ええ、おかげさまで」

 

 そっと地面に下ろすと、イヴリスは微笑みながら一礼した。

 場所は運動や集会に用いる校庭グラウンドの一角。

 見上げると、大体五階の高さの壁に大穴が開いているのが見える。

 まぁまぁの高さから落ちたんだな。

 それは兎も角、だ。

 

「……アレか」

 

 視線は、壁の穴より更に高い位置へ。

 高く、高く、塔に似た校舎の頂上よりも更に高く。

 《学園》の上空に一頭の竜がいた。

 とりあえずデカい。

 都市の中心である《学園》も相当デカいが、それと並んで遜色ない巨大さ。

 全身に纏うのは青白く輝く水晶に似た鱗。

 背には光の加減で色を変える四枚の薄羽を広げるその姿。

 それはこれまで見たどんな竜よりも幻想的で美しい。

 そう、ただ見ているだけならば。

 其処に何の害意も無いのなら、ただその美しさを愛でていれば良い。

 だがその真竜の眼は赤く濁っていた。

 理由は分からないし、もしかしたら理由なんてないかもしれない。

 その竜は、マレウスであるはずのその竜は――激怒していた。

 

『――――』

 

 それは歌声に似ていた。

 真竜の鳴く声が美しい楽器の演奏のように鳴り響く。

 一瞬聞き惚れそうになるが、当然そんな余裕はなかった。

 声に込められているのは狂気じみた赫怒。

 空間を歪める程の魔力は破壊的な現象を引き起こす。

 

「おいおい……!」

 

 顕現した時も大量の水を撒き散らしていたが。

 今度のはそんな生易しい話じゃない。

 歌う真竜の頭上で渦巻く大瀑布。

 どれだけの質量があるのかとか、俺の頭じゃ及びも付かない。

 俺の隣で、イヴリスも同じモノを見上げて。

 

「これは――ダメかもしれませんね」

 

 正直俺もそう思う。

 イヴリスの呟く声に応えたわけじゃないだろうが。

 真竜がひと際高い声で鳴くと、巨大な水塊が容赦なく落ちて来た。

 

 

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