108話:子供の遊び

 

 古ぼけた美術室の中に沈黙が落ちる。

 絵具らしい独特の匂いが漂うその空間で。

 黒い髪の少女は、ただ無心に絵を描き続けている。

 美しく微笑む赤い髪の女性。

 キャンパスに写されたマレウスを、現実のマレウスが見ていた。

 動かない。いや、動けないんだろう。

 それでも彼女は何とか足を前へと踏み出した。

 全身が鉛に変わってしまったかのように。

 その歩みも何もかもが酷く重そうだ。

 俺は腰の剣に手を掛けるが、今はまだ様子を見る。

 

「……ねぇ、貴女は……」

 

 震える唇。

 マレウスは擦れた声を漏らす。

 黒髪の少女は応えない。

 相変わらず背を向けたままで、筆を動かすだけ。

 ぱっと見、少女の絵は殆ど完成しているように思えた。

 細部にまだ納得が行かないのか、髪に赤い色を重ね続けている。

 其処に、マレウスは一歩ずつ近づく。

 

「貴女は、一体、誰なの……?」

 

 呟くような声に、幽霊少女は応えない。

 マレウスは躊躇いながらも、ゆっくりと片手を伸ばす。

 その指先が、絵を描き続ける少女の肩に触れ――。

 

「……あ」

 

 触れた、と。

 そう思った瞬間に、少女の姿は消えていた。

 何処にもいない。

 消えた瞬間は俺の目にも映らなかった。

 少女は消えてしまったが、変わらず絵だけは残されている。

 マレウスがその前に立つと、それはまるで鏡のようにも見えた。

 

「……マレウス」

 

 俺はその名を呼びながら歩み寄る。

 特に危険は感じないが、それも一秒先は分からない。

 俺達は既に怪異に取り込まれているようだしな。

 ただ、声を掛けてもマレウスは直ぐには反応しなかった。

 微笑む絵画とは対照的に、その横顔からは感情の色が抜け落ちている。

 今、マレウスは何を思っているだろう。

 

「――良く描けた絵でしょう?」

 

 美術室に響く涼やかな声。

 イヴリスはそう言いながら、ゆっくりと此方に近付いて来る。

 

「これは残念ながら《原典》に記録されているだけの模造品コピーですけどね。

 本物も、同じぐらいには出来が良かったんですよ」

「絵とか芸術はイマイチ分からんが、確かに良く描けてると思うぞ」

「ありがとう御座います」

 

 俺の言葉にイヴリスは小さく笑った。

 その笑い方は、何となくこれまでと違う気がした。

 純粋に賛辞を受けた事を、喜んでいるような。

 けれど直ぐに少女の表情は変わる。

 いつもの如く、誰かを嘲っているような笑みに。

 

「……ねぇ、マレウス先生? 先生はどう思いますか?」

「イヴリス……」

「この絵、先生をモデルにしたものなんですよ?

 もう覚えていませんか?」

 

 ゆっくりと、一歩ずつ。

 絵から視線を外せないマレウスの傍に、イヴリスは近付く。

 もう手を伸ばせば届く距離だ。

 俺はまだ、その様子を見ているだけ。

 

「最初は本当に大変だったんですよ?

 なかなか納得の行く仕上がりにならなくて。

 でも少しずつ、苦労しながら筆を入れて……」

「……この絵、それに、幽霊少女の話は……」

「ええ、流石にもう分かりましたよね?」

 

 イヴリスは笑っている。

 吐息さえも震わせながら、マレウスはやっと絵画から目を離す。

 そして今や傍らに立つ少女を見た。

 色素が抜け落ちたかのような、蒼褪めた少女の顔を。

 イヴリスは笑っている。

 其処に浮かぶ感情は、安堵か諦めか。

 

「――《七不思議》の怪異、『美術室の幽霊少女』。

 その噂話に語られる「死んだ女子生徒」は、

 思い出しましたか? マレウス先生」

「イヴリス……!」

 

 その瞬間、一番早く動いたのは俺だった。

 向き合う二人の間に腕を差し込み、マレウスの身体を一息に引き寄せる。

 硬い感触が俺の腕を僅かに掠めた。

 床を蹴り、一度イヴリスとの間に距離を作る。

 

「やっぱり邪魔をしますか、貴方は」

「まぁ流石にな」

 

 言いながらも、イヴリスは特に驚いた様子も見せない。

 その手にはいつの間にやら一本のナイフが握られていた。

 刃の表面に少し付着している赤は、絵具なのか血液なのか。

 とりあえず、アレでマレウスを刺そうとした事だけは間違いない。

 

「イヴリスっ……! 貴女は、何を知ってるの……!?」

「大体の事は。けど、今はそんな話をするつもりはありませんよ。

 マレウス先生、先ずは此処の《七不思議》からです」

 

 俺の腕に抱えられたまま、マレウスは声を絞り出す。

 動揺と緊張で頭の中はグシャグシャだろう。

 何とか落ち着かせたいところだが、状況はそれを許してくれそうにない。

 今やイヴリスは、微笑みの下に殺意を隠す気は無いらしい。

 彼女がナイフを手にした瞬間から、美術室の空気は明らかに変質していた。

 十三階段や合わせ鏡にも劣らない瘴気。

 その中心で、イヴリスは平然と佇んでいた。

 

「幽霊少女は、他に比べたら無害とか言ってなかったか?」

「ええ、無害ですよ。でも私は有害なんです」

 

 片手でマレウスを庇いながら、もう片方の手で剣を抜く。

 イヴリスは自ら描いたという絵画を背に、ナイフを手の中で弄びながら微笑む。

 

「今回こそはと思ったんですけどね。

 やはり《七不思議》実験の結果はいつも通り例年通り。

 それならさっさと終わらせても良かったんですけど――」

「けど?」

「――だったら少しぐらい、遊んでみても良いと思いませんか?」

 

 そんなイヴリスの言葉に従うように。

 美術室全体が大きな音を立ててざわついた。

 視線を巡らせれば、直ぐに起こった異常を把握できた。

 室内に幾つも置かれたキャンパスや石膏像。

 それらがまるで生き物になったかのように動き出す。

 それを行っているのは、恐らくイヴリスだろう。

 

「此処は《寓話結界》の内側。《原典》の目は此処まで届かない。

 箱の内側がどうなっているのか、箱の外側から見えたら意味が無いですからね」

「イヴリス、貴女が何を言ってるのか、私には……」

「分からないですよね。ええ、そうでしょうとも。

 分からなくても仕方がない。貴女に何の罪もありませんよ、マレウス先生」

 

 混乱するマレウスに対して、イヴリスは穏やかに語り掛ける。

 その声はいっそ優しさに満ちていた。

 皮肉でも何でもなく、イヴリスは本心からマレウスを慈しんでいる。

 傍から聴いていてもそれは理解できた。

 ――だが。

 

「だからそれが、貴女の罪なんですよ。マレウス先生」

 

 貴女は悪くない。

 だが何も知らない事が貴女の罪だと。

 イヴリスは理不尽極まりない理屈でマレウスを糾弾する。

 言われてる方はそれこそ意味が分からんだろう。

 俺も割と意味不明で困ってる。

 しかしイヴリスはこっちの反応リアクションなど気にも留めない。

 

「“踊れ”」

 

 その一言には強い力が宿っていた。

 さながら女王に従う兵士達のように。

 美術室の絵画や石膏像の群れが、敵意を持って俺とマレウスを包囲する。

 これは完全に戦る気だな。

 

「《七不思議》を先ずどうにかするって話じゃなかったか?」

「ええ。美術室の怪異、その本体はこの絵です」

 

 俺の確認に、イヴリスは笑って頷く。

 それから自らの背後にある絵を示した。

 

「この絵が完成するか、或いは破壊すれば美術室の怪異は停止する。

 実に分かりやすいでしょう?」

「だな。で、それはやらないのか?」

「そうする前に少し遊びましょうと、そういう話ですよ」

「そっかー」

 

 そういう話なら仕方ないな。

 子供の遊びなら付き合うしかないだろう。

 ただ、当たり前だがマレウスは何も納得していない様子だ。

 訳も分からず、理解にも置き去りにされたまま。

 それでも彼女は教え子の名を呼ぶ。

 

「イヴリス! お願い、教えて! 一体私は、貴女に何をしたの……!?」

「――嫌ですよ、マレウス先生。

 優しい貴女に、そんな残酷な話はできません」

 

 悲痛に叫ぶマレウスを、イヴリスは優しく拒絶した。

 そして話は終わりとばかりに、絵画と石膏像の兵士達が動き出す。

 

「さぁ、この《寓話結界》は既に私の支配下。

 もたもたしてると子供の遊びに取り殺されてしまいますよ?」

 

 そう語る言葉の通り、今やイヴリスは怪異の女王と化していた。

 凄まじい勢いで芸術品の群れが俺達目掛けて殺到してくる。

 とりあえず剣で弾き落とすが、予想以上の圧力に若干腕が痺れる。

 魔力か何かで強化が施されているのか。

 硬さにしろ重さにしろ、見た目通りでは無いらしい。

 

「思ったより厄介だな」

 

 呟きながら、とりあえず片手にマレウスを抱える。

 放っておくと的にされかねん。

 そのまま迫る絵画を剣で斬り裂き、石膏像を正面から蹴り倒す。

 ゴリ押しで包囲の薄い部分を突き破るが、状況はあまり変わらない。

 ちらっと視線を向ければ、壊したはずの絵画が瞬く間に復元していた。

 やっぱ本体をどうにかしないとダメなタイプか。

 それに加えて――。

 

「――嗚呼、筆を取るなんて随分と久々ね。

 正直鈍ってるから、人に見せるのは恥ずかしいのだけど」

 

 イヴリスの手には一本の筆。

  先程まではナイフだったものが、いつの間にやら変化していた。

 それで白いキャンパスに色を乗せれば、それも怪異の兵隊になる。

 その上キャンパス自体もイヴリスの足下から自由に生えてくるらしい。

 物量が途切れないとなるとかなり面倒だな。

 一番分かりやすいのは、当然イヴリス自身を抑える事だが。

 

「大丈夫か?」

「っ……ごめんなさい、あんまり大丈夫じゃないかも」

「だろうなぁ」

 

 マレウスは文字通り混乱の渦中だろう。

 俺もイヴリスの考えは良く分からん。

 良く分からんが、一応知っている事はあった。

 

「俺がアイツから聞いたのは、この《学園》のカラクリについて。

 それと夜会メンバーが、アンタを助けたがってるって事ぐらいだ」

「あの子達が、私を……? いえ、それよりカラクリって」

「それはちょっと説明してる余裕が無さそうだな」

 

 言ってる傍から襲って来る影。

 それは剣を振り上げた騎士の像だった。

 大上段の一撃を逆に叩き折り、がら空きの胴体を柄尻で殴り砕く。

 死角から飛んで来た絵画は鎧で受け止める。

 かなりの衝撃だが、何とか踏ん張って耐え切った。

 

「防戦一方ですか?

 貴方ならこんな包囲ぐらい突き破って、一息に私を狙えるでしょうに」

「やろうと思えばやれるけどな」

 

 そう、やろうと思えばそんな難しい話じゃない。

 仕掛けて来たのがイヴリスである以上、やらない理由もそんなに無い。

 無いが、気になる事はあった。

 

?」

「と、言いますと?」

「真面目に殺す気なら、もうちょいやり方があるだろ」

 

 俺の指摘にも、イヴリスは変わらぬ笑みを見せるだけ。

 ただハッキリとした言葉は返さなかった。

 多分だが、最初からイヴリス自身の言う通りなんだろう。

 これは遊びだ。子供の遊び。

 目的は未だに不明瞭だが、イヴリスは俺やマレウスを殺したいわけじゃない。

 まるで反応を見るように、微妙に手を抜いた攻撃を繰り返す。

 

「ねぇ、イヴリスお願い! こんな事は止めて、私と話をして!」

「先生には何も分からないでしょう?

 それなら話す事なんてありませんよ、何もね」

 

 言葉がすれ違う間も、美術室の怪異は押し寄せてくる。

 マレウスを背に庇う形で俺は只管剣を振るう。

 弾いて斬り裂き、上から叩いて踏み潰す。

 頑張れば何とかなるが、やっぱり物量押しはしんどい。

 逆にイヴリスの方は欠片も消耗した様子はない。

 

「私は先生に思い出して欲しいだけなんです。

 そんなささやかな試みですら、今まで一度も成功しなかった」

「何を言ってるの、イヴリス……!」

「馬鹿馬鹿しい話ですよ。貴女には何の罪もないはずなのに」

 

 一方的に言いたい事だけを言い放つ。

 それは圧力を強める怪異の攻撃にも表れていた。

 単純にぶつける兵隊の量を増やされるだけでもなかなか辛い。

 その状況でも、イヴリスを斬るだけなら何とでもなる。

 だから。

 

「お前はどうしたい、マレウス」

「っ……レックス……」

「真意はどうあれ攻撃して来たわけだからな。

 斬って済ませるんだったらそれでいい。

 けど、お前はそうじゃないだろ?」

 

 合わせ鏡を砕いた夜。

 彼女は夜会を敵と見做したアウローラの前にすら立って見せた。

 それは生半可な覚悟じゃなかったはずだ。

 

「……ええ」

 

 俺の言葉に、マレウスは小さく頷いた。

 教え子が何を思っているかも見えず、自分の状況も把握できない。

 困惑するばかりでもおかしくは無いし、実際に少し前のマレウスはそうだった。

 だが、俺が少し突いただけで直ぐに意思を取り戻したようだ。

 その辺はやっぱり強いな。

 

「私はイヴリスに、本当の事を確かめなくちゃならない。

 けど、一人じゃあの子の説得は難しそうなの」

「手伝うよ。最初っからそのつもりだしな」

「……ありがとう」

 

 そう言ってマレウスは微笑む。

 その表情は、奇しくもイヴリスの背後に置かれた絵画にそっくりだった。

 マレウスは改めて、怪異を従える教え子に視線を向ける。

 

「――今は言葉は不要ですよ、マレウス先生。

 所詮は子供の遊び。だからこそ、真面目にやらないと」

 

 その眼に何を見たのかは、イヴリス自身にしか分からない事だ。

 彼女もまた微笑み、そして無数の怪異を己の手足も同然に操ってみせる。

 さて、先生が生徒に説教する為に、先ずは道を開くところからか。

 イヴリスの言葉に従うわけじゃあないが。

 俺は真面目に床を蹴り、全力で怪異の群れへと突撃した。


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